伊東豊雄(建築家)
乾久美子(建築家)
藤本壮介(建築家)
平田晃久(建築家)
畠山直哉(写真家)
国際交流基金(ジャパンファウンデーション)は、イタリアで開催される「ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」の国別参加部門に毎回参加し、日本館展示を主催しています。
日本館の看板(写真:畠山直哉)
日本館展示(写真:畠山直哉)
現在開催中の第13回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展では、建築家の伊東豊雄氏が日本館コミッショナーを務め、参加作家として建築家の乾久美子、藤本壮介、平田晃久、写真家の畠山直哉の4氏が出展しました。
左から、乾久美子、伊東豊雄、平田晃久、藤本壮介、畠山直哉
「ここに、建築は、可能か」をテーマとした日本館では、東日本大震災で壊滅的な被害を受けた陸前高田に、被災者のための憩いの場、「みんなの家」をつくるプロセスを展示しました。近代の「個」の意味を問い直し、建築は誰のために、そして何のためにつくるのか、という最もプリミティブなテーマを追求したその試みは、第13回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展国別参加部門の最優秀賞である、パヴィリオン賞(金獅子賞)を受賞しました。
第13回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展において、日本館は、パヴィリオン賞(金獅子賞)を受賞した。(写真:畠山直哉)
9月25日に「東日本大震災後の建築」と題して開催された報告会(於:東京大学情報学環福武ホール、共催:日本建築学会)の模様をレポートします。
「みんなの家」を陸前高田に作る
伊東:今日はたくさんの方にお集まりいただき、ありがとうございます。8月5日に出発前の会見をさせていただいて、それから約1か月半が経ちました。金獅子賞をいただけるとはまさか夢にも思っていなかった......というと、だいぶ嘘になりますね(笑)。ぜったいに獲ってやるぞ、というつもりでヴェネチアに出かけて行ったのですが、まずは今回どういった主旨の展示であったかというところから話したいと思います。
2011年7月末に国際交流基金から日本館コミッショナーの公募があり、私は「ここに、建築は、可能か」という企画を提案しました。日本館の公募とほぼ同時並行で、私は被災したみなさんが集まることのできる建物「みんなの家」をつくるプロジェクトを進めておりまして、昨年(2011年)の10月に仙台市宮城野区に最初の「みんなの家」を竣工いたしました。今回の日本館のプランは、その延長線上にあります。
仙台市宮城野区の「みんなの家」は私ひとりが設計を担当しましたが、今回は乾久美子さん、藤本壮介さん、平田晃久さんにチームを組んでいただいて設計をお願いしました。また畠山直哉さんには、写真家としてだけでなくコンセプトの組み立てのレベルから参加していただいています。今回の「みんなの家」を陸前高田につくることになったのも、同地の出身である畠山さんが撮影した被災直後の写真を見て、大いに感動したのがきっかけです。
陸前高田市気仙町今泉 2011年4月4日(写真:畠山直哉)
ですが、じつを言うと「みんなの家」を陸前高田に建てる予定ではありませんでした。当初は、ヴェネチア・ビエンナーレの会場内にある日本館の前庭に実際の建築をつくり、会期終了後に日本に移送して被災地の皆さんに活用していただくというプランでした。ですが、11月末の会期終了後に日本に移築するとなると、竣工は早くても来春以降になってしまいます。それでは遅すぎますし、そもそも展示のために建物をつくることが目的ではありません。ですから、ヴェネチアでの展示準備と並行するかたちで、実際に「みんなの家」を陸前高田につくっていくことになりました。
キーパーソン、菅原みき子さんとの出会い
具体的な作業が始まったのは、チーム全員で陸前高田を訪れた2011年11月26日です。そこでお会いしたのが菅原みき子さんです。菅原さんは、ご自身も被災されてお母さんとお姉さんを亡くされたのですが、驚くほどエネルギッシュに地域とそこに住む人々の支援活動をされている方です。そして、菅原さんたちが住んでいる仮設住宅の一角に「みんなの家」をつくることを決め、東京に戻ってからは、どういう建築をつくっていくべきか、という打ち合わせを重ねました。打ち合わせには畠山さんも参加して、写真家の視点からさまざまなコメントを寄せていただいています。
