松隈 洋(京都工芸繊維大学教授)
カンボジア・プノンペンにて2014年1月から2月にかけて開催された巡回展「パラレル・ニッポン 現代日本建築展 1996-2006」に伴い、国際交流基金(ジャパンファウンデーション)は、日本近代建築史の専門家・松隈洋氏を派遣し、一般及び建築学生・専門家向けのレクチャーを開催しました。さらに、フランスの巨匠ル・コルビュジエの影響を受けたカンボジアの著名な建築家ヴァン・モリヴァン氏との対談も実現。レクチャーを通して、また、カンボジア建築を目の当たりにして感じたことを、松隈氏に振り返っていただきました。
カンボジアで伝えたいメッセージ
2014年2月18日から21日までの4日間、国際交流基金からの依頼で、初めてカンボジア王国の首都プノンペンを訪れた。求められた使命は、現地のカンボジア日本人材開発センターで開催されていた「パラレル・ニッポン 現代日本建築展1996‐2006」カンボジア展にあわせて、カンボジアの建築家、建築や土木を学ぶ学生に向けた2回の講演を行い、日本の建築文化への理解と関心を高め、専門的な情報交流を促進させる、というものだった。
この展覧会は、もともと、国際交流基金と日本建築学会が約10年に及ぶ世界巡回展として企画し、2006年に東京都写真美術館で開催された後、世界各地を巡り、折しも、カンボジアへ巡回されていた。その内容は、バブル経済の崩壊以降の10年間に建てられた日本の現代建築を紹介するものであり、小さな住宅から美術館や図書館、劇場や学校、駅や空港まで、海外に建てられたものも含め、その総数は100件を超える。事前に渡された展覧会のカタログを開くと、わずか8年前にもかかわらず、どこか遠い昔のような印象を受けた。2011年3月11日の東日本大震災という国難を経験し、混迷を深めつつある日本の現実がそう感じさせるのだろうか、誌面を飾る華やかな現代建築に違和感を覚えてしまう。
そんな疑問を抱きつつ、近代建築史を専門とする立場で一体何が話せるのか、正直戸惑う気持ちも強かった。それでも、直前の1月に依頼を受けて2月にカンボジアへ行こうと思ったのは、ヴァン・モリヴァン(VANN MOLYVANN 1926年~)というカンボジアの戦後の近代建築をリードした重鎮の建築家に会う機会があること、そして、彼が日本を代表する建築家の丹下健三(1913~2005年)を尊敬していると伝え聞いたからだった。偶然にも、2013年には、生誕100年を迎えた丹下の大規模な回顧展が彼の代表作の香川県庁舎(1958年)がある高松市の香川県立ミュージアムで開催され、私自身も実行委員会の末席に加わっていた。これも何かの縁なのだろう。
そして、手に入る数少ないモリヴァンに関する資料を読んで、講演の内容を決めた。それは、優れた日本の近代建築には、西洋から移入された考え方を日本の気候風土や伝統と調和させる試みが展開されており、その具体的な実践を紹介することで、グローバリゼーションに世界全体が覆われつつある現代において、むしろ地域性(ローカリティ)に深く根ざすことが、独創性を持った建築の普遍性を獲得し、より良い環境を実現することにもつながる、というメッセージを伝えることだった。紹介したのは、20世紀の近代建築をリードしたフランスの巨匠建築家、ル・コルビュジエ(1887~1965年)に学んだ3人の日本人建築家である前川國男(1905~86年)、坂倉準三(1901~69年)、吉阪隆正(1917~80年)と、丹下健三、そして、「パラレル・ニッポン」展で展示されていた2人の現代建築家の谷口吉生(1937年~)と内藤廣(1950年~)の仕事と建築思想である。果たして、カンボジアの建築家や学生たちに、そしてモリヴァン氏に、そうした思いは伝わるだろうか。真冬の京都から熱帯のカンボジアへ、2月18日、不安を抱えながら現地へと入った。同日の夕方にはプノンペン国際空港に着陸し、出迎えのタクシーでホテルへと向かう。人口150万の大都市プノンペンは、ちょうど仕事を終えて帰宅する時間帯だったのだろう。自動車やバイク、トゥクトゥクと呼ばれるオート三輪や自転車が道路にあふれ、活気に満ちていた。初めての場所なのに、どこか懐かしい風景にも見える。
