永田 生慈(日独交流150周年記念 北斎展 監修)
しりあがり寿(漫画家)
(司会 国際交流基金 造形美術チーム 森 多恵)
今から150年前の1861年、日本と当時のプロイセンとの修好通商条約の締結に遡る日独の交流の始まり。日本は江戸末期、天才浮世絵師・北斎(1760-1849)が亡くなってまだ160年余。すでに北斎らの作品は欧州に伝えられ影響を及ぼし、ジャポニスムの波が高まりをみせる頃である。北斎がその作品を通じてヨーロッパそして世界に伝えた当時の日本の姿、そして同時代の人々も現代人をも惹きつけてやまない北斎の発信力を、今回のベルリン展のチーフキュレーターである永田生慈氏と、多様な表現に挑戦しつづけ国内外で活躍中の漫画家・しりあがり寿氏が語り合う。
北斎の評価には
多くのドイツ人が貢献してきた
── 日独交流150周年でドイツ各地で行われている数多くの日本文化紹介事業の中でも、この北斎展は特に注目を集めています。
マルティン・グロピウス・バウ内 展示会場風景
しりあがり寿:ドイツで日本文化を紹介するのに、浮世絵の画家って北斎以外にもいろいろいると思うんですけど、その中でなぜ北斎だったんでしょう。
永田:ドイツは案外隠れ北斎好きというのが、いっぱい昔からいたようなんですよ。例えば、ヨーロッパの人でいちばん最初に北斎を認めて、西洋に紹介したのはドイツ人の医師フランツ・フォン・シーボルトなんです。1823年からオランダの商館付き医師として日本に滞在していますが、実はドイツ人です。帰国時の荷物に日本の地図などが見つかったことからその後国外追放処分になりましたけれども(「シーボルト事件」)、そのとき北斎漫画をいっぱい持って帰っています。どうも北斎とも会ってるらしいんです。
「北斎漫画」は15冊ほどあって、中には3900図も絵柄が入っています。シーボルトはオランダに戻ってからすぐに『日本』という大著を書きますが、そのなかに北斎漫画からたくさん挿絵をとっています。
[作品名]『伝神開手 北斎漫画』六編 [年代]文化14年(1817)正月刊 [署名・印影]北斎改葛飾戴斗(印)=ふしのやま [版元]角丸屋甚助 [形式・判型]絵手本1冊 半紙本
[作品名]『日本』"Nippon" [年代]1852年刊 [編・著者名]シーボルト Siebold, Philipp Franz Balthasar von [所蔵先]ボン大学
もう少しあとになると、19世紀後半にはパリを中心に印象派などに影響を与えたジャポニズムが広がります。パリへ浮世絵を運び、そのブームのきっかけをつくった人物が2人いて、1人は林忠正という日本人、もう1人はジークフリート・ビングという人ですが、この人がハンブルク出身でした。それから、戦前から戦後にかけてドイツで浮世絵商をやっていたフェリクス・チコチンは、1951年にオランダのアムステルダム美術館で「レンブラント・北斎・ゴッホ展」を開いています。素描、デッサンの展覧会で、チコチンは北斎をレンブラントと、そしてゴッホと3人並べて展示する、そういうことをやっているんですね。ヨーロッパで北斎ブームというか、北斎評価がおこるのに際して、縁の下の力持ちをした人が案外ドイツにかなりいるんです。
しりあがり寿:ドイツって、バウハウスとか、デザインっぽいものがクラシックなのよりも好まれる感じがしますが、北斎にはちょっとそういうところがありますね。構図とか、フォルムが特に。
永田:今回の「北斎展」にはドイツの大統領にもおいでいただきましたが、「これ、おもしろい」と言って、なかなか足が前に進まず、「もう一度来よう」と言っていました。ドイツは、案外、何か北斎の魅力が理解されてるんだと思うんです。
引っ越したのは93回、
70年間描いて使った号は30
── 今回の「北斎展」の特徴はどのようなところにあるのでしょうか。
永田:北斎の作品の傾向はだいたい6つぐらいの時期に分けられるんですが、今回の「北斎展」では、この時期にはこういうことを、またこの次の時代にはこういうことをやっていたといったことをできるだけ広く見せようという趣旨で企画しています。
