Daha Planning Work代表 吉川由美
南三陸町の女性たちとの出会い-「きりこ」プロジェクト
2010年に、宮城県南三陸町志津川地区の商店街の活性化と回遊型観光資源発掘のために、地元の女性たちに参加していただき、アートプロジェクトを行っていた。南三陸町周辺では、神社の宮司さんが白い紙を半分に折って縁起物を切りすかして作るとてもきれいな切り紙で神棚を飾る「きりこ」の風習がある。それを真似して、地元の女性たちと「きりこ」を作り、商店街に飾るプロジェクトを行った。一軒一軒の家々や店に女性たちが取材に行き、それぞれの歴史や思い出、大切にしている宝物の話などをお聞きした。それをもとに最終的には駅前からおさかな通りという所まで、沿道1キロぐらい、650枚のきりこを一軒一軒家にかける、アートプロジェクトを行った。家々のエピソードは短くまとめて、「きりこ」とともにそれぞれの家の前に展示した。
2010年8月下旬~9月上旬に行われたアートプロジェクト「きりこ通り」
たとえば1960年のチリ地震津波の後、被害にあったお菓子屋さんが、アイスキャンデーを隣町まで自転車で売りに行ってお店を再建したという話や、すでに店を閉めた仕出し屋さんのかつてのにぎわいや多くの町人がそこで結婚式をしたという話、蚕の蒸し蔵があるような旧家の暮らし、かつて醤油屋さんだった旧家の井戸にはいい水が湧いているという話・・・。今までまちに眠っていた記憶が呼び覚まされ、きりこを1つのツールとして、まちの皆さん同士がもう一度知り合うことになった。また、そんなエピソードを持っている町の人たちとコミュニケーションすることは、ビジターの皆さんにとっても楽しいコンテンツになり得るし、商店街自体の活性化にもつながるという可能性を感じたプロジェクトだった。
南三陸町役場の産業振興課とのタイアップで、参加する女性たちも増え、中国・台湾・韓国などからこの町に嫁いで来た女性たちと彼女たちの国の切り紙をするワークショップを開いたり、食文化を体験し合うイベント「アジアンデイ」を自主企画で行った。また、女性たちの目で町歩きを楽しくするためのディスプレイの講座や、地元の食材を使ったスイーツの開発も行うなど、プロジェクトは発展していった。
2011年2月2日に行った報告会には、町長、観光協会長はじめ140人もの町民が集まり、改めて町の地域資源を再発見し、感動を共有する日になった。歌津地区の方たちもきりこのプロジェクトをやりたいということになり、報告会はとても盛り上がって終わった。
全てが変わったあの日-「南三陸の海に思いをとどけよう」
2011年3月11日の震災と大津波、約5分間で町のすべてがなくなった。70%の建物が流出し、ほとんどすべての公共施設、会社、工場、お店、家が跡形もないという惨状だった。
私たちの活動を知る全国のアートNPOの皆さんに背中を後押しされ、私たちは3月22日から現地に入り活動をしてきた。
行方不明者が多く、町の人たちが避難所で帰らぬ家族を待ちながら、次の一歩を踏み出せないでいた。だから、町外への集団避難も進まなかった。マスコミの注目度が高く、様々なイベントやタレントの来訪が集中し、毎日が落ち着かず心を整理することも涙を流すことも、悲しみを共有できるような機会もない状態だった。次の一歩のための何かができないだろうかと役場の人から相談を受け、5月11日から「南三陸の海に思いを届けよう」という会を始め、9月11日に町の慰霊祭が行われるまで行った。仙台在住の音楽家や仙台フィルハーモニー管弦楽団のメンバーが毎月11日に駆けつけてくれた。全国のアートNPOも、集団避難先へのユーストリーム中継に協力してくれ、5月11日には町内外の7カ所の集団避難先に、会の模様やふるさとの海を放映することができた。町を離れている人たちは身を乗り出して、スクリーンに映し出された人々や風景を、涙を流しながら見つめていた。町を離れた場所にも、町のみなさんが集まり、ふるさとを思い悲しみを共有する場を創り出すことができた。
2011年5月11日の「南三陸の海に思いを届けよう。」
PHOTO:福田沙織
きりこのプロジェクトのときに活躍した女性たちの中には亡くなったメンバーもいる。彼女たちが希望を持って、働く場や彼女たち自身が自分たちのアイデアで何か起業していくための後押しをするという活動も続けている。それが実を結び、2012年2月4日に、福興市や女性たちの活動が評価されて「総務大臣表彰」の大賞を受賞した。女性たちは時折集まっては話をしたり、新しい商品を試作したりしている。2010年のあの活動があったからこそ、苦しい今もメンバー同士のつながりが新たな力になっていると感じている。
