文化外交:外交におけるソフトパワーの可能性と限界(前編)

クルト-ユルゲン・マース(テュービンゲン大学名誉教授)



ドイツのソフトパワー政策を担う機関の一つ、ドイツ対外関係研究所の事務局長を1998年~2008年の10年にわたり務めたクルト-ユルゲン・マース氏が、外交政策の中におけるソフトパワーの有効性と限界について、欧州の事例を元に語ってくださいました。
前編・後編に分けてお届けします。
(2013年9月19日 国際交流基金JFICホール「さくら」での講演を収録)


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私の文化交流の原点
 私が初めて文化外交政策に携わったのは1958年でした。当時私が通っていたハンブルクの学校が、イギリスのバーミンガムとの交換留学を企画しました。第二次世界大戦後初めての交換留学です。1940年、ヒットラーはロンドンやバーミンガムといった都市を爆撃し、多くの人々が家族を失いました。私が住んでいたハンブルクも、1943年のイギリスによる爆撃によって、その80%が破壊されました。さて、交換留学はまずハンブルクからバーミンガムへ、その後バーミンガムからハンブルクへという順で実施されました。当時まだ若かった私たちが築いた新しい交流関係ですが、それから55年の時が流れた今でも、私はイギリスにいる友人のジョンと連絡を取り合っています。

 最初の交換留学から8年後の1966年、当時学生だった私は2回目の文化交流を体験しました。ドイツとフランスの青年が両国で開催する会議に出席したのです。この交流は、フランスとドイツの和解調停のなかで設立された、ドイツ・フランス青年局が企画したものでした。私はそこでカウンセラーとアドバイザーを8年間務めました。スキー、セーリング、登山あるいは街を訪れる中で、両国からの多くの仲間に出会いました。祖母にとってフランスは100年以上にわたる「先祖代々の敵国」であり、「フランスに行くならどうぞ。でもね、フランス人のガールフレンドだけは連れて帰ってきちゃだめよ」と言われたものです。ガールフレンドに関する限り、祖母の言うことには従わなかったことになります...。現在も活動を続けるドイツ・フランス青年局がこれまでに実施したプログラムは30万件に及び、800万人以上のドイツ人やフランス人が交流を体験してきました。しかし、先人たちの行いや、彼らのお互いに対する憎悪や敵意に理解を示す者は誰一人いませんでした。



ナチスのイメージ払拭に努めた戦後ドイツ
 ドイツ政府は、ヒットラーの残虐行為によるイメージを改善しようとしていましたが、私自身、そのような文化外交政策や新たな取り組みの一員であると気付いたのは、しばらく経ってからでした。1949年から1970年代半ばにかけての文化外交政策の主な焦点は、民主的なドイツという新しいイメージを世界に与え、ナチス政権下による過去の犯罪に対していかに取り組むのかを示すことでした。「双方向的」な考え方(ドイツ文化を外国に輸出するだけでなく、他国の文化にも門戸を開くこと)や、文化外交政策と開発政策の合致といった、新しい要素が交流の場に導入されたのは、ドイツ連邦議会が「調査委員会」と協力して文化外交政策を包括的に見直してからのことです。また、ドイツ語を第二外国語、あるいは国際機関での公用語として位置づけることの意義についても、世界で関心が高まりました。

 1977年、私はアレクサンダー・フォン・フンボルト財団に就職しました。文化外交政策を扱うドイツ外務省の専門機関です。1989年、ドイツ民主共和国の消滅や、鉄のカーテンの崩壊を目の当たりにし、世界で起きている出来事に強い関心を抱きました。それから数年間のうちに、私は新たな外交政策の方向性を、旧ソ連諸国の変革を支援することに見出すことができました。
 その後、シュトゥットガルトにあるドイツ対外関係研究所(ifa)に入所した1998年、文化政策の立案者の中にはすでに欧州とイスラムの対話を文化外交政策における新たな重要テーマと認識し、その促進に向けて動き出している将来を見据えた人々がいました。この流れは、外交政策において紛争回避が強化されることによって加速し、2001年の9.11以降、さらに強まりました。



拡大する文化外交
 このような新しいテーマに伴い、外交における文化の役割と意義はこの10年で想像を超える規模に拡大しました。また、「ソフトパワー」や「広報外交」、「文化外交」といった新しい用語がアメリカから発信されました。外交政策において、軍事介入や政治力を行使するハードパワーに対し、文化的な事業や対話を通して他国を説得するのがソフトパワーです。結果的に、ドイツ内での議論は新たな質と次元を得ることができました。
 これらの状況と並行して、科学研究や大学教育の領域でこれまでにない機運が開花しました。これは大学にとってはよいニュースで、10を超える人文学科と社会科学科、そして30以上の大学において、文化外交政策に関するテーマが扱われたり、教育課程が設置されたりしています。



3つのキーワードで分析する文化外交政策
 3つのキーワードに従って、現在の文化外交政策を体系化し、分析してみましょう。
① ドイツならびにドイツの外交政策の目標を「宣伝」するためのアプローチ
② 「価値観や理想についての対話」を支援するためのアプローチと、外交政策におけるその意義
③ ドイツに新たな考え方を迫るような、文化外交政策における国際的な「競争」の拡大

