1.台湾と日本を行き来しながら育ちました



 初次見面(はじめまして)!
「台湾系ニホン語人がゆく!」という題にあるように、わたしは台湾生まれのニホン 人です。
 日本と台湾、もっと厳密に言えば、東京と台北を行き来しながら育ちました。
 父も母も台北育ちなので、わたしにとって台湾といえば、祖父母や親戚たちのいる台北のことでした。
 今でも両親は台湾に行くことを「回huí(帰る)」と表現しますが、わたし自身は小学校低学年の頃には、家族四人で暮らすアパートのある日本に戻るときのほうが「帰る」感じがしていました。

 アパートを朝早く出発し、台湾にむかう飛行機の搭乗時刻を待ちながら空港で過ごすときはいつも、機内食何が出るかなあ、とか、叔父さんのスクーターでまたどこかに連れていってもらおう、とか、従姉たちと何して遊ぼう、とか、祖母がボランティアでお手伝いをしているお寺に行くのが楽しみだなあ、などと胸を弾ませたのをよく覚えています。

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東京から台北に旅立つときは、いまだに心が躍り必ず写真をとってしまう。


 わたしにとって台湾は、春休みや夏休み、お正月を挟んだ冬休みなどを、ふだんめったに会えない台湾の親戚たちとわいわいがやがや過ごすところでした。
 そんなお祭り騒ぎの休暇が終わりに近づき、日本に戻る日が迫ると、帰ったら宿題をしあげなくちゃ、とか、新学期の席替えで苦手な子が隣になったらいやだなあ、とか、(運動が大変得意でないので)球技大会でヘマしたらどうしよう、などといったような、心配事を思い浮かべては「帰りたくないなあ」「ずっと台湾にいたいなあ」なんて思います。
 台湾の親戚たちと別れ、日本行きの飛行機に乗るために空港に着く頃には、これからまた日常に帰っていくんだ、いつもの日々がはじまるんだ、と感じて気がひきしまるのです。

 東京のアパートに戻った翌日には、
「恢復正常(通常どおり)!」
 と言いながら朝寝坊したがるわたしと妹を起こす母も、同じ気持ちだったのかもしれません。もちろん父も東京にいるときは月曜日から金曜日まで会社に通います。

 こんなふうにふだんの暮らしの舞台は主に日本の東京でしたが、わたしたち一家は父、母、私と妹の四人とも、日本のパスポートを持っていません。台湾パスポートです。そのため、日本の空港での出入国カウンターでは、「外国人」として手続きをすることになります。

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わたしはこのパスポートでずっと日本で暮らしている。


 とはいえわたしたちの一家は、日本に住んでいるということで、東京入国管理局から再入国許可証をもらっています。わたしたちのように何らかの理由で日本に長期的に滞在する外国人は、いったん出国して、再び日本に入るときは、「再入国」という扱いになります。

 たとえ、わたし自身は「帰ってきたなあ」と感じていても、日本のパスポートを持っていないので、空港では「帰国」とみなされないのです。
 逆に、台湾の空港で入国手続きをする際は、「本國人(この国の人)」が「帰国」したと処理されます。
 そういう意味では、わたしは生まれたときから今までずっと変わりなく「台湾人」なのです。もっと言えば、日本で育った「台湾人」です。

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国籍欄に「台湾」と記すとき、自分は台湾人なのだと実感。


――わたしたちは台湾人だから、休みの日は台湾で過ごすの。
 まだ小さかった妹に、そんなふうに教えてあげた記憶もあります。
――台湾人だから、わたしたちは特別なんだよ。
誇らしさをこめてそう告げると、あたしは台湾人、と妹も嬉しそうにわたしを真似します。

 わたしは特別。
 子どもの頃のわたしは、半ば本気でそう信じていました。
 いや、そう信じたがっていました。
 そうありたい願望がとてもつよくて、そうであるための理由が必要だったのです。
 やがて幼いわたしのひそやかな自尊心は、自分が周りの子たちとはちがう確固たる根拠を見つけます。
 わたしは台湾人。
 だからわたしは特別。
 日本で、日本の学校に通い、自分以外はすべて日本人という環境だったので、日本人ではなく台湾人である自分は他の子よりも特別なのだと思いこむのは驚くほど簡単でした。

 ふりかえってみるとわたしときたら、台湾人であることをのぞけば、ほんとうに、どこにでもいるような、ごくふつうの子どもだったので、もしも台湾で育っていたのなら、自分が特別であることの根拠を一体どこに求めたのだろうかと可笑しくなります。
 いずれにしろ、自分が日本で育った台湾人でなかったのなら、経験しなかったり、感じなかったり、もしかしたら考えようともしなかっただろうことが、わたしにはたくさんあります。
 そうしたことを、この連載をとおして書いていけたらいいなあ、と胸をふくらませています。そう、子どもの頃、台湾行きの飛行機に搭乗することを待っていたときのように。
 皆さま、一年間、どうぞお付き合いくださいませ!





japanophone01.jpg 温 又柔(おん ゆうじゅう)
作家。1980年、台湾台北市生まれ。3歳足らずの時に台湾人の両親と日本に移り住む。2006年、法政大学大学院国際文化専攻修士課程修了。2009年に「好去好来歌」ですばる文学賞佳作を受賞。台湾籍の日本語作家として言葉とアイデンティティをテーマに創作に取り組み、2011年『来福の家』(集英社)、2012年『たった一つの、私のものではない名前 Kindle版』(葉っぱの坑夫)を刊行。2014年、音楽家の小島ケイタニーラブとユニットを結成し、朗読と演奏による活動「言葉と音の往復書簡」を開始。最新刊は日本で育った一人の「台湾人」として綴った言葉をめぐるエッセイ集『台湾生まれ日本語育ち』(白水社)。ドキュメンタリー映画『異境の中の故郷-作家リービ英雄52年ぶりの台中再訪』(大川景子監督作品)に出演。

温又柔 Twitter https://twitter.com/wenyuju




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