カンボジアの伝統を継承する建築の数々
到着の翌日の2月19日の朝から、さっそく、徳山高等専門学校に留学した経験をもつ通訳のナヴィさんの案内で、プノンペン市内の建築を見て回る。まず向かったのは、モリヴァン氏の代表作、オリンピックスタジアム(1964年)だ。雨が多く、強い陽射しが照りつけるカンボジアの厳しい気候風土に合わせたその力強いコンクリートの造形に圧倒される。空調設備のない体育館の客席と壁には、外光と外気が通り抜ける工夫が施され、その内部は荘厳な教会のような光に包まれていた。一方、隣接する陸上競技場は、大らかなランドスケープが印象的だった。
オリンピックスタジアム
オリンピックスタジアム外観
体育館内部
(左)陸上競技場メインスタンド、(右)陸上競技場の聖火台とスタンド
続いて、独立記念塔(1958年)とチャトモック国際会議場(1961年)を見学する。いずれの建物にも、アンコール・ワットなどの石造文化や伝統的なクメール王朝時代の木造建築をモチーフにしたカンボジアの伝統を継承する確かな造形デザインが施されている。さらに、彼の設計ではないが、フランス統治時代に建てられ、市内最大の市場として今も多くの市民が寄り集うアールデコ様式のセントラル・マーケット(1937年)にも立ち寄る。フランスからの援助を受けて2010年に改修工事が完了したという。鉄筋コンクリートのドーム状の内部空間は神々しい光にあふれ、その下に、日用品、電化製品、食品、古着、土産品から宝石類まで、さまざまな商品が並ぶ光景は壮観だった。また、国立博物館と王宮も見学し、クメール文化の一端にも触れることができた。
そして、その日の夕方には、思いもよらず、政府の建築関係の高官との面談が用意されていて、少々戸惑った。それでも、今見て来たばかりの近代建築の素晴らしさを伝え、カンボジアが世界に誇る文化遺産として大切にしてほしい、と近代建築の保存を提唱する世界的組織であるDOCOMOMOの存在を紹介する。先方からは、近年の目覚ましい経済成長の一方で、建築基準法が未整備である現状を知らされ、やっと創設された建築家協会の活動への助言と支援を唐突に求められた。身に余る話と面食らったが、改めて日本の建築界への期待の大きさを実感させられた。
(左)独立記念塔、(右)チャットモック国際会議場
(左)セントラル・マーケット外観、(右)同内観
(左)国立博物館、(右)王宮
ヴァン・モリヴァン氏の建築への深い思いに触れて
翌日の20日は、午前中にメコン大学の学生たちに、用意した日本の近代建築についての講演を行った後、午後、いよいよモリヴァン氏をご自宅(1966年)に訪ねる。応接間で、2005年に開催した「生誕100年・前川國男建築展」のカタログをお渡しして、1時間ほど話をうかがう。聞けば、モリヴァン氏は、生前の前川や丹下、建築史家の鈴木博之(1945~2014年)と親交があり、かつて来日した際には、前川の設計した東京文化会館(1961年)を見学して感動したという。