陸前高田2011年11月
ですが、この話し合いがかなり難航したんですね。もともと個性の強い建築家たちですから意見を1つにまとめるのは難しいだろうと予想していましたが、正直に言って想像以上に大変でした。これはもう一度陸前高田に行ってプランを見直すしかないと思っていた矢先、菅原さんが「良い敷地を見つけたから」と言って、我々をある場所に連れて行ってくださいました。そこはちょうど津波ですべてが流されてしまった平地に接する山裾という、非常にシンボリックな場所でした。そこからは、何もなくなった平野から海までを一望することができるのです。
(左)伊東事務所2011年12月、(右)場所が見つかる2012年1月26日
この象徴的な場所との出会いから、プロジェクトは急速に進み始めました。陸前高田の町を見下ろすことができる、櫓(やぐら)のような垂直性の強い建築であること。また、津波をかぶったことによる塩害で枯れてしまった杉を建材に使い、林のような構造をつくること。陸前高田に限らず、どの被災地に行っても山裾のところに枯れてしまった杉の木や松の木を見かけるのですが、構造的に建材として使用してもまったく問題がないんです。また、模型を見た畠山さんから「陸前高田の『けんか七夕』の山車を想像させますね」と言われたことにも刺激を受けたりしながら、じょじょに意思統一ができていきました。今年の5月に最終型を菅原さんたちにプレゼンテーションをして、いくつかのスペースが寄り集まって層をつくるような構造にすることが決まりました。
2012年2月26日の提案モデル
(左)2012年4月12日 陸前高田のみんなの家の資材となった杉、会場周辺のもの
(右)2012年5月19日 地元の方やボランティアが丸太の皮むき
ヴェネチア・ビエンナーレ日本館に建てられた陸前高田の杉柱
一方でヴェネチア・ビエンナーレ日本館のための計画も進んでいて、こちらは平田さんのチームが中心になって進めていきました。陸前高田の杉を持ち込み、会場内を上下に貫くシンボリックな柱を立て、また、会場周辺の木を加工して、スタディ模型のための台座にしました。さらに四方の壁面を覆うように、高さ4.5メートル、長さ60メートルの畠山さんが震災後の陸前高田の様子を撮影してくださったパノラマ写真を貼りました。このような写真は畠山さんもかつて撮ったことがありませんから、多くの決断が必要だったのではないかと思います。最終的には高性能のデジタルカメラを調達してくださって、本当にすばらしい写真を撮ってくださいました。今年(2012年)の6月末に撮られた写真ですので、瓦礫はほぼ片付けられていて何もなくなったところから緑が生いしげり始めています。一見すると、何でもない風景にも見えますが、ここには畠山さんのさまざまな想いが込められているように思います。
震災後の陸前高田の様子を畠山直哉氏が撮影した高さ4.5メートル、長さ60メートルのパノラマ写真。日本館の四方の壁面を覆うように展示された。(写真:畠山直哉)
建築家がコラボレーションすることの難しさ
乾:「みんなの家」のプランを聞いて、私が最初に感じたのはとまどいでした。その理由は2つありまして、1つは被災地に改めて何かを建てるということへのためらい。もう1つは複数の建築家がコラボレーションしてひとつの建物をつくることに対する困惑です。実際、最初の頃は3名の案がまったくバラバラでした。
ところが、菅原さんが探してくださった新しい敷地を一目見て、その状況が変わったんですね。震災後、菅原さんは高田第一中学校という、「みんなの家」建設現場のちょうど上にある中学校に避難されたそうです。そこで出会った方々と生活をともにするなかで、非常に緊密なコミュニティーが生まれたとお聞きしています。集団避難を終え、仮設住宅にそれぞれが分散して新しい生活を始めると、せっかく生まれたコミュニティーが失われてしまうことを菅原さんはとても気にされていて、そのつながりを保つような場所をつくりたいとおっしゃっていました。その話に私たちは感銘を受けて、希有な状況のなかで生まれたコミュニティーの可能性に建築を通して関わっていきたいという共通の想いを3人それぞれが抱いたんです。
「災害ユートピア」という言葉があります。これは災害後、避難所などで連帯感が生まれることを指す言葉で、多くの災害の現場で起きるのだそうです。菅原さんのまわりで起こったのも、その1つだと思うのですが、このようなコミュニティーはどうしても一時的なものにならざるをえません。ですから、このつながりを温存していけるような場所が求められるんです。そのような場に必要なものは、機能性だけではなく、ある種の象徴性です。例えばみんなが共有する記憶を呼び覚ますようなシンボリックな建築。