しりあがり寿:いろんな時代の代表的な作品を持っていったんですね。北斎は長生きしたそうですが、生涯で作品は何点くらいあるんですか。
永田:みんなによく聞かれるんですけども、われわれでもまだ把握していません。おそらく毎日描き続けた人ですから、想像以上にあると思うんですが、それがどれだけ残っているか。北斎が生まれ活動した墨田区は、安政の大地震や関東大震災、東京大空襲などでほとんど何もなくなったところで、相当のものが消失していると思います。
しりあがり寿:今回その何万点の中の400点余を選ぶのたいへんだったでしょうね。
永田:これまでもヨーロッパでは大きな北斎展が開かれています。でも、日本もそうですが、だいたい北斎っていうといわゆる赤富士(「凱風快晴」)や浪裏の(「神奈川沖浪裏」)、あるいは「北斎漫画」くらいしか知られていません。
赤富士や浪裏などの「冨嶽三十六景」のシリーズは70歳代の数年間の仕事ですし、「北斎漫画」もある限られた時期の仕事なんですね。
[作品名]冨嶽三十六景 凱風快晴 [年代]天保2年頃(ca.1831) [署名・印影]北斎改為一筆 [版元]西村屋与八 [形式・判型]大判錦絵 26.3 x 38.6cm [所蔵先]葛飾北斎美術館
[作品名]『伝神開手 北斎漫画』二編 [年代]文化12年(1815)4月刊 [署名・印影]北斎改葛飾戴斗(印)=ふしのやま [版元]角丸屋甚助 [形式・判型]絵手本1冊 半紙本
ですけど、北斎は20歳で画壇にデビューして、90歳で亡くなるまで約70年間ずっと仕事をし、常に新しいものを追いかけた人ですから、今回は若い時期から亡くなる寸前まで、できるだけ満遍なく、この人の業績を正当に見せようじゃないかというのが趣旨でした。
ある時代と他の時代の作品を見ると、同じ人かと思うくらいまったく違う。北斎と名乗ったのはもうごくわずかな時期で、新しいものにチャレンジをすると名前も変えて、だから名前は30ぐらい持っているわけです。
それから、常に新しい発想を欲したせいか、生涯で93回も引っ越している。いつも新しいものを吸収しながら、どんどん脱皮をしていく人なんですね。
しりあがり寿:出品した中で、一番若いころのものはどんなものなんですか。
永田:春朗といって、勝川春章という人の弟子になるんです。デビュー作はお師匠さんそっくり。春章という人は似顔で役者を描くことを始めるんですが、北斎もその師匠張りの絵を描くようになります。
しりあがり寿:これは役者のブロマイドみたいな感じですね。
永田:これは瀬川菊之丞という、絶世の美人。男ですが。
しりあがり寿:最初はこういうところから始まってるんですね。すると一番年配のときのは。
左:[作品名]正宗娘おれん 瀬川菊之丞 [年代]安永8年8月(1779) [署名・印影]勝川春朗画 [版元]未詳 [形式・判型]細判錦絵 30.3 x 13.7cm
右:[作品名]赤壁の曹操図 [年代]弘化4年(1847) [署名・印影]八十八老卍筆 (印)=百 [形式・判型]絹本一幅 115.0 x 34.2cm [所蔵先]葛飾北斎美術館
永田:最後は、もうほとんど版画を描かなくなります。それでもすごい。亡くなる前の88歳のときの絵がありますが、年をとるごとに非常に華やかになってくる。
しりあがり寿:もっと枯れたのかと思った。晩年のほうがこってりしてますね。
永田:洋風のタッチで描いたりしてますね。北斎が枯れているのは、若い時期なんです。
しりあがり寿:ぼかしとか、グラデーションみたいな。でも画材は岩絵の具ですね。
永田:もちろんそうです。版画もそうですが、どんどん若返ってきているような感じです。何度見ても私がすごいなと思うのは、例えば、この作品で、青空に芥子の花が風が吹いて揺れているんですが、文字がアルファベットだったら、なにか西洋の人かもっと近代の人が描いているような、額に入れても合いそうな絵です。これが70代半ば近くの作品ですから、それを考えるとちょっとおそろしい爺様ですよね。
