舞台芸術のみならず、文学を始め美術や映画など多くの芸術分野に影響を与えた舞踏。70年代後半以降、世界中のフェスティバルから招待を受け、次々に海外公演が行われましたが、世界の人々は舞踏をどのように受容し、舞踏からどのような影響を受けてきたのでしょうか。
日本を代表する舞踏家として国内外で活動し、昨年は初の南米公演を行った麿赤兒さん(大駱駝艦)、舞踏を長年研究されてきた國吉和子さん(舞踊研究/評論家)、フランスから来日し、フランス演劇史と歌舞伎ならびに日本の身体表現を研究されているパトリック・ドゥ・ヴォスさん(東京大学教授)を招き、70年代から現在に至る、舞踏の国際的な受容を探りました。
(司会 国際交流基金舞台芸術チーム 荻野 崇一郎)
大駱駝艦、初の南米公演
──昨年の秋に、麿赤兒さんの大駱駝艦がメキシコとブラジルで本公演を行いまして、計7回の公演が、すべて満員御礼という大成功を収められました。ブラジル公演は国際交流基金が主催事業として実施したもので、私が担当させていただいたのですが、じつは私は国際交流基金で1975年から84年まで大野一雄や大駱駝艦の海外デビュー公演、土方巽作品の欧州紹介にも携わっておりました。当時は、舞踏家に航空運賃を助成することも容易ではなかった。それが今日では、大駱駝艦の公演を国際交流基金が主催するとは、まさしく隔世の感があります。
改めて、麿さん中南米公演の成功おめでとうございます。メキシコとブラジルのお客さんの反応はいかがでしたか。
麿:ありがとうございます。両方とも初めての国なもんですからね。どういうふうに見られるんだろうとすごく心配していたんですよ。ところが、お陰様で満員御礼、スタンディングオベーションまでしていただいて。
じゃあ、それは何故だろうと考えてみたんですよ。メキシコもブラジルも、数百年前まで植民地でしたから、彼らの中で、かつての南米の古い文化と、外から入ってきたヨーロッパの新しい文化の融合が現在もまだ途上だと思うんです。まだまだ固まってない。そういう所に、僕がさらに異質なものとしてぽっと現れたことに彼らは熱狂しているのかもしれない。彼らが求めている「何をアイデンティティーにするべきか?」ってことの、ちょっとしたヒントを与えたのかもしれません。大げさに言いますとね(笑)。
──麿さんの舞台の魑魅魍魎の世界をメキシコやブラジルの人たちは、感覚的に分かるように思います。ところで、観客や批評家の反応は国によってかなり違いますか。
麿:ええ。例えばフランスなどでは、日本の文化自体に親しみがあると同時に慣れきってもいますから、逆に「日本人より俺たちのほうが理解しているぞ」なんて雰囲気もあったりしますよ。僕は嫌いなんですけど、禅っぽさとか日本の伝統文化みたいなものが無意識に出ちゃう瞬間がありますよね。それがどうもフランス人は鼻に付くらしいのね。だからそういうアナクロな部分を突いてくる批評もあったりします。まあ、それが刺激にもなり、腹も立ちっていうね。だから交流というよりも、ある意味での国際摩擦を発揮させて、それとどう折り合いを付けていくかということはあるでしょうね。
結局僕らは「まな板の上の鯉」ですから。最初にアメリカに行った時も「僕は別に踊りやダンスを持ってきたわけじゃありません。日本を持ってきたんです」とか言って格好つけてね。それで、ニューヨークタイムズの記者が「じゃあ、どういうふうに紹介すればいいんですか?」なんて聞いてくるんで、「まあ、まな板の上の鯉ですから、煮るなり焼くなり好きなように料理してください」って返したりして。そしたら、記事に江戸時代の「まな板の上の鯉」の絵を掲載するわけですよ。冗談みたいな話ですけど(笑)。
終演後、サントス市内にて
公演実現のきっかけとなったSESC(セスキ・ブラジル商業連盟社会サービス連盟)のメンバーと。
舞踏の歴史を振り返る
