熊倉 純子
東京藝術大学教授
昨年の春、ブリティッシュ・カウンシルの招きで英国の社会包摂的文化事業を視察するスタディツアーに参加する機会を得た(*1)。
かつてはスタディツアーに参加しても、欧米のインフラの充実に驚嘆のため息をついて、帰国後の報告もその紹介にとどまる視察が多く、交流が生まれるとしても公立美術館や劇場あるいはフェスティバル間のプログラム交換という規模の大きなものが主体だった。
しかし、帰国直後から、日本から訪英したNPOが視察先の団体とどんどん交流事業を始めたことに時代の変化を痛感した。
横浜や釜ガ崎(大阪)でホームレスたちとアートに取り組むNPOが、英国でホームレスによるオペラを行っているNPOのファシリテーターを招いてワークショップを行ったり、淡路島で地域密着型の文化事業をしている草の根団体が、英国の文化専門のシンクタンク兼コンサルティング会社の専門家を招いて事業運営や評価に関するセミナーを開催したりと、ツアーで得た知識やネットワークを即座に活用する様子には、隔世の感があった。
さて、このスタディツアーを企画したブリティッシュ・カウンシルや国際交流基金(ジャパンファウンデーション)は、いわゆる国が関わる文化交流の専門機関であるが、こうした機関が社会で果たす役割とは何なのだろうか?そもそも、国際的な文化支援専門機関の社会における立ち位置はどこにあるのか?
2010年3月に国際交流基金が開いたシンポジウム(*2)にパネリストとして招かれたが、そこでヒントとなる面白い話があった。
シンポジウムのメインゲストは、英国の文化政策専門のシンクタンク、DEMOSの立ち上げメンバーで、現在もアソシエイトであるジョン・ホールデン氏(*3)。本人もプレゼンテーションもチャーミングだったが、特にディスカッションの際に、彼がDEMOS(*4)で発表した論考(*5)から紹介された、市民と行政府と専門機関の関係を表した三角形はとても興味深かった。
ホールデンが描いた三角形は二重の構造になっている。奥の三角形は文化に関わる人々を示した図で、市民・政府・専門家を3つの項としており、手前の三角形は公的資金で支えられている文化が生み出す3つの価値を示している。そして、二つの三角形を重ねることで、市民・政府・専門家がそれぞれ文化のどの価値を最も重視しているかを表している。
もう少し詳しくこの図を見てみよう。まず、三角形の上部に置かれているのが市民である。市民は、観客・聴衆あるいは読者として文化を主観的に享受し、知的/感性的/情緒的な刺激を受け取ろうとする。人がなぜ文化を求めるのか、その根源的な意味を表す価値としてホールデンはこれを「本来的価値」と名付けている。つまり、オペラを見て「楽しい」と思ったり、美術館に行って「この作品が好き」と思ったりする、直感的な気持ちの部分である。
次に、三角形の右下を見ると政治家や政策決定者(行政府)が置かれている。彼らは文化を社会的ツールとみなし、「手段的価値」を求める。つまり、文化が経済の役にたったり、福祉の現場で使われていたりする、便利な側面のことである。たとえば、ある演劇公演に対して、観客が「素晴らしい芝居だった」と感じるにとどまるのに対して、政治や行政は、「観光プロモーションに寄与する」とか「経済効果にも貢献する」などといった数値に換算されるような価値を求める,と氏は説く。
三角形の最後の角に置かれているのが文化の専門家たちによって構成される価値である。Institutionalという言葉の含意を端的に和訳するのは難しいが、ある専門組織が紡ぎだす「組織的価値」は、社会の中で文化がより有効に機能するように働きかける「制度的価値」であり、施政者が求める短期的な社会的価値や市民が求める主観的・直観的価値を抱合しつつ社会全体を文化によって動かして行こうとする長期的スパンの「共同体的価値」あるいは「公共的価値」ともいえるものだろう。
ホールデンの著作によると、美術館や劇場などの文化機関は、社会と関わるときに採る手段や戦略によって、市民間の信頼や相互理解、共通の体験を得る楽しさや、それを通じて社会に所属しているという気持ち、つまり「共同体的価値」を、生み出したり壊したりする。そのため劇場や美術館は単に「体験の場」(sites of experience)としてだけでなく、「価値の創造者」(creators of value)として認識されるべきであると述べている。
議論の中で彼は、「これら3つの価値は決して相反するものではなく、等しく有効である」と強調した。そして芸術体験の例として、ある生徒が美術館に行った場合を挙げて3つの価値の関わり合いを述べた。生徒は作品の前で「きれいだ」と感じ、美的・情緒的な体験を通じて「本来的価値」を味わう。その経験がもとになって学業で創造性を発揮し成績を上げれば施政者が求める「手段的価値」が体現される。また、美術館で彼が自国や他の文化を認識することで自分自身と世界との関係に関する認識を深め、社会的感覚が強化されて共同体への意識を高めれば、第三の価値が実現されることになる、というわけだ。
この例は3つの価値の幸せな関係とそのシナジー効果を指摘するものだが、二つの三角形を重ねると、3つの価値と3者のアクターが、同じ「文化」というものに接したときに、如何にそれぞれ違うことを考えているかが明確になる。
著作の中でホールデンは、3者の観点の違いを「文化システムの欠陥」を考える上で有効だと述べ、専門機関に対して警鐘を鳴らしている。特に近年は予算獲得のために専門機関は施政者のほうばかりを向き、市民を単なる受け手として扱い続け、よりクリエイティブな参画への道筋づくりが遅れているというのだ。では、この観点からブリティッシュ・カウンシルや国際交流基金をめぐる三角形の状況について少し考えてみたい。
理論モデル図の正三角形は、現実にはどんなかたちになっているだろうか?3つの角がアンバランスな角度を取って、傾いた三角形になってはいないだろうか?