北斎はある程度の年に油絵の勉強をしたということもわかっています。この人は、75歳のころから、百何十歳まで生きて、絵の道を改革しようということを言い始めるんです。それで、どうにか長生きをしたいと。
[作品名]芥子(けし) [年代]天保初中期頃(ca.1833-35) [署名・印影]前北斎為一筆 [版元]西村屋与八 [形式・判型]大判錦絵 25.2 x 36.8cm [所蔵先]墨田区
しりあがり寿:80代の作品を見てもものすごく細かく描いていますが、目は大丈夫だったんですかね。
永田:89歳のときの作品があって、眼鏡不要って書いてあります。
しりあがり寿:わざわざ書くのがおかしいな。お茶目なんですね(笑)。
北斎の精神は
漫画の精神と似ている
── 今回は現地で「浪裏」の刷りの実演もやりましたが、刷っていくとある瞬間に裏から色が見えるときがあります。ドイツはやはりマイスターの国ですね。みんなウワッと感動した顔をするのです。それを見てると、すごく私もうれしくなりました。
永田:展示だけでなく、いろいろな見せ方の工夫をしました。北斎は今の付録の原形みたいなこともやっています。絵を切り抜いて貼っていくと立体ができる。そうしたものをきちん見せることが大切だろうと思って、ドイツの方にお見せすると、みんなワッと驚かれるんです。
しりあがり寿:これはお風呂屋さんだ。糊しろがついていて貼って、組み立てるんだ。中に裸の人がいますね。
[作品名]新板くミあけとふろふ ゆやしんミセのづ [年代]文化中期頃(ca.1807-12) [署名・印影]北斎画 [版元]丸屋文右衛門 [形式・判型]大判錦絵5枚 各25.1 x 37.7cm [所蔵先]葛飾北斎美術館
永田:非常によくできていて、2階には湯上がりに涼む場所なんかもあります。建物は決まった方向から見ると遠近感を持たせるようになっています。
しりあがり寿:ちゃんと奥が狭くなってるんですね。
永田:北斎はこういうことも得意なんですね。普通の絵描きにできない仕事です。どちらかというと文系ではなく理系で、幾何学的なこともやったりする。
しりあがり寿:ダ・ヴィンチみたいですね。
永田:たしかに日本のダ・ヴィンチと言う人もいます。北斎はコンパスと定規でものの骨格をつくることができると言って、例えば子どもが牛を描くには、こういうふうにコンパスを使って定規でやればいいと示している作品もあります。
[作品名]『略画早指南』初編 [年代]文化9年(1812)正月刊 [署名・印影]なし [版元]鶴屋金助 [形式・判型]絵手本1冊 中本 [所蔵先]葛飾北斎美術館
しりあがり寿:当時、コンパスなんてあったんですね。絵だけ見ていると飄々として、感覚だけで生きていた変てこな人かなと思ってたけど、実際は理系の感覚ももっていた。
永田:そうなんです。もうそろそろ、本当の北斎像を知ってもらいたいなと思います。そういう点で日本は、まだ北斎認識というのが遅れているんです。
しりあがり寿:画狂人というか、ふらふらとしてたイメージがみんな好きですね。
永田:奇人変人というところが。
しりあがり寿:蛸の絵なんかを見ると、この人はさぞや変わってたんだろうみたいな。でも、実際はそうじゃなくって、しっかりしてた。
永田:実際はけっこうきちっとした人です。ただ、お茶目なことはお茶目ですよ。川柳は大好きで、いっぱいつくってる。非常にびろうな句やエッチな句もいっぱいあるんです。そういう部分も持ち合わせた人ですね。
「北斎漫画」の中で、武士が公衆便所で用を足してる絵があります。あんなこと描いて、当時は大変だったろうと思うんですが。
しりあがり寿:誰かが描かないと、武士がどう用を足していたか、わからないですからね。横でお供の者が鼻つまんでたり、よっぽど臭かったんだ(笑)。
── 北斎はおならの絵もけっこう描いてますね。
永田:「放屁図」は80歳ですね。
しりあがり寿:80歳で!