──それでは、今度は國吉和子さんにお話を聞きたいと思います。國吉さんは、舞踏の海外紹介に大きな役割を果たした舞踊批評家の市川雅さんの愛弟子として、70年代から数多くの作品に接してこられました。80年代に入ると、舞踏は世界的な成功を収めたわけですが、このことが当時の日本の現代舞踊界にどのような衝撃をもたらしたとお考えでしょうか。
國吉:70年代後半、日本の現代舞踊界には、厚木凡人を中心としたアメリカのポストモダンダンス系の人々と、土方巽の暗黒舞踏とその拡がりとして大野一雄、笠井叡、そして麿さんのグループが林立していました。戦前からの展開としての現代舞踊は、担い手の舞踊家は増えたものの、専ら洋舞技術の修得とそれを日本のモダンダンスとしてどのように確立するかということを模索していました。
舞踏の登場によって、表現媒体として考えられていた従来の身体意識は大きく変革を迫られたはずなのですが、現代舞踊界は舞踏を積極的に理解しようとしなかったのではないでしょうか。舞踏はもともとは現代舞踊から派生したものですが、舞踊というより演劇や美術寄りの実験的な表現として捉えられていたようで、その結果、反体制的で不穏さを孕んだ舞踏から現代舞踊は距離を置いてしまったのだと思います。ですから、当時の現代舞踊は舞踏から直接的な衝撃は被らなかったといえるでしょう。舞踏は理解を得られない状態で突き放され無視されたわけですから。でも、そうした状況だったので舞踏は舞踊界の慣習にとらわれることなく、かえって自由な場を確保できたのだといえます。
1986年に土方巽が亡くなって、舞踏のピークがちょっと過ぎたような状態になったときに登場したのが、勅使川原三郎などのいわゆる現在のコンテンポラリーダンスの先駆けとなった人たちです。現代舞踊界が保守にまわって、時代の先端から距離をとろうしたために、舞踊界の師弟関係に囚われないところから新人が参入しやすい状況をつくったように思います。こうして1970年代後半からその後、約20年間かかって、現在のダンスシーンにつながる状況が形成されたと考えることができます。
──たしかに、当時の舞踏は現代舞踊界から敵視されていましたね。それが近年では評価が高まっているわけですが、こういった変化は、いつごろから見られたのでしょうか。
國吉:やはり、大野一雄の業績に負うところが大きいと思います。舞踏に対する一般の評価が安定した時期っていうのは、90年代半ばからですね。
94年と96年に、大野一雄は舞踊批評家協会賞を受賞していますよね。その後、98年にモーリス・ベジャールやピナ・バウシュも選ばれた国際演劇協会ITIのMessenger of the Yearに指名されて、さらに99年にはミケランジェロ・アントニオーニ芸術賞を受賞されるなど、世間一般の顕彰を受けたことで広く認知されるようになったと考えていいんじゃないでしょうか。
すでに80年のナンシー演劇祭で、大野一雄の作品は大変な評判になり、舞踏に対する欧米の関心は既に高まっていました。ところが、外国と日本での評価には大きなギャップがあって、相変わらず国内では舞踏に対する評価は冷淡なものだった。それが、85年の「舞踏フェスティバル1985」(日本文化財団主催)の開催を機に、舞踏は戦後日本が生み出した驚くべき芸術表現であることが、ようやく広く一般の人々の関心をひくようになったわけです。特に土方巽の思想が、舞踊のみならず、ほかの芸術一般にも大きな影響を与えつつあるのだということが国内で理解されるのは、90年代半ばになってからでした。
──國吉さんは、舞踏の先達である彼らの仕事が今日の現代舞踊に及ぼしている影響をどのようにお考えでしょうか。
國吉:最初に思いつくのは、土方巽や大野一雄の言葉ですね。言葉が残されていることによって、その言葉を今の若い人たちが自由に解釈して、自分たちの創作にフィードバックしている。2人の言葉が非常に魅力的で、書物としてその言葉がしっかり残っている。それが身体表現の領域を逸脱してクリエイティブな仕事に携わる人たちに示唆を与えている。これはすごいことだと思います。