2011年8月11日「南三陸の海に思いを届けよう
2012年冬の南三陸町志津川地区。
追悼式典で子どもたちの歌を
3.11の1周年のために、南三陸町の5つの小学校で町の人たちを励ます歌を子どもたちと作り、2012年3月11日に歌うプロジェクトを行った。町内の戸倉小学校4年生14名、志津川小学校4年生51名、入谷小学校3・4年生32名、名足小学校3・4年生17名、伊里前小学校4年生21名、計135名の子どもたちが参加した。
このワークショップを行うに当たっては、学校の先生方とも大変な議論を経ることになった。
まず、追悼式典に子どもを参加させていいのかという問題である。祭壇があり、みんなが黒い服を着ている一種異様とも言える非日常空間に子どもたちを長時間に渡って置いておいていいのかという先生方もいて、カウンセラーの先生方ともお話をして、子どもたちには出番の直前に会場に入ってもらうことにした。特に、戸倉小学校では児童や先生が何人か亡くなっており、裏山に命からがら逃げた子どもたちと先生方も小さな神社のお社の内外で周囲をすべて津波に囲まれて一夜を明かした。子どもたちの心の傷は深く、アンケートをとっただけで具合が悪くなったりする子どもたちがいるとのことだった。また、戸倉小では下校した4年生の児童1名が犠牲になり、担任の先生のお父さまも陸前高田市で亡くなっていた。しかし、そんな学校の先生方が一番前向きでもあった。追悼式に参加して帰ってくることができれば、子どもたち自身も次の一歩を踏み出せるのではないかと校長先生も教頭先生もおっしゃってくれた。
子どもたち自身の言葉と旋律で
もうひとつの議論は、音楽教育に対する考え方である。「ふるさと」のようなみんなが共有できる曲を完璧に練習して演奏しなければ人の心を打つことはできないのではないかという意見があった。いったいたった2時間で曲ができるのかとも言われた。また、今回作った曲は町の人たちにとって何になるのか、歌い継がれるようなものにならないのか、などという意見もあった。
しかし、私たちはあえて子どもたち自身の言葉と旋律で、表現することにこだわった。そのことこそ、この震災を乗り越える力になると信じた。追悼式担当の役場の保健福祉課の方も、「仮設の中ではさまざまな問題がある中で、今、かなり落ち込んでしまっている人たちにも、前向きな気持ちになってもらうためには、子どもたちの声がいいのではないかと考えた」と援護射撃をしてくれた。
2011年12月に各校との打ち合わせを重ね、私たちは翌1月の末から各校で2時間ずつのワークショップを行っていった。仙台で活躍している、私も何度も一緒に仕事をしている榊原光裕氏といがり大志氏が音楽ワークショップを担当してくれ、作詞については私が手伝った。志津川小学校は、夏のはじめに元STOMPに出演していた俳優のリックさんにボディ・パーカッションのワークショップをやっていただいたこともあり、心臓の鼓動を聴診器で聴いて、そのリズムを構成することにした。
他の4校では、はじめにゲームでリラックスし、ドレミなどの音名が書かれたカードを首から提げて、並び替えゲームを行い、その偶然できた旋律を書き留めて、その後作詞した言葉をそこに乗せることで作曲していった。作詞は子どもたちから、さまざまなテーマで実際の体験や子どもたちが感じていることをたくさん出してもらった。たとえば、「町の人たちや自分たちがこの一年がんばったなあと思うこと」、「この一年の生活の中で感じた小さなしあわせは?」「自分たちの住む町のきれいさ、いいところ」をテーマに子どもたちが次々と自分の言葉を出してくれた。これを曲の音数に合わせて、並び替えたり語尾を変えたりして歌詞にする。その結果、子どもたちが作詞作曲した曲ができあがった。これに2人の音楽家が伴奏をつけて整えてくれ、最終的に仙台市民交響楽団のみなさんのご協力で、本番ではオーケストラの伴奏が入ることで、子どもたちの作った曲はとてもドラマティックなすばらしい曲となった。
子どもたち自身も食料の支援物資の箱を運んだり、水くみを手伝ったりしたこと、そして、まわりのおとなたちが家も仕事場もすべてを流されながらも、店を再建したり、沖に流された船を引っぱってきて、再びホヤやカキやワカメの種を入れたことが、そのまま歌になった。