[作品名]放屁図 [年代]天保10年(1839) [署名・印影]画狂老人卍筆 齢八十 (印) [形式・判型]紙本一幅 30.1 x 54.2cm
永田:ドイツでは検品をする女性が2人いましたが、指をさして笑っていました(笑)。この絵は武士の出で立ちにみえますが、僕は見世物じゃないかなと思っているんです。
しりあがり寿:くだらないことを一生懸命描いている人って、すごくいいな。漫画と北斎というと、絵の表現よりも前に、おもしろがるという精神が似てますね。世の中からすると、くだらないとか、びろうだとか、取るに足らないようなものをちゃんとおもしろがる。大きなお寺とかお屋敷を飾っていた雅な芸術と違う。漫画と精神が本当に似てるなと思います。
パターン化する力。
リアリズムを超えた自然さ
── 北斎の作品には、ほかにも今の漫画との共通点がたくさんありそうですね。
永田:「北斎漫画」は絵を描く人や工芸作家のための絵の手本や見本になっています。なかには、人物を切り取って動かすと、動画のように動くものもあります。
しりあがり寿:アニメーションですね。
永田:だから、今生きてたら何かやってるはずですよ。
しりあがり寿:そうでしょうね。今だったら、3DのCGなんかでゲームつくるとかやってるかもしれない。
永田:大波ゲームみたいなね。
しりあがり寿:絶対やってるな。それと、北斎はやっぱりスピード感というのもマンガに似てますよね。マンガなんか週刊でどんどん連載していくから、色なんかつけられないし、どんどん簡略化してお約束のところはお約束で済ませなきゃいけないといったところがありますが。
永田:同じですよ。やっぱり出版の絵画ですからね。ですから、枠からはみ出しちゃったりとか、それから今の劇画タッチというか、そういう作品もたくさんあります。特に、北斎が大長編小説の、読本というのを書いた時期のもの、例えばこの『水滸画伝』などがそれで、この動かしちゃいけない扉を開けると、パァッと気流が噴き出して、魔物がいっぱい飛び出してくるんですよね。
[作品名]『新編水滸画伝』初編初帙 [年代]文化2年(1805)9月刊 [編・著者名]曲亭馬琴作 [署名・印影]葛飾北斎画 (印)=画狂人 [版元] 角丸屋甚助 [形式・判型]読本六冊 半紙本 [所蔵先]葛飾北斎美術館
しりあがり寿:『インディー・ジョーンズ』にもそんなところがありますね。確かにこの表現はすごいわ。
永田:こういう表現は今はあるかもしれないですが、この時代にはあまりないんです。ほかにも、気流がグーッと舞って、瓦が飛び散ったりしてる絵とか、そういうものを北斎はやるんですよ。
しりあがり寿:それからコマ漫画もやってますね。縦、横といって、2コマ漫画が「北斎漫画」に入っています。時間の経過と物語があるわけですね。
永田:2コマで話がつながっている。コマ漫画の走りのような、本当に早いものです。しかも、お茶目な絵ですね。
しりあがり寿:でも、上手ですよね。フォルムにしても、線1本にしても、鉛筆で下描きして何度も消したり直したりしてない。
永田:残っている下絵を見ると、けっこう苦労してますよ。
しりあがり寿:ちょっとホッとしたな。下絵を描かないのは、北斎か、手塚治虫くらいだと思ってた(笑)。
永田:漫画家で北斎を好きな方は多いですね。杉浦日向子さん、もうちょっと前になると、『クリちゃん』を描いた根本進先生とか。
しりあがり寿:おもしろいのは、手本や見本になったことですね。漫画の世界でもパターン化することでアシスタントさんも描けるようになるし、別の漫画家さんにも1つの描き方としてどんどん広がっていきます。
永田:この諸職絵本 新鄙形は本のページをつなげると塔になります。釣り鐘、橋などの構図、それから建物の勾配を出す方法を書いたりしています。
