西原鈴子
国際交流基金日本語国際センター所長
「海外における日本語教育」は「文化芸術交流」および「日本研究・知的交流」とともに、国際交流基金が実施する国際文化交流事業の三つのフィールドを形成しています。
「海外における日本語教育」事業は、日本語を媒介にして、日本に興味を持ってほしい、理解してほしいという注目願望の側面と、日本から発信可能な様々な側面を利用・享受してほしいという提供願望の側面を持っています。そのことを、少し視点を変えて比喩的に考えてみたいと思います。
「秘密の窓」と「盲点の窓」
「ジョハリの窓」と言われる、コミュニケーション心理学研究の古典的仮説があります。ジョセフ・ルフト(Joseph Luft)とハリー・インガム(Harry Ingham)が発表した「対人関係における気付きのグラフモデル」のことで、自分をどのように公開し隠蔽するかを鍵にしてコミュニケーションの進め方を考えるためのヒントとするモデルです。二人の名前の部分を組み合わせて「ジョハリの窓」と言われるようになりました。以下の図がそれにあたります。
名前が表示されている四つの窓は固定されているのではありません。「開放の窓」が大きくなれば自己開示と共通理解が進んだことになりますし、「未知の窓」が小さくなることは自己と他人双方に新しい発見をもたらす結果を生みます。私がここで問題にしたいのは「秘密の窓」と「盲点の窓」のことです。
「ジョハリの窓」と言われる「対人関係における気付きのグラフモデル」
「自分」を「日本」、「他人」を「海外」と読み替えて考えてみましょう。
「開放の窓」が大きくなればなるほど日本と海外の相互理解が深まることになるのと並行して、日本からの情報発信の拡大によって海外の日本理解が進めば、「秘密の窓」が小さくなることになります。
一方、海外から批評され、指摘されることによって、日本ではまだ分かっていなかったことが明らかにされ、「盲点の窓」が小さくなるということになります。すなわち、自己分析の機会が与えられ、改革すべき側面が見えてくるということです。日本語学習は、それらの引き金となる第一歩となります。
「秘密の窓」と「盲点の窓」が相対的に小さくなれば、「開放の窓」が大きくなり、日本と海外がウィン・ウィン(WIN-WIN)の関係に発展していく結果を生みます。これが、国際交流基金の日本語教育が目指す方向なのです。
日本語学習によって、「開放の窓」が大きくなり、「秘密の窓」と「盲点の窓」が小さくなる。
「開放の窓」を大きくするための「JFスタンダード」
海外に向けて自己開示して行くための、国際交流基金の日本語事業分野における具体的なストラテジーの一例をご紹介しましょう。2010年に発表された「JF日本語教育スタンダード」(以下JFスタンダード)は、日本語の教え方、学び方、学習成果の評価のし方を考えるためのツールとして提案されました。この提案は、2001年にヨーロッパで発表され世界で広く着目され利用されるようになったCEFR(Common European Framework of Reference for Languages: Learning, Teaching, Assessment、外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠)を基礎にして作られました。世界の言語教育界と理論的枠組みを共有することによって、日本語学習の熟達度の指標を海外の学習現場から見えやすくする効果を生んだと思います。
JFスタンダードの開発に当たって、言語によるコミュニケーションを言語能力と言語活動の関係で捉え、一本の木のイメージで表しました。
言語活動と言語能力の関係を整理し、一本の木で表現した「JFスタンダードの木」。日本語を使ってどんなことができるのか、したいのか、そのために必要な言語能力(語彙、文法、社会言語能力など)は何かを考えるのに役立つ。
これに基づいて、日本語の熟達度を示すために、「日本語を知識として知っているか」ではなく、「日本語を使って何ができるか」の指標を6つのCan-Doレベルで表示しています。
A1からC2までのレベルは、各言語でほぼ共通のCan-Doで表されますから、たとえば海外の学習者が6つのレベルのいずれかを履歴書に書き入れることによって日本、日本企業等からの求人に応えることができるようになります。
基礎段階(A1、A2)、自立段階(B1、B2)、熟達段階(C1、C2)の6段階で、日本語で「~ができる」を示したCan-Doレベル。どのような文法を知っているか、単語や漢字をいくつ知っているかというのではなく、それらを使って何ができるのかという点から日本語学習を考えるのに役立つ。
『まるごと 日本のことばと文化』の開発
現在、JFスタンダードに準拠した教材として、『まるごと 日本のことばと文化』シリーズを開発しており、間もなく公開される運びになっています。そのことによってカリキュラムの設定や熟達度評価の透明性が高まるようになると期待されます。
世界中の日本語学習者にとって、学習の過程が出口の見えない迷路に分け入る冒険の旅ではなく、到達目標とルートがきちんと示された楽しいハイキングコースとなるよう、専門家による努力が日夜続けられています。公開の日を楽しみに待っていただきたいと思います。
西原鈴子(にしはら すずこ)
米国、インドネシア、オーストラリアで日本語教育に従事した後、国立国語研究所勤務を経て、東京女子大学にて教鞭を執る(1998年~2009年)。元日本語教育学会会長、文化審議会委員。ミシガン大学大学院博士課程修了(Ph.D.取得)
2012年4月に国際交流基金日本語国際センター所長に就任