もっとも心配だった戸倉小学校では、「友だちと避難してご飯食べたときうれしかった」という子どもの言葉から、「家族に会えたとき幸せだった」とか、「電気がついたとき幸せだった」など、子どもたち自身が実感した「幸せ」の瞬間が次々と子どもたちの口から飛び出した。クラスメートが亡くなり、担任の先生も故郷の陸前高田で父親と祖父を亡くされたという4年生。ワークショップ当日、盛岡の病院に入院していた難病のお子さんに、最後の歌詞の2行を作ってもらうことにした。そのお子さんは「あしたを生きられることが幸せだと思う」とすぐに答え、母親も驚いたのだという。本当だったら、今、元気に生きているはずだった2万人ぐらいの人たちたちのことを思いながら、担任の先生が、「みんなでがんばったこと、幸せ あしたを生きること、幸せ」という歌詞を完成させてくれた。
町立名足小学校での「未来を歌に」ワークショップ。
アリーナを揺さぶるほどの歌声
本番当日初めて5校の子どもたちが会場で出会い、オーケストラと最終練習をした。まず、子どもたちに当日会場について真っ先にしてもらったことは、大きな花の祭壇に手を合わせてもらうことだった。先生方にご相談すると全員が賛同してくれた。子どもたちは、学校ごとに祭壇に近づき、静かに手を合わせた。どの子も、声をかけるまで顔をあげることはなかった。子どもたちなりに今回の震災で起こったことを、心の底でしっかりと理解しているのだと私は感じた。
子どもたちの演奏は、町の人たちにこの一年をつぶさに回想させた。さらに、美しかった町の姿、どんな試練にも負けずに力を合わせてがんばって来た町の人たちの姿を、約3000人の人々が、共有する場となった。中盤で伊里前小学校の子どもたちがすばらしい歌声で「みんなで力合わせた」と3回繰り返す部分がある。3回目は広いアリーナの人々の腹を揺さぶるほどの大きさだった。どんなに涙をこらえていた人も涙があふれる瞬間だった。スタッフもみんな泣いていた。
追悼式終了後、テレビのインタビューに答えるお年寄りが、「いつまでも下向いていられないねえ、子どもたちもがんばってるんだからねえ」とおっしゃっていた。1人でも多くの方に、未来につながる気持ちで献花していただけるよう、そして、町のみなさんの悲しみや苦しみを少しでも癒すことになればと願いつつ、子どもたちや先生方と練習を重ねて来た私たちにとって、それは最高の感想だった。
実際にこの日から、さまざまな場で、町民の心のベクトルが少なからず前向きになったと感じている。防災エフエムを通じて商店街でこの歌を耳にした方々からも、大きな反響をいただいた。町長やご来賓も、みんな涙を流していた。小さな子どもたちは、町のリーダーたちをも前向きにしたことはまちがいない。
また、3.11前後はテレビに大津波の映像が氾濫した。それを見て戸倉小学校の子どもたちの中にはまた、気分が悪くなる子どもたちがいたのだが、このワークショップに参加した子どもたちはひとりも具合が悪くなることはなかったのだそうだ。
子どもたち自身の言葉と旋律で伝えること。これは町民だけではなく、子どもたち自身の震災を乗り越える大きな力になった。被災した人たち自身が主体となって、表現し創り上げる創造活動は、心のケアに大きく寄与できると確信した。
賛否両論会った中で、今回のプロジェクトを思いきって行ってよかったと、どなたにも思っていただけるようなものになったことを先生方、役場の方々、町長や復興の牽引役になっている町の皆さんと共に喜んでいる。
今回のワークショップをひとつの布石として、引き続き、学校という地域の要にみんなでが集まり心の中を表す場、記憶を共有し誇りを確認する場を創り出す活動を継続していきたいと考えている。
■本稿は、2012年3月26日に国際交流基金JFICで開催された「Cultural Meeting Points - Spring Seminar 2012」での報告をまとめたものです。同セミナーは、各界の第一線で活躍する方を講師にお招きし、在京大使館文化担当官に日本の文化をめぐる現況の理解深化の機会を提供する目的で国際交流基金が定期的に開催しているもので、今回は他に、日比野克彦(アーティスト)、森司(東京アートポイント計画 ディレクター)、佐々木健(岩手県大槌町役場 生涯学習課長)が、日本大震災以降、東北を拠点とする文化交流団体が地域の再生に向けて行っている活動について紹介しました。
吉川 由美
宮城県在住 八戸ポータルミュージアムはっち文化創造事業ディレクター、宮城大学事業構想学部非常勤講師、DAHA Planning Work代表取締役、envisi主宰。 コンサート・演劇などのプロデュースから脚本・演出,各地の文化ホールの運営を手がける。
https://twitter.com/#!/yumiyoshikawa88