[作品名]『諸職絵本 新鄙形』 [年代]天保7年正月刊 1836 [署名・印影]齢七十七前北斎為一改画狂老人卍筆 (印)=(富士の形) [版元]須原屋茂兵衛 [形式・判型]絵手本1冊 半紙本
さらには「絵本彩色通」では当時、秘伝だった油絵や銅版画のやり方を説明している。かと思うと、染織家のための見本帳もあるんです。
しりあがり寿:パターンの図案集みたいな。
永田:北斎のデザイン集なんですね。金網、畳、そうした日常のものをデザインしています。日常どこにでもあるものですから、気がつかないけれど、北斎の目を通すと、なんでもおもしろくなる。
[作品名]『新形小紋帳』 [年代]文政7年(1824)3月刊か? [署名・印影]前ほくさゐ為一筆 [版元]大坂屋秀八 [形式・判型]絵手本1冊 中本
しりあがり寿:パターン化する力がすごいですね。有名な波の図柄がありますけど、本当の波はこんなじゃないですもんね。
[作品名]冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 [年代]天保2年頃(ca.1831) [署名・印影]北斎改為一筆 [版元]西村屋与八 [形式・判型]大判錦絵 25.2 x 37.6cm [所蔵先]墨田区
永田:そうですね。でも、本物の波のとおりを描くと、これだけの臨場感というのは出ないですよね。
しりあがり寿:リアリズムを超えていて、だけどよけいに自然。実際に自分が受けた感じとか、思い描いた感じを出すのに、そのとおり描いていては表現できない。実際こんなことはないけど、こういう風に描かないとこの感じは出ない。本質をとらえるんでしょうね。
永田:そこが北斎のおもしろいところなんですよね。
目にとまるものは全部
絵にしないと気がすまない
永田:本当に何でもやった人で、絵手本でも一筆画を何百と集めたものだとか、いろは四十八文字で絵柄が引き出せるものとか、思いつくものをいろいろやっています。それらも出品したんですが、やはり皆さんびっくりしていました。それから、ヨーロッパではドローイングやデッサンが珍重されますね。北斎のうまさはドローイングに出ているので、何点か持っていきました。
しりあがり寿:目にとまるもの全部絵にしないと気がすまないんでしょうね。
永田:スケールが大きいですよ。北斎を研究すると、傾向を6つぐらいに分けることができます。だから6人分の研究をしないとならない。
しりあがり寿:6倍労力がかかりますね。詩人の谷川俊太郎さんなども、ものすごく詩を書きますよね。以前、谷川さんの本の解説に、森羅万象を詩にしていく工場みたいな、大量生産する工場みたいな感じのことを書いたんですけど。北斎を見ていても、やっぱりもう次から次に絵にしていくんだな。思いついたこと、目に付いたこと。すごいですよね。
永田:デザイン集というのは、当時の工芸の職人たちが、普通の有名な人に下絵を描いてもらったら、たいへんなお金がかかる。だから、木版がいろんなものを普及させるのに大事だったと思うんです。当時の刀のつばなどをつくる金工職人の手控え帳を見ると、北斎の現物が切り取って貼ってあって、点々と針の穴が残っている。刷りのいい絵手本はみんなチョキチョキ切られて、残らないんです。
しりあがり寿:今でもありますよね、図案集とか、カット集とか。
永田:北斎漫画のように3900図も入っていたら、便利ですからね。
しりあがり寿:こうなると図鑑ですね。
永田:ですから、シーボルトが『日本』を書いたとき、いちばん便利なものだったと思います。さきほどの話のように公衆便所などは、いちばん記録に残らない。浮世絵もきれいなところしか描かないですから。
しりあがり寿:庶民がおもしろがって買ってたんですか。