──土方巽と大野一雄が話す言葉は象徴詩のようなイメージ言語で、彼らの会話を私などが聞いていても、全然分からないんですね。ところが、彼らの間では完璧に理解しあっていた。
國吉:大野さんが土方さんの言葉をどこまで分かっていたかというのは、想像するしかないですが。麿さんに対しても、土方さんはたくさんの言葉を与えてくださったんじゃないでしょうか。
麿:身体に対するアプローチがとんでもないところから来るんです、言葉としてね。「お前、なんで右足出して左足出して歩いてるんだ」なんて言われて、こっちは「え、え、え」って驚かされる。「やることねぇのか。じゃあ寝てろ」とか言われたり。
西洋や日本の伝統に刷り込まれたんじゃない踊りを探ろうとしていたんでしょうね。音楽が鳴って赤ん坊がアビャビャービャービャーとか言っているのを、ぱっと掴まえて、これも踊りだと。そういう発想ですよね。
國吉:身体は新しくつくりだすものじゃなくて、発見するものだっていう視点の置き方は、新しい動きを模索してる人たちにとっても、1つの大きなキーワードになっていますね。
海を渡った舞踏
──今度はドゥ・ヴォスさんにお伺いします。ドゥ・ヴォスさんが最初に来日されたのは77年ですね。なぜ日本の演劇に興味を持たれたのでしょうか。
ドゥ・ヴォス:パリ大学に日本学科というのがあって、主に日本語、日本文学を勉強していました。その時に一番関心があったのは哲学で、ジル・ドゥルーズやミシェル・フーコー、フェリックス・ガタリに夢中でした。それでガタリが書いた田中泯の批評を読んだりしているうちに、舞踏を含めた日本の舞台芸術全体に興味が向かっていきました。
──70年代の初頭あたりから、寺山修司や鈴木忠志らのアングラ演劇がヨーロッパで成功を収め始めました。70年代後半になると、舞踏公演の客席からフランス語が聞こえてくるようになった。当時、日本の演劇の動向をフランス本国に伝えるチャンネルがあったということでしょうか。
ドゥ・ヴォス:70年代のパリの前衛を代表するような劇場がいくつかあって、その周辺では舞踏の存在は耳に入っていたと思います。それとテオ・レゾワルシュというパントマイムのダンサーが、60〜70年代に日本に来ていて、土方巽らの舞踏をよく見ていたようです。
麿:よく遊びにきてましたよ。
國吉:彼は1962年2月に草月ホールでパントマイムの公演を行っていますね。市川先生の舞台評にもとりあげられています。
ドゥ・ヴォス:そうですね。そのレゾワルシュがフランスで『Erotique du Japon』と『Les rizières du théâtre japonais』という本を出版するんです。この2冊が日本の演劇を紹介する先駆けとして非常によく読まれて、1つの日本文化受容の枠組みをつくったわけです。
当時のフランスでの日本のイメージは、敗戦を乗り越えた経済新興国というものでした。ところが、レゾワルシュが紹介したのは
フィールド(田んぼ)の中で様々な体が踊ったり、前衛的でエロティックなイメージだった。もちろん舞踏が入ってくる以前に、大島渚や寺山修司も知られていましたから、どんどん日本の新しいイメージが固まっていった。エロティックで、洗練されていて、そしてある種の「暴力の美学」を作り出してきた日本ですね。
──同じ頃にリベラシオン紙特派員のコリーヌ・ブレもいろんな芝居や踊りの公演に来ていましたね。
ドゥ・ヴォス:そういった人たちの橋渡しもあって、特に70年代後半からは舞踏家がパリに来る機会も増えてきた。大野一雄、古関すまこ、室伏鴻、カルロッタ池田あたりですね。私が舞踏に興味を持つようになったのはその頃です。それで、来日して、最初は吉本隆明の『共同幻想論』について修士論文を書こうと思っていたんですが、理論ではなく、作品の中から考えたほうがいいと思うようになって、結局研究課題として選んだ歌舞伎について指導して下さった郡司正勝先生のところで土方の「東北歌舞伎」とかにも触れたりしました。
麿:パリの学生にとって、舞踏に興味を持ったりするのは普通のことだったんですか?