もともと私は強いボキャブラリーを持って建築をつくっていくタイプの建築家ではありません。ですから象徴性という問題は、私にとってなかなか扱いがたい課題なのですが、藤本さん、平田さんというタイプの違う2人と議論を交わすなかで、普段は苦手に感じている象徴性に迫ることができたのは得難い経験だったと思っています。
建築の本来の姿が垣間見えた一瞬の光景
藤本:ヴェネチア・ビエンナーレの展示がほぼ完成して、全体を見返してみた時に「これはすごい展示になったな」と我ながら思ったんですね。「みんなの家」をめぐって議論してきたプロセスをヴェネチアで呈示したわけですが、それは同時に「建築ってなんだろう?」という大きな問いへ広がっていて、僕らが菅原さんたちと交わしてきたパーソナルなやりとりにもつながっています。そして畠山さんの震災前後の写真も加わることで、陸前高田の過去、現在、未来という、重層的な時間を含み込んだものになっていきました。具体的なものと抽象的なもの、個人と社会、1つの建築と地域全体といった相対的な要素が組み合わさって、ある種の都市的な要素が会場のなかに広がっていると感じました。1つの建物をつくることのなかにあらゆるものが含まれている。それこそが建築なのだと思います。
例えば陸前高田の「みんなの家」の特徴的な柱の構造は、最初に平田さんがつくった模型で示されていたんです。その後、津波で失われてしまった林の話を聞いて、じゃあそれを建材に使ってもいいかもねとなったり、さらに「けんか七夕」の話が出てきたり、いろいろな要素が混ざり合って、かたちを成していった。僕らの目の前で、自然に建物が出来ていくという不思議な体験でした。
最初に乾さんもおっしゃっていましたが、プロジェクトの前までは正直どうなっちゃうんだろうと僕も思っていました。震災後に建築というものを自分は考えられるのだろうか、と。でも、建築というのは何も変わらずそこにあったんだなと思います。目の前を覆っていた霧が晴れるように、建築の本来の姿が垣間見えた一瞬の光景を僕は忘れないですね。
さまざまな人の関係をもう一度取り戻すための建築
平田:乾さんや藤本さんと同じように僕も被災地に建てることの意味、3人でコラボレーションする難しさに悩みました。僕は伊東さんの事務所から独立した人間なので、2人と伊東さんをつなぐような役回りになってしまうのではないかという危惧もありましたから、協働作業のなかでも常に疑いを差し挟む存在でありたいという気持ちだったんです。
でも今になってみると、そういう気負いはどうでもよかったんだなと思うんですね。菅原さんは「陸前高田全体に散り散りになってしまった人たちが集まれる拠点をつくるべきだ」とおっしゃって、町全体が見渡せる場所を探してこられた。その敷地を見た瞬間に僕ら3人が「この場所だったんだ」と直感したんです。
建築の始まりや終わりを抽象的に思考して、僕は新しい建築をつくろうとしてきましたが、陸前高田は非常に象徴的な場所だと思っています。震災によって途絶えてしまったさまざまな人の関係をもう一度取り戻さないといけない。そこに社会と、建築の始まりを感じたんです。
また今回、考えさせられたのはシンボリズムの問題です。その疑問のなかで立ち上がってきたのが、林立する柱のシンボリックな姿や、櫓(やぐら)のような形状ですね。それに加えて、山に囲まれた地形をどうやったら建物のなかに内包できるのかというところにもこだわりました。
被災地の時間の流れを写真で提示する
畠山:僕は写真家ですから「みんなの家」の具体的な設計に関してはあまり意見を申し上げておりません。参加アーティストとクレジットされているので、僕もデザインに関わっていると思っている方がいらっしゃるかもしれませんから、この点は念のためお断りしておきます。ただ全体の会議には、ちょっと外野からヤジを飛ばすようなかたちで出席しておりました。
コミッショナーである伊東さんから僕に与えられた当初の課題は、被災前後の様子を撮影した僕の写真で、被災地の時間の流れを会場内に提示してほしいというものでした。その後、最初に伊東さんがおっしゃっていたように実際に被災地に建築を建てながらそのプロセスも記録していくというプランに変更されたわけですが、そこで伊東さんから「『みんなの家』を陸前高田に建てたいんです」と言われたのです。それまでまったく考えていませんでしたから、非常に嬉しかった。その後の半年間の議論のあいだに具体的な家のデザインが生まれ、いままさに建築されつつあるわけですが、おそらくこのような展開は誰も予想していなかったと思います。この1年間のダイナミックな動きに対して、僕はとても深く感動しています。