永田:「北斎漫画」は庶民も買いましたが、大名のお墓から出てきたこともあります。ものすごいロングセラーなんです。木版で刷られた時代もあったけど、オフセットになって、今も刷られている。途絶えることなく出て、おそらく日本の画集の中ではいちばんのロングセラーだと思います。
しりあがり寿:今の時代に生きていたら、何をしているでしょうね。カバーしている職業を今で言ったら、デザインから装飾、パターンから絵も描くし、出版も手がける。漫画家もやってますから、『ONE PIECE』みたいに初版300万部になっているかもしれない。でも、当時は印税はないんですね。
永田:1回描いたらそれきり。どこかへ転売されても文句は言えません。ですから、亡くなるまで貧乏暮らしの人でした。
しりあがり寿:でも、うらやましくなるな。こんなに次から次へと、出てくるんだもん。
永田:当時は人生50年の時代ですから、普通の人じゃないですよね。社会的な出世には、そんなに興味がない。浮世絵師は可哀想で、画工と呼ばれた。幕府にお仕えする絵を描く人たちは絵師と言うんですが、画工は畳屋や経師屋と同じです。
しりあがり寿:職人さん。
永田:そうですね。北斎は絵師になることもできたと思うんですが、あえてそうしないで、好き勝手に描いていた。机が買えないから、みかん箱で絵を描いていたといいます。朝起きて絵を描いて、夜にはもう手が痛くて動かなくなって、夜中におそばを食べて寝て、また朝起きては描く。晩年はそういう生活だったらしい。
異文化への勘違いが
新たな文化を生むこともある
── 北斎を文化交流という視点から見るとどうでしょうか。当時、日本は鎖国によって、世界の情報は限られた形でしかもたらされていませんでした。北斎は人に聞いたり見たりして、情報を一生懸命集めて、遠近をつけてみたり、横文字の真似をしてみたりしていますよね。
しりあがり寿:日本はもう1度、鎖国して、100年くらい経って開けてみるとオリジナルのおもしろい文化ができているかもしれない。何もかも交流するとみんな一緒になってしまう気もするけど、どうなんだろう。
── その一方で、国際交流によって、ヨーロッパの人たちが北斎を見て、「すごい」と思い、真似した歴史もありますね。コスプレもそうですが、日本だけの感覚をそのまま持って行くとおもしろいこともある。鎖国と交流、難しいですね。
永田:でも、文化の交流には勘違いも多いですね。ジャポニズムの時代に、黒い焼き物の縁に金が付いているのがアクセントになっていて素晴らしいと言われた作品がありますが、実はかけた焼き物を金繕いしただけだったということもあります。北斎の「赤富士」は簡潔な色で素晴らしいとされますが、北斎からすると、版木の枚数が少なくて済み、安くできたということかもしれない。そういう勘違いがいろんなところでよい影響を生んでいることもありますね。
しりあがり寿:そうですよね。頑張っているだけじゃなくて必然性があって仕方なくやったことが結局オリジナリティに繋がったり、その土地、その人の事情が、逆に世界にはないオリジナリティになったりすることもありますね。
北斎の作品と生涯には
自由さがあふれている
── 最後に、今回の北斎展の意味というのでしょうか、世界の人々、あるいは現代の人々にとって北斎はどのような存在だと言えるのでしょうか。
永田:かつて、ある学芸員が私に「北斎、現役だからいいですね」と言ったことがあります。「現役って何ですか」と聞いたら、例えば狩野派は古美術だけど、北斎はいろんな側面があって、今でもテレビのチャンネルひねればいっぱい出てくる。北斎はそういう意味で、現役だと言うんですね。
現代にも訴える力があって、今の人たちが北斎のものを使い、いろんなものとコラージュして、また別の北斎をつくっているようなところがある。北斎の現役版が出てきたりとか、そういう可能性を多分に秘めていると思います。