ヴァン・モリヴァンは、1926年に生まれ、1946年にフランスに留学、ソルボンヌ大学で法律学を学び始めたが、建築へと転向し、翌1947年から1956年まで、ボザールで建築を学んだ。1956年にカンボジアへ帰国した後は、ル・コルビュジエの影響を強く受けながら、シアヌーク殿下の庇護の下、弱冠30歳という若さで国の主任建築家に抜擢され、1953年にフランスから独立したばかりのカンボジアの国家施設を数多く手がけてきた。1965年には王立芸術大学学長、1967年には教育芸術相も歴任する。しかし、1970年のロン・ノル将軍による軍事クーデターに始まり、カンボジアの現代史に暗い影を落とすポル・ポト政権下の時代には、スイスへの亡命を余儀なくされてしまう。その後、1971年から20年の長期に及ぶ亡命から帰国した1991年からは、アンコール遺跡の保存と修復に尽力している。今回、わずかな時間ながら、初めてその穏やかで気さくな人柄と高潔な意志、建築への深い思考に接して、もし1970年代の政治的な混乱がなかったら、フィンランドのアルヴァー・アアルト(1898~1976年)にも匹敵するカンボジアの国民的な建築家として、より多くの建築を手がけていたに違いないと思えた。それでも、2009年から2012年にかけて、ウィリアム・グレイブスを中心に、地元の王立美術大学をはじめ、遠くアメリカのイエール大学やロシアのモスクワ工科大学の学生たちが協力して、亡命中に失われてしまった図面を復元し、彼の仕事の全体像を後世に残そうとする非営利の活動、ヴァン・モリヴァン・プロジェクトが進行し、来年にはプリンストン大学の出版会から作品集が出版される予定だという。また、話をお聞きしたご自宅も、カンボジアの気候風土と伝統に調和する素敵な空間だった。
(左)モリヴァン氏自邸の外観、(右)モリヴァン氏と筆者
面会を終えて自宅を後にし、ヴァン・モリヴァン・プロジェクトにも参加したという地元の若い建築家の案内で訪ねたのが、プノンペン郊外に建設された100棟のローコストの戸建て住宅群(1965年)である。ここでも、モリヴァンは、ル・コルビュジエの最小限住宅案に影響を受けたと思われる方法を用いながら、伝統的なクメール時代の木造の民家にヒントを得た独自の造形を試みていた。細いコンクリートの柱に支えられた高床式のフレームに木造の屋根を架けた住宅群は、新しさと懐かしさを醸し出した集落のようだった。
その後、女性建築家(氏名不詳)に率いられたソビエトの設計チームが手がけたというカンボジア工科大学(1964年)の校舎群にも立ち寄る。光と風の通り抜ける透明感あふれる建築と学生たちの談笑する姿が織りなす光景に、日本の現代建築が失ってしまった建築の原点、人々の拠り所となる場所をつくること、を見つけたように思えた。
戸建て住宅群
カンボジア工科大学
カンボジア工科大学外観
(左)同1階渡り廊下、(右)同2階渡り廊下
(左)同校舎外観、(右)同廊下
続く最終日の21日は、「パラレル・ニッポン」展の会場であり、「日本カンボジア絆フェスティバル」が開催されていたカンボジア日本人材開発センターで、カンボジア工科大学の学生と教員、モリヴァン氏らを前に、再び日本の近代建築を紹介する講演を行った。そして、僭越ながら、話の最後で、学生たちに、「グローバリゼーションに覆われつつある現代において、何よりも重要なのは、世界共通の方法をローカリティと結びつけることであり、カンボジアには、そのことを先駆的に果たした素晴らしい建築家であるモリヴァンさんがいることを忘れないで下さい」と伝えた。それを受けて、最前列のモリヴァン氏が立ち上がって学生たちに激励の言葉を発し、学生たちが敬意の眼差しで彼を見つめ、大きな拍手をしていた光景が印象的だった。講演会の終了後、やはり彼の手がけた隣接する外語大学(1972年)とプノンペン大学ホール(1968年)を見学する。ここにも、学生たちを包み込む清新な建築の姿があった。
「パラレル・ニッポン」展会場風景
外語大学
(左)外語大学外観、(右)同教室棟外観
(左)同教室棟ピロティ、(右)同教室内部
(左)プノンペン大学ホール、(右)トゥール・スレン博物館
現代日本も共有したい建築の原点