日本館の展示に関しては、僕はナレーター的な役割を演じたと思っています。僕が行ったことはそんなに多くはありませんが、ヴェネチアの展示では来場してくださったみなさんが自分たちの生活と地続きのものとして展示を見てくれているという印象を受けました。
伊東:今年のはじめに東京都写真美術館で畠山さんは個展を開催されていて、被災前と被災後の陸前高田の写真を展示されていました。ヴェネチアでも同様の展示をお願いして、さらに被災後1年以上経った陸前高田の様子をとらえたパノラマ写真を加えていただいたんですね。
このパノラマ写真は、私がこれまで見た写真のなかでもっとも感動的なものでした。こんなにも「沈黙している写真」は見たことがありません。写真が沈黙するほど、逆にそこに込められている想いみたいなものが伝わってきます。
昨年、畠山さんに日本館への参加をお願いした時点では「僕はまだ写真を撮る気になれない、とてもそんな前向きな気持ちになれないんです」とおっしゃっていましたね。だから、このパノラマ写真はけっして前向きにとらえられたものではないと思います。ですが、この写真を撮影したことで畠山さんはひとつ新しい境地に来たのではないかと感じます。
写真家は外側にいなくてはならない
畠山:写真家はとても不思議な人種です。私は今回参加アーティストとしてクレジットされていますけれど、同時にカメラマンも兼ねていて、ヴェネチアでは記録撮影を担当しました。展示ができあがって、じゃあみんな並んで記念写真を撮りましょうとなったのですが、カメラマンである僕はもちろんカメラの後ろにいるので、同じフレームのなかに収まることができないんですね。その時は別の人にシャッター押してもらいましたが、本質的にカメラマンというのは、内側の世界があるとしたら、その外側にいないといけない人間だと思います。
僕も大変な出来事を前にしても、無意識のうちに外側に出て写真を撮っていることが多い。ですから写真を褒められても、すぐにぴんと来ないんです。伊東さんがおっしゃっていた「パノラマ写真で新しい境地に達した」かどうかというのは、今のところ自分では分析できていないですね。
伊東:「ナレーターの役割を演じた」とおっしゃっていましがた、常に外側に立たなければならない写真家の役割を指しているのではないでしょうか。ですが、東京都写真美術館で見た被災後の写真というのは、畠山さんもその内側にいるという感じがすごくしたんです。それが今回のパノラマ写真ではもう一度外側から写真や被写体を選んでいるという気がしました。
畠山:パノラマに関してちょっと補足しておくとですね、あの写真は今年の6月24日に陸前高田駅のそばにある瓦礫の丘から撮ったものです。
デジタルカメラのファインダーの真ん中に線が表示されていて、その位置がちょうど県立高田病院の4階の窓にぴたっと合ったんですね。その時に僕は「あそこまで津波が来たんだ」と思いました。そう思いながら360度のパノラマ写真を24カットかけて撮影したんです。
日本館の壁に写真を展示した時は、そのことを文章で一行入れました。「この写真は、津波が来た高さと同じ高さから撮られています。この線の下からすべて水没していたのです」と。写真を見て、その一文に気づいた瞬間に自分の目から下が水没しているという想像を観客に与えた。そういう効果も写真にあったのだと思います。
仙台と陸前高田の2つの「みんなの家」
伊東:建築の話に戻りましょう。今日の3人のお話を聞いて、私はいろいろなことを考えさせられました。昨年、コミッショナーとしてインタビューを受けた時に、今回の展示は普通の建築展とはぜんぜん違うものになると言いました。建築家の展覧会というのはすでに分かっていることを展示するけれど、今回はこれからの1年間、どんなことが起こっていくか分からない。「みんなの家」を共同設計するという計画も空中分解してしまうかもしれないし、畠山さんは写真を撮る気になれないとおっしゃっている。建築家の3名もそれぞれとまどいがあったとおっしゃっていましたけれど、私自身もこれはどうなってしまうのだろうか、という不安を抱えておりました。じつを言うと不安は今もあります。