ドゥ・ヴォス:いえ、まったく! 当時、東洋に対する興味自体はみんなそれなりにあったとは思いますけど、
大体はアメリカから渡ってきたヒッピー文化の流れで、禅をはじめとした東洋思想への漠然とした憧れみたいなものでしたね。具体的に考えていこうと思ったら、その程度ではもう足りないので、自然と芝居や個々の作品へと関心は移っていきました。
アンチテーゼとしての舞踏
──83年にヨーロッパで土方巽の作品を紹介した時に、現地の批評の中には原爆や伝統芸能、といった文脈で評論するものがあったのですが、当時ヨーロッパでは舞踏をどのように位置づけていたのでしょうか。
ドゥ・ヴォス:一言では言いにくいですが、インテリ層に受け入れられたことは重要だったと思います。例えばガタリが舞踏や田中泯についての文章を書くと、大きな反響がある。すると、思想家以外にも、演劇人やダンサー、美術家も見にやってくる感じですね。
麿:そういう時代ですよね。越境するっていうか。
ドゥ・ヴォス:それぞれの分野で見方も違うわけです。ですから、統一的な受け取り方ではなく、多様な受容のかたちが当時あったように思います。その後、徐々に舞踏が単に日本のものだけではないということが理解されてきて、先ほど挙げたエロティック、洗練、暴力という普遍性を持つ3つの概念が見いだされていった。
それともう1つ重要だったのはやはり戦争、特に広島の原爆ですね。演劇評論家のジョルジュ・バニュが、なぜ我々は舞踏にこんなに感情を揺さぶられるのかということを、当時記しています。「アメリカを含めた西洋人が、日本に対して非常に汚いことをやってきたけれど、舞踏を見ることによって、その罪悪感が問いかけられているのだ」と書いている。これはあくまでもバニュ個人の視点ですが。
舞踊家はもうちょっと抽象的な部分に関心を示していたようですね。81年頃に、大野一雄のところに、ベルナルド・モンテとキャテリン・ディヴェレスという人が弟子入りしています。私は彼らの舞台を実際には観ていないのですが、映像や写真を見る限りでは、ステレオタイプ化した舞踏ではなく、もう少し内面的な部分を理解しているように感じました。
──ヨーロッパがそれなりの経費負担をしてまで外国から舞台芸術を招聘する場合は、単なる国際友好親善ではなく、自国の文化産業に資するか否かが価値判断の基にあるのだと思います。欧州は舞踏から何を得たのでしょうか。
ドゥ・ヴォス:81年の段階で彼らが舞踏への強い関心を持っていたように、ダンスの分野で、なぜ舞踏があれほど興味を持って迎えられたかというのは、当時のフランスの状況を考えないといけないでしょう。
80年代前後のコンテポラリーダンスの世界は、圧倒的にアメリカのポストモダン・ダンスの強い影響下にあった。若いダンサーはマース・カニンガムのスタジオに行って、そこで数カ月、数年間を過ごして、フランスに戻ってくる。ヌーベル・ダンスの最初の世代の人たちはそういう道を選んだ人たちが多かった。それに対するアンチテーゼというか、正反対のモデルとして日本は出てきたわけです。80年代に入ってからヌーベル・ダンスに舞踏やドイツのダンスシアターの影響が見られるのも、偶然ではないでしょう。
シルヴィアン・バジェスという研究者がある仮説を立てています。なぜ80年代初頭に、フランスにとって日本が重要だったかというと、1つはあまりにアメリカの圧倒的な影響があったこと。もう1つは戦前にドイツから伝わってきた表現主義が、戦後のフランスでは隠蔽されてしまったことへの反動だと記しています。つまり、戦後、抑圧され敬遠されていたナチ時代のドイツ文化、あるいはそこから発展した身体表現との接点を、舞踏が偶然に開いてしまったわけです。
