三浦多佳史
国際交流基金関西国際センター日本語教育専門員
(元国際交流基金バンコク日本文化センター日本語上級専門家)
タイの中等教育(日本の中学・高校相当レベル)で日本語を学ぶ人は5万人近くに上ると推定されている。彼らは週6時間以上、年間で200時間を超えるたくさんの時間を使って日本語を学ぶ生徒と、毎週1回、年間でも30~50時間の大変少ない時間で学習する生徒たちの二つのグループに分けられる。
学習時間の少ない生徒の嘆き
2004年に国際交流基金バンコク日本文化センター(以下JFBKK)がタイの教育省と共同で開発した初級用日本語教材『あきこと友だち』(以下『あきこ』)は、このうちたくさんの時間で学ぶ学習者に向けて作られたものだ。5万人の学習者のうち8割以上の学校で使われており、全30課、6分冊で構成され、「あいうえお」から少しずつ勉強して、だんだん知識の幅を広げていくタイプの教科書だ。
しかし、3年間で600時間勉強してやっと終わるぐらいの分量で、少ない時間で学ぶ学習者には学ぶことが多すぎて、さらに、前に勉強したことをしっかり覚えていなければ授業についていけないので、少ない時間で学ぶ学習者にとっては最適な教科書とはいえなかった。
「先生、少ない時間で勉強する生徒たちがもっとやさしく学べて、日本語が好きになるような教科書を作ってくださいよ。」タイのいろいろな場所で高校の先生方に会うたびに、言われた。
『あきこと友だちシリーズ』のラインアップ
2004年に出版された、たくさんの時間を使って学ぶ学習者用教科書。全30課6分冊でワークブックと語彙集を加えたシリーズ全10冊の10年間の発行部数は30万部を超えている。
日本語教育を通じた人材育成
JFBKKには『あきこ』の開発で中心的役割を担った、強力なタイ人スタッフがいる。彼女と相談して、それではということで、新しい日本語教科書『こはるシリーズ』を作ることになった。最初が「あきこ」だったので、次は「春」ということでなまえは「こはる」になった。
そもそも週1回という、限られた時間での日本語学習の目的は何だろう。その教科書で学んだ子供たちにどんな人になってもらいたいのだろう。たくさんコトバを覚えて、日本人のように日本語が話せるようになることだろうか。いや違う。そんなのは無理だ。教科書開発に協力してくれるタイ人の先生たちといろいろ議論して、きっと次のようなことだろう、ということになった。
「たとえば、学校を訪れた日本人に対し、臆することなく、何かしら日本語で話しかけることができる人」
「たとえば、学校を訪れた日本人が、タイ語がわからなくても、タイ語、知っている日本語、英語などを使って、積極的にお互いが理解することに努めることができる人」
「たとえば、さまざまな異なる言語、異なる文化を持つ人が、自分と違っていてもそれは当たり前のことだと素直に思える人」
「たとえば、様々な異なる言語、文化を持つ人と、自然に協力し合って、ともに生きていくことができる人」
この教科書で学んだ人が、日本語を通してこんな人材に育っていってくれたら、本当にすばらしいことだと考えた。
タイの教育現場に根ざしたプロジェクト
この基本方針の下、足掛け3年をかけて『こはるシリーズ』全3冊が出そろった。上に書いたように直接的な言語習得が目標ではなく、言語学習を通した人間的成長を目指しているのも大変ユニークだが、ほかにもいろいろユニークなところがある。
まず、少ない時間で学ぶ学習者対象なので言葉や文法は覚えなくてもぜんぜんかまわない。教室での言語体験による、異文化接触にひるまない訓練が主目的なので、外国語の定着は無理強いしない。無理することでかえって言語学習に対する嫌悪感が生まれるリスクを回避した。
どのユニットから学んでも、既習の知識は一切必要がない、各ユニット学びきり方式だ。つまり、いつも全員が同じスタートラインに立っているので落ちこぼれが生まれない。また、すでに持っている知識は必要ないので後からクラスに参入することも、いつでもできる。それに、ひとつのユニットで学ぶ語彙数は9個以下、会話パターンも、「こはるちゃん、どんな科目が好きですか。」「体育が好きです。」というようなごく短い1フレーズだけなので、誰でも無理なく学べる。
それから、忙しくて時間がない先生にとっても、特別な準備をしなくてもいつでも授業に臨めるよう親切なタイ語の解説書や周辺教具が充実している。文化編ではあまり日本に関する知識がない生徒たちにも、日本の素敵な印象を持ってもらえるよう、様々な情報をカラー画像で多数紹介している。
これらはすべて、実際の現場の声に応えるために用意されたものだ。タイの国際交流基金の事務所が、優秀なタイ人スタッフを中心に、タイの高校や大学の現場の先生と協力しているからこそ、できるプロジェクトである。
『こはるシリーズ』全3冊のラインアップ
日本の中学1年生こはるといっしょに、少ない時間で日本語を学ぶ学習者用の教科書。『にほんごわぁ~い1,2』は簡単な場面会話編38ユニットと、タイ語で日本の社会文化を学ぶ文化編18ユニットからなる
楽しく、有意義な日本語との出会い
200万人とも言われる、世界中で日本語を学ぶ中高生たち。しかし彼らは自分の意思で学ぶのではなく、それぞれの国の学校教育制度の中で、いわば成り行きで、あるいは選択肢が限られていて仕方なく学んでいる生徒たちも多くいるのが現状である。彼らにとって、教室の中が日本や日本語とのはじめての出会いの場所であり、そのときの印象がその先の日本語との関係を大きく決定づけるのである。
そのような中、日本語との最初の出会いの場が、楽しく、有意義なものに感じられるよう、最低でも日本語はいやだと思われないよう、さまざまな工夫を施した教科書がこの『こはるシリーズ』である。
『こはるシリーズ』は、ひらがなを学ぶための教材『ひらがなわぁ~い』が2011年3月に、簡単な場面会話と日本文化をタイ語で学ぶ『にほんごわぁ~い1、2』が、それぞれ2012年5月と2013年3月に出版された。最初の出版から、わずか2年ですでに発行部数は4万部を数える。これは、海外での日本語教科書としては驚異的な数字ではないだろうか。現場のニーズから生まれ、現場の先生方の手によって作られた教科書だからこそなしえた結果だといえる。
タイでは中等教育でたくさんの時間を使って学ぶ学習者と、少ない時間で学ぶ学習者のための2種類の教科書がそろった。これこそが本当に必要とされる仕事だと思う。
国際交流基金バンコク日本文化センター日本語上級専門家として、タイ国内のみならず、カンボジアやミャンマーなど周辺国での教師研修を行なった。(左からチェンマイ〈タイ〉、カンボジア、ミャンマー)