もう少し具体的に言いますと、私が中心になってつくった仙台市宮城野区の「みんなの家」と、いま出来上がりつつある陸前高田の「みんなの家」はかなり違うものです。私は「みんなの家」のプランを提唱した時、3つの目的を挙げました。1つは、仮設住宅などで暮らす人たちのために、一緒にごはんを食べたり、話ができたりするような場所を提供する必要があるということ。そして2つめは、住民、建築家、ボランティアがみんな一緒になって建築をつくりましょう、ということ。そして3つめに、住民の人たちが復興のための議論をできるような場にしたいということでした。
宮城野区では、その3つの目的をある程度達成できたという実感がありますが、そこでは「伊東さん、どうしちゃったんですか?」と言われるぐらいに、ある意味で建築家であることを捨てたんですね。でも、いま陸前高田に出来つつあるものは違う。被災地での支援活動をやっている人たちと協働したとは言っても、建築家の個性を捨てないままに立ち上がりつつあると思います。
菅原さんの活動は「これから私たちはどう生きていくのか?」という抽象的な問いが1つの支えになっています。それに応えようとしている建築家たちも「建築ってなんだろう?」という大きな命題に向き合っている。その意味で、きわめて建築的と言えると思います。
藤本:現地で話し合いをして、東京に戻る時のことを僕はまざまざと覚えています。バスに乗って帰る私たちを、菅原さんたちはずっと手を振って見送ってくれたんですね。津波で町が流されて遮蔽物が何も無いために、手を振っている菅原さんの姿がいつまでも見えているわけです。
その時に、少し立ち上がっているような建物の上で町の人たちが手を振っていたとしたら......という共通の想いが3人のなかで自然に出てきたのだと思います。津波に流された松原の話も、杉丸太を柱のように立てて空間をつくるというのも、すべて菅原さんや陸前高田の土地から自然と沸き上がってきたことです。なぜ陸前高田の「みんなの家」が宮城野区のようにはならなかったのは、そのような不思議な連鎖のなかで、建築を捨てるとか捨てないという意識そのものが希薄になっていったからじゃないかと思います。
伊東:建築を捨てる必要がないということは、建築家を捨てる必要もないということですか?
藤本:そうです。ある状況に関わったときに、私はこういうものをつくりたい、私のデザインはこれだと主張するのではなくて、他では起こらない何かをその場からすっと引き上げる、あるいは見つけ出すきっかけになる人が建築家なのかもしれない、ということです。
個々の状況をきちんと感知する建築
平田:最初の頃に菅原さんがジャズドラマーの話を聞かせてくれました。震災直後、ボランティアの演奏家が大勢来て、避難所で音楽を演奏してくれたそうです。とあるジャズドラマーは、大地の震動を感じながら即興で演奏したらしいんですが、菅原さんはそれがよく分からなかったと。でもその後に来た加藤登紀子さんは、避難所のみんながスリッパを履いていないことに気づいて、裸足で歌い出したそうなんです。それは歌手と聴衆が一体になるような非常に感動的な体験だったと菅原さんはおっしゃっていました。
その話を聞いて、僕らは加藤登紀子になれるんだろうか、ひょっとしたらジャズドラマーに近いのかもしれないと話し合ったんです。僕らはそれを「ジャズドラマー問題」と呼んでいましたが、善かれと思って建築のアイデアを持っていったとしても、住民の皆さんにとって共感できるものでなければ、それは完全に失敗なわけですよ。
伊東:平田さんたちは加藤登紀子さん以上のことができたと確信していますよ。建築家が勝手な思い込みだけで、話し合いもせずに設計してしまうのだとしたらそれは問題だと思う。でも議論を交わして、現地の人とも意見を交換しながら進めていった今回のプロジェクトはまったく違うと思います。
畠山:僕はむしろジャズドラマーに共感できるんです。菅原さんの脳裏にそれだけ強烈な思い出を残したというのはすごいことだと思う。ドラマー本人が目指したものではなかったかもしれませんが、ひょっとするとその演奏を聞いていた隣の人にとって、本当に心に沁み入るパフォーマンスだったかもしれません。美術館に並んでいるアート作品なんかも同じようなところがあるなと僕は思っているんですが。
ただ、絵画や音楽と比べて建築というのは関わる人数や予算が大きく、もっと大きな公共性を持っていると思うんです。だからこそかなり深いところまで考え抜くことができたのだと思います。
乾:仙台市宮城野区の公園のなかにある「みんなの家」と、陸前高田のように非常に特徴的な場所でつくる「みんなの家」では、状況がだいぶ違いますよね。そういった個々の状況をきちんと感知することが、建築をつくるということだと思います。