國吉:市川雅先生が、ミュンヘン演劇祭(1982)について報告された記事の中にも、舞踏がヨーロッパに受け入れられた理由のひとつとして、アメリカンダンスを断ち切るためだとする人がいたと書かれています。
ドゥ・ヴォス:カニンガムを始めとする、非常に様式的な、アメリカのフォーマリズムや抽象性への不満ですね。だからダンスの聖地としてのアメリカと、それに対するアンチ聖地としての日本。そういう構図があったわけです。
麿:逆に「舞踏がすごい!」って、フランス人が言い出したから今度は「こんなのやってられないよ」っていう反動が出てくるんだろうけどね。アンチテーゼに対するアンチテーゼ。
國吉:アンチテーゼがないと、前へ進めないというのは、いかにもフランス的ですね。
麿:ある現象に対するアンチですから、ごくごく自然なことですよ。ただ、舞踏にはぬめっとした、よく分からないところがありますからね。だから、なかなか断ち切るのが難しいでしょう。沼みたいなものですよ。はっきりしたものがないから、長持ちするんでしょうな。
ドゥ・ヴォス:沼はよい例えですね。カニンガムといえば身体のイメージは非常に輪郭がきちんとはっきりしている。抽象的だし、ハードエッジです。だからこそ、ぼろを着て、身体の輪郭をぐにゃぐにゃと表象する舞踏は、まさにアンチテーゼだったわけですね。
麿:どっちの生き方が正しいかとか分からないですけどね。まあ、長生きするためには、ぐにゃぐにゃなほうがいいと思うんですよ。あんまり格好ばっかりつけて生きられないですよ(笑)。
舞踏はダンスか、演劇か
國吉:最後にちょっと質問してもよろしいですか? 78年にパリで初演された室伏鴻とカルロッタ池田の《最後のエデン》。あれはダンスというより、演劇として受け止められたのでしょうか?
ドゥ・ヴォス:シルヴィア・モンフォールという劇場が、そもそも演劇をやっているところでしたから、そうだと思います。お客さんも演劇ファンが多かったのではないでしょうか。
國吉:舞踏が演劇として見られることは、結構あると思います。麿さんの作品の評価も、演劇的という表現が多い。
麿:そう言われるのは、ちょっと嫌ですね。ピナ・バウシュの場合は、演劇と踊りを超えたってキャッチフレーズなんだよね。でも、舞踏っていうのは演劇的って言われてしまう。ピナが超えていないとは言わないですよ。でも、その語り口が気に食わない。超えてどうするのとも思うし、超えたという意味自体がよく分からない。
國吉:どちらにもカテゴライズされないから、超えたってことじゃないでしょうか。
麿:それはもう、属性分けされるのはやぶさかではありませんよ。言われても仕方ない。でも、全ての表現は、あらゆる属性を背負っているんです。だから舞踏の場合であれば、さっき言いましたけど、思わぬ言葉を振り掛けることによって、ぐっと立ち上がってくるものなんだと思う。赤ん坊がふにゃふにゃ言っていても「これはダンスだ」って言葉を与えることで、一気に見え方が変わってくる。そこにいろいろな言葉が出てきて、修飾されることで舞踏は生まれてくるんじゃないかと思う。
國吉:言葉が舞踏をつくるという面白い例として、2008年にはボリス・シャルマッツが土方巽の言葉からインスピレーションを受けて、《La danseure malade》っていう舞台をつくったりもしている。言葉が時を超えて連鎖していますね。
麿:舞踏という言葉自体も、笠井叡がつくったものだって言うからね。やっぱり、舞踏っていうのは異質でよくわからないものだね。言葉を与えることでかたちになったりもするけど、そこからもまたアメーバみたいに、ぐにゃぐにゃになって逃げて行く。アンチな存在なんですよ。