今に息づくということで考えると、北斎のおもしろさは北斎その人だと思います。若い人たちの集まるところで話すときにいつも言うんですが、「北斎は金持ちの子でもなかったし、うんと金持ちになったわけでもない。でも、一つのことを諦めずにコツコツやっていたから、世界に冠たる人になれた」と。
お年寄りが集まるところでは、「あの『赤富士』を見てください。人生50年の時代に70歳半ば近くになって描いて、百何十歳まで生きて絵の道を改革したいと言っていた。それから見れば、現代社会で60歳や70歳でリタイアして、内向きに人生を送るといったことはない」といった話をします。
北斎は今の時代の生き方の指針になるような人物ではないか。自分が思い込んだもので生きて、しかも百何十歳まで生きてそれをやりたいというのはとても素敵なことだと思います。自分がいくら年齢を取ってもへこたれずに目的を持ち続けることを教えてくれるという点では、我々の人生の先輩として、こんなありがたい人いないと思います。
この話は日本だけではなくドイツでもしました。北斎の絵のおもしろさと生き方の魅力の二つが現代に現役であって、それはまだまだ活かせるかもしれない。絵は北斎の精神の表れですから、そういう部分も見てもらえたらいいと私は思います。
しりあがり寿:絵を描く人として羨ましい。とにかく絵が好きでひたすら描き続けるという自由さがある。今から見ても、北斎はとてつもなく自由ですね。
対談撮影:相川健一
(本稿中の図版の北斎作品はすべて「日独交流150周年記念 北斎展」出品作品)
永田 生慈 (ながた せいじ)
葛飾北斎美術館館長。日独交流150周年記念「北斎展」監修。
1951年 津和野生まれ。小学生のころ古本屋で1冊の本を手にし、北斎に出会う。以来、北斎作品に魅了され続けて今日に至る。太田記念美術館副館長を経て、津和野に葛飾北斎美術館を設立。北斎研究の第一人者として、日本国内、海外で行われるさまざまな展覧会にかかわり、2005年に東京国立博物館で開催された「北斎展」では監修(ゲスト・キュレーター)を務め、図録の巻頭テキストを執筆。同展はその後、ワシントンDCのサックラー美術館にも巡回し、日米両国で大成功を収めた。北斎および浮世絵に関する編著多数。
主な編著:
『もっと知りたい葛飾北斎―生涯と作品 』(東京美術 )2005
『歴史文化ライブラリー〈91〉葛飾北斎 』 (吉川弘文館)2000
『日本の浮世絵美術館』(角川書店)1996 ほか
『資料にみる近代浮世絵事情』(三彩社)1992
『北斎美術館』(集英社)1990
しりあがり寿 (しりあがりことぶき)
漫画家
1958年 静岡市生まれ。多摩美術大学グラフィックデザイン専攻卒業後キリンビール株式会社に入社、パッケージデザイン、広告宣伝等を担当。1985年単行本『エレキな春』で漫画家としてデビュー。パロディーを中心にした新しいタイプのギャグマンガ家として注目を浴びる。1994年独立後は、幻想的あるいは文学的な作品など次々に発表、マンガ家として独自な活動を続ける一方、近年ではエッセイ、映像、ゲーム、アートなど多方面に創作の幅を広げている。主な作品は『流星課長』『ヒゲのOL籔内笹子』『地球防衛家のヒトビト』『コイソモレ先生』『方舟』等。第46回文藝春秋漫画賞、第5回手塚治虫文化賞「マンガ優秀賞」を受賞。『真夜中の弥次さん喜多さん』(長瀬智也、中村七之助主演)が宮藤官九郎により映画化されている。2006年より神戸芸術工科大学先端芸術学部教授。フランス、ドイツ、インドネシア等で展示、インスタレーション作品等発表。3.11の東日本大震災のすぐあとに発表された最新作『あの日からのマンガ』は、大きな話題となっている。