それからジャズドラマー問題についてですが、じつは菅原さんもあの地域にとってはジャズドラマー的な存在かもしれないと思うんです。被災地で生活を送るなかで、復興のために頑張れる方もいれば、何かをあきらめてしまう方もいる。でも、菅原さんというのは本当に驚くほどに「何かしなければならない」という使命感を持って活動されているわけです。彼女のその驚異的なパワーが、今後も地域にフィットし続けられるかどうか、という問題もあると思います。
ジャズドラマーであることは、良いことだと思うんです。そういう人がいないと地域に力を与えることはできない。ある意味でジャズドラマーに共感を呼ぶ仕組みをつくるのが非常に重要だと思っていて、「みんなの家」が立ち上がることで、菅原さんという人のまわりで起こっている動きが、多くの人に広まっていくことになれば素晴らしいな、と思っています。
報告会(撮影:相川健一)
【日本館コミッショナー】
伊東 豊雄 (いとう とよお)
建築家
1965年東京大学工学部建築学科卒業。71年アーバンロボット設立。79年伊東豊雄建築設計事務所に改称。主な作品にせんだいメディアテーク、TOD'S表参道ビル、多摩美術大学図書館(八王子キャンパス)、2009高雄ワールドゲームズメインスタジアム(台湾)、今治市伊東豊雄建築ミュージアム等。現在、みんなの森 ぎふメディアコスモス、台中メトロポリタンオペラハウス(台湾)他が進行中。ヴェネチア・ビエンナーレ「金獅子賞」(2002)、王立英国建築家協会(RIBA)ロイヤルゴールドメダル(2006)、第6回オーストラリア・フレデリック・キースラー建築芸術賞(2008)、第22回高松宮殿下記念世界文化賞(2010)など受賞多数。
【参加作家】
乾 久美子 (いぬい くみこ)
建築家
1969年大阪府生まれ。1992年東京藝術大学美術学部建築科卒業。1996年イエール大学大学院建築学部修了。2000年まで青木淳建築計画事務所勤務。2000年乾久美子建築設計事務所設立。現在、東京藝術大学准教授。主な作品に、片岡台幼稚園の改装(2001)、ヨーガンレール丸の内(2003)、DIOR GINZA(2004)、アパートメントI(2007新建築賞受賞)、スモールハウスH(2009東京建築士会住宅賞)、フラワーショップH(2009日本建築士会連合会賞、2010 グッドデザイン金賞)、Kyoai COMMONS(2012)など。著書に「そっと建築をおいてみると」(INAX出版)、「浅草のうち」(平凡社)。
藤本 壮介(ふじもと そうすけ)
建築家
1971年北海道生まれ。東京大学工学部建築学科卒業後、2000年に藤本壮介建築設計事務所を設立。2008年、JIA日本建築大賞とWorld Architectural Festival-個人住宅部門最優秀賞。2010年、Spotlight : The Rice Design Alliance Prizeを受賞。代表作に「情緒障害児短期治療施設」(2006)、「武蔵野美術大学 美術館・図書館」(2010)等がある。
平田 晃久 (ひらた あきひさ)
建築家
1971年大阪府生まれ。1994年京都大学工学部建築学科卒業。1997年同大学院工学研究科終了。伊東豊雄建築設計事務所勤務の後、2005年平田晃久建築設計事務所設立。現在、東北大学特任准教授、京都大学、東京大学にて非常勤講師を務める。SDレビュー朝倉賞(2004)、第19回JIA新人賞(2008)、Kaohsuing Martime Cultural & Popular Music Center 国際コンペ2等(2011)、Elita Design Award (2012)等受賞多数。主な作品に、上桝屋本店(2006)、alp(2010)、Bloomberg Pavilion(2011)、Coil(2011)、Panasonic"Photosynthesis"(2012)等。著書に『現代建築家コンセプト・シリーズ8 平田晃久 建築とは〈からまりしろ〉をつく ることである』(INAX出版)等がある。
畠山 直哉 (はたけやま なおや)
写真家
1958年岩手県陸前高田市生まれ。筑波大学芸術専門学群にて大辻清司に薫陶を受ける。1984年に同大学院芸術研究科修士課程修了。以降東京を拠点に活動を行い、自然・都市・写真のかかわり合いに主眼をおいた一連の作品を制作。国内外の数々の個展・グループ展に参加。2001年には中村政人、藤本由紀夫と共にヴェネチア・ビエンナーレ日本館にて展示(コミッショナー:逢坂恵理子)。現在サンフランシスコ近代美術館にて津波被災後の故郷、陸前高田の風景を含めた展覧会「ナチュラル・ストーリーズ」を開催中(11月4日まで)。