──話は尽きませんが、そろそろ結びに入りたいと思います。
本日は、麿さんの南米公演のお話を軸にして、海外における舞踏の受容についてかなり深い議論ができました。19世紀にヨーロッパを席巻したジャポニズムの火は50年ほど燃え続けたそうですが、海外での舞踏熱も既に40年近く続いているわけです。いまだにそれは、広がりこそすれ収まる気配はありません。この火を絶やすことなく、次の世代へと手渡していくことが大切だと思います。ということで、皆さまの今後のご活躍をお祈りします。本日はありがとうございました。
(左から)
麿赤兒(まろ あかじ)
大駱駝艦主宰者の麿赤兒は1943年奈良県出身。「ぶどうの会」を経て舞踏家土方巽に師事。1964年に唐十郎と「状況劇場」を設立、劇団主宰者唐十郎の「特権的肉体論」の具現者として活躍した。1972年に大駱駝艦を旗揚げした後にも大島渚、鈴木清順、Q. タランティーノ作品を含む映画やテレビに数多く出演している。1974年、1987年、1996年、1999年、2008年に舞踊評論家協会賞を受賞し、2006年には文化庁長官表彰を受賞した。
大駱駝艦(だいらくだかん)
72年、麿赤兒を中心に結成。その様式を天賦典式(この世に生まれ入ったことこそ、大いなる才能とする。)と名付け、常に忘れられた「身振り・手振り」を採集・構築し、すでに60余りの作品を上演。
海外公演は、82年 フランス、アメリカ を皮切りに12カ国34都市に於いて公演し、BUTOH(舞踏)を広く世界に浸透させた。艦員による大駱駝艦スタジオ「壺中天」(コチュウテン)においての作品発表を「壺中天公演」と銘打ち定期的におこなっている。
2009年2月世田谷パブリックシアターに於いて麿赤兒公演「シンフォニーM」を発表。10月麿赤兒公演「Gは行く」を世田谷シアタートラムにて開催。2010年10月メキシコ・ブラジルツアー、2011年3月世田谷パブリックシアターにおいて創立39周年天賦典式「灰の人」上演が決定している。1974年、87年、96年、99年、08年舞踊批評家協会賞受賞。
國吉和子(くによし かずこ)
舞踊研究・評論。多摩美術大学客員教授、立教大学・早稲田大学等非常勤講師。舞踊学会理事。日本洋舞史研究会事務局、「舞姫の会」(土方巽研究)主宰。トヨタコレオグラフィーアワード審査員(2002~2004)。著書『夢の衣裳、記憶の壺――舞踊とモダニズム』。共編『日本洋舞史年表Ⅰ~Ⅵ』。編著に市川雅遺稿集『見ることの距離――ダンスの軌跡1962~1996』
荻野崇一郎(おぎの すういちろう)
1972年国際交流基金入社。東京、京都、ローマ、トロントなどで勤務の後、2009年に退職。現在は同基金舞台芸術チーム嘱託職員。著作に「国際性とは」(「国際交流」1983年5月号 国際交流基金)、「ヨーロッパの認識検証―暗黒舞踏派公演の反応」(「美術手帖」1983年11月号 美術出版社)。編集協力にLe buto et ses fantomes, Alternatives theatrales 22-23 (Avril-mai '85)。
パトリック・ドゥ・ヴォス(De Vos Patrick)
東京大学大学院・総合文化研究科教授。専門はフランス演劇・舞台芸術理論。古典演劇から20世紀の舞台芸術一般まで、幅広いフィールドに関心を持ち、特に現在までのフランス演劇史においてモデルニテを問うてきた作品および演劇論・演劇批評、日本の古典演劇における身体、日本の60年代以降のダンス(特に「舞踏」とその世界的な進化)などを研究課題としている。
鼎談写真: Atsuko Takagi