そもそも日本では、第3の角である文化専門機関に対する認識がいまだに弱いが、専門機関が施政者にどんどん近付いて重なってしまうと、三角形は崩れ、「手段的価値」と「本来的価値」しか存在しなくなってしまう。
そうすると、たとえば国際交流基金のケースで考えてみると、政府の都合のみで他国に日本文化を売りこむような事業や、国民の人気取りに役立つようなプログラムばかりが行われることになるだろう。
きちんと施政者の角から距離を取り、政府の意向を酌みながらもより長期的なスパンで地球全体における「共同体的価値」を創り出す役割は、えてして見過ごされてしまいがちである。しかし、国や民族を超えた文化交流の意味は、本当はここにこそあるのではないか?
もうひとつの辺である市民との関係はどうだろうか?たとえば芸術分野に限って考えると、国際交流基金などの日本文化を紹介する拠点や事業は確かに充実して高いレベルを保っている。しかこうした機関は、他国の市民に直接日本文化を届けるプレゼンターとしての役割のほかに、中間支援組織(Intermediary)としての役割も担っているはずである。
具体的には、官民のさまざまな文化事業のプレゼンターたちが、国際交流プログラムをより盛んに実施するための手助けをするという役割だが、この分野で日本は他国の国際交流機関に比べてきめ細かな支援をしているとは言い難いのではないだろうか。
一方で、ブリティッシュ・カウンシルのスタディツアー帰国後には、思いが熱い時期にすぐに実際の交流が生まれるようにきめ細かに働きかけをするコーディネーターの様子に、市民のほうをしっかりと向いた中間支援的専門組織の在りようが成熟していることを感じた。実際に支援や助成をしている団体と深い関わりを持つことを避ける傾向のある日本の公的な文化支援機関では、なかなか見られない傾向である。
日本国内や海外の小さなNPOは、国際交流基金の名前をちゃんと知っているだろうか。彼らが相談したいと思ったとき、頼れるコーディネーターの顔が浮かぶだろうか。こうした決め細やかな社会との関わりを覚悟しなければ、日本の文化機関はいつまでも「共同体的価値」の創造者にはなれないのではないか。
「文化専門機関」と「市民」をつなぐ辺の上には、実はさまざまな他の機関が存在しうる。理論モデルの三角形ではただの直線として描かれているこの辺は、拡大して覗いて見ると細かいネットワーク上になっていて、多くの人たちでつながっている。
さまざまな草の根の機関がさまざまな方向の市民につながっているような状況を創りだすような、21世紀型の国際交流の実現に、国際交流基金のさらなる寄与を期待したい。
*1 スタディーツアーの詳細及び報告書はブリティッシュ・カウンシルのウェブサイトから見ることが出来る。 ホームレスとの共同プロジェクトの詳細はこちら。
*2 「国境を越える文化の価値 〜ひとりひとりが造る「文化外交」〜 」(2010年3月11日 (木)、 国際文化会館)。主催は国際交流基金、ブリティッシュ・カウンシル、企業メセナ協議会。講演 ジョン・ホールデン、コメンテーター 熊倉純子(東京藝術大学)、渡辺 靖(慶應義塾大学)。概要はこちら。
*3 ジョン・ホールデン(John Holden)(シティー大学客員教授、英国DEMOSアソシエイト )。英国の大手シンクタンクであるDEMOSの文化部長を2008年9月まで務める。法律および美術史修士。専門は文化政策。図書館から音楽や歴史遺産まで、大小数多くの文化セクターのプロジェクトに関わる。2003年6月に行われた文化の価値付けに関する会議で中心的な役割を果たし、その後も文化の価値付けについての研究を深める。英国のみならず、フィンランド、米国、オーストラリア、ニュージーランドなど多くの会議に出席。現在、クロア・リーダーシップ・プログラム運営委員会メンバーも務める。
*4 Demosについては以下ウェブサイトを参照。文中で参照している論考を含め、多くの論考・報告書を無料でダウンロードすることができる。http://www.demos.co.uk/people/johnholden
*5 参照した論考は、ジョン・ホールデン『文化の価値とその正当性の危機―なぜ文化に市民からの負託が必要なのか』(John Holden, "Cultural Value and the Crisis of Legitimacy:Why culture needs a democratic mandate")、2006年。こちらも、上記Demosのウェブサイトよりダウンロードすることが出来る。
熊倉純子(くまくらすみこ)
東京藝術大学 音楽学部音楽環境創造科 教授
パリ第十大学、慶應義塾大学文学部仏文科および美学・美術史学科卒業。同大学院修了(哲学専攻)。1992年から2002年まで(社)企業メセナ協議会に勤務。企業のメセナ活動から地域型アートプロジェクトなどの研究・開発に携わる。2002年より現職。 専門は文化支援、アートマネジメント。