こうして、すべての予定を無事に終えて、帰国直前に立ち寄ったのが、トゥール・スレン博物館である。ここは、元は高校だったが、ポル・ポト政権下で収容所に転用され、多くの人々が拷問を受けた場所だ。そこにはカンボジアの現代史に暗い影を落とす過酷な歴史が刻まれていた。この日も多くの外国人観光客が訪れており、奇跡的に生き延びた数少ない生存者が彼らに語り伝える姿にも接した。しかし、カンボジアでは、今も子供たちに収容所の存在は知らされておらず、教科書にも載っていないのだという。これからカンボジアはどこへと向かうのだろうか。1999年にASEANに加盟し、海外からの投資が大幅に増加して急速な近代化に突き進んでいる。そのことは、短い滞在でも、あちこちの建設現場に見て取れた。現地の日本大使館員の話によれば、建築を志す学生たちは、一様に、「現代的な高層建築をカンボジアに建てたい」と答えるという。経済発展という至上目的を前に、モリヴァン氏が目指そうとしたカンボジアの伝統と気候風土に根差した建築は、受け継がれることなく忘れ去られてしまうのだろうか。しかし、カンボジアの近代建築に触れて、ローカリティに根ざした普遍性を追求することこそ、人々のよりどころとなる建築の姿を切り拓く大きな力になる、との確信を持った。そして、モリヴァン氏の建築が目の前につくりだしていた幸福な風景こそ、現代の日本にとっても共有したい建築の原点だと思えた。
また、滞在中のプノンペンでは、現地の大学教員や建築関係者だけではなく、アンコール遺跡群の観光拠点シェムリアップで、2013年10月、自身の私有地3ヘクタールを国に寄付し、建設資金の援助を受けて、公立の中学校を設計して完成させるなど、農村地域の支援活動を精力的に続けている日本人建築家の小出陽子さんにもお目にかかることができた。気がつけば、今回の滞在で多くのことを学び、新しい視点を教えられたのは、自分の方だった。カンボジアのこれからにどんな協力ができるのかはわからない。しかし、カンボジアの近代建築を紹介し、その魅力を世界へ伝えることで、微力ながら、カンボジアの人々が自国の建築文化に誇りを取り戻し、自信をもって未来を切り拓く一助となれば、と思う。
松隈 洋(まつくま・ひろし)
1957年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部建築学科卒業、前川國男建築設計事務所入所。2000年京都工芸繊維大学助教授。2008年京都工芸繊維大学教授。現在に至る。工学博士(東京大学)。2000年よりDOCOMOMO Japanメンバー。2013年5月~同代表。
主な著書として、『ルイス・カーン』(丸善)、『近代建築を記憶する』(建築資料研究社)、『坂倉準三とはだれか』(王国社)、『残すべき建築』(誠文堂新光社)、『再読/日本のモダンアーキテクチャー』(共著・彰国社)、『日本建築様式史』(共著・美術出版社)、『関西モダニズム再考』(共著・思文閣出版)、『原発と建築家』(共著・学芸出版社)、『美術館と建築』(共著・青幻舎)、『前川國男―現代との対話』(編著・六耀社)、『建築家・前川國男の仕事』(共編著・美術出版社)、『建築家 大髙正人の仕事』(共著・エックスナレッジ)など。
2005年~06年「生誕100年・前川國男建築展」実行委員会事務局長を務めた他、「文化遺産としてのモダニズム建築―DOCOMOMO20選」展(神奈川県立近代美術館,2000年)、「同100選」展(松下電工汐留ミュージアム,2005年)のキュレーションや、アントニン・レーモンド、坂倉準三、シャルロット・ぺリアン、白井晟一、丹下健三、村野藤吾など、多くの建築展の企画にも携わる。丹下健三生誕100周年プロジェクト実行委員会委員、文化庁国立近現代建築資料館運営委員も務める。
プロフィール写真 撮影:齋藤さだむ