 政治学を専門とする私が、なぜこれらのことに関心を持つのでしょうか?
 文化外交とは外交政策です。リソースや手段、成功や失敗とその理由など、政治学者であれば二国間および多国間の外交関係の狙いを説明し、分析できなければなりません。また、政治学者は用語を生み出したり、分析するための基準や方法を開発しようと努力しています。



cultural_diplomacy03.jpg 外交政策の目標を「宣伝」する
 ドイツならびにドイツの外交政策の目標を「宣伝」するためのアプローチとは何でしょうか。  1796年から1799年にかけてフランスの外務大臣を務めたシャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールは、外国に赴任している大使に、「Faites aimer la Franc(フランスが愛されるように取り計らえ)」と語ったと言われています。これは、フランスに限ったことではなく、ドイツも「愛される」ことを望みますし、日本も同じことだと思います。 外交政策には常に政治的な宣伝を伴います。宣伝はドイツの文化、ドイツの科学、ドイツの言語のためだけでなく、ドイツの利益、ドイツの地位、ドイツの投資、ドイツの輸出のためにも行われますし、ドイツをビジネスの場にもしてくれます。
 ドイツに文化外交政策が芽生えた19世紀から20世紀初頭を振り返ると、国外にあるドイツの科学研究所からドイツ学校に至るまで、まさに「宣伝」というべきイニシアチブが存在していたことが分かります。ドイツ学校は早い段階から現地の子供たちに門戸を開いていたため、20世紀初頭には「プロパガンダ学校」と呼ばれました。プロパガンダ学校では優れた教育が提供されていただけでなく、ドイツとドイツ文化の宣伝も行われていました(それは今日も続いています)。1900年に400校以上あったドイツ学校は、1914年には900校に達し、第1次世界大戦後もその数は増え続け、1928年には1,000校を超えました。これは、当時ドイツ人移民が大量に発生したことを物語っています。その数は1900年までに500万人近くに上り、ドイツ学校の責任者はたいていドイツ人移民でした。プロパガンダ学校にドイツ人教師を派遣するために一部の資金を提供し、1905年に外務省の管轄となった国立学校基金(Reichsschulfonds)が、ドイツの体系的な文化外交政策の始まりであると考えられます。



1920年代に設立された各種専門機関
 1923年から1929年にかけて、外務大臣グスタフ・シュトレーゼマンの指揮下にあった外務省の多くのイニシアチブの主要な原動力が「宣伝」でした。当時、あらゆることが宣伝のためにつぎ込まれていましたが、主な課題は以下のようなものでした。第1次世界大戦の残虐行為がもたらしたドイツのイメージは、どのようにしたら回復できるのか?外国の学生や研究者にとってドイツが再び魅力ある国になるにはどうしたらよいか?ドイツを再び教養のある国に位置付けるためには、ドイツ語の学習をいかに活用できるか?宣伝の信頼性を高め、各政府機関から切り離したものにするためにさまざまな独立機関が設立され、進化を遂げてきました。その結果、今日では身近になり、また実際に私たちが活用している国際的な外交政策体制の前身ができあがりました。その中には、ドイツ外交研究所(現在のifa)、アレクサンダー・フォン・フンボルト財団、学術交流会(現在のドイツ学術交流会)、ミュンヘンのドイツアカデミー(ゲーテ・インスティテュートの前身)、そして1928年に発足した世界ラジオ局(現在のドイチェ・ヴェレ)があります。

 ファシストによるプロパガンダや、文化帝国主義をもたらした国家社会主義の時代が終わり、1949年以降の外務省の新しい取り組みは、ワイマール時代のものと類似しています。つまり、新たに設立された独立機関を活用して、短期、中期、そして長期を視野にあらゆる手段とテーマを掲げてドイツの新しいイメージの普及に取り組みました。たとえば、ドイツ語講座や外国における学校の開校、学生や科学者による学術交流、外国のラジオやテレビといったあらゆるメディアを通じた情報交換から、広報活動やマーケティング、イメージキャンペーンによる国家ブランディングまで、多岐にわたります。



「ソフトパワー」と「広報外交」
 ここ10年における文化外交政策は、社会的、科学的議論において、従来とは異なる重要性を帯びてきました。この変化は、9.11後のアメリカの大混乱と、諸外国、とりわけイスラム世界に顕著なアメリカに対する破局したイメージが原因で引き起こされました。その結果、「広報外交」がスローガンになりました。特にアメリカでは、1990年代にジョセフ・ナイ氏が生み出した「ソフトパワー」という言葉についての議論によって刺激され、大量の論文が発表されました。「ソフトパワー」と「広報外交」は、密接に関連した言葉です。ソフトパワーとは、国家が模範的行動や魅力、道徳的権威によって、他国にその模範的行動に従うよう説得する能力であると定義されています。ジョセフ・ナイの言葉を借りると、「自分が望む結果を、他人も望むように仕向けること」です。一方、広報外交とはソフトパワー遂行の一部であり、国際交流を通して、その国の長所、価値観や理想、文化、そして外交政策を他国に伝える試みです。このような活動は、万能エリートや支配層だけでなく、特にNGO等の組織も対象とし、世論に良い影響を与えるために行われます。そのようなアプローチによって、対象とする相手国の内部でその国に対するイメージが変化し、敵意や不穏な動きを阻止する力が市民から政府に加わるのだと考えられています。 南カリフォルニア大学教授のニコラス・J・カル氏は広報外交を「役者が外国の一般大衆に働きかけながら外交政策の実行を試みること」と表現し、「傾聴、支援、文化外交、交流外交、国際的ニュース放送」という5つの手段を挙げています 。

 このような新たな宣伝方法は、従来の文化外交政策のあらゆるテーマと手法を活かしていますが、特定の国や国の集団に対して掲げる中長期的な外交政策の目標に沿って「オーダーメイド」されていなければ達成できません。そのような目標は多岐にわたり、平和維持や政治的な安定、宗教的寛容、あるいは偏見や固定概念に対する闘いや、輸出の拡大、投資の保護に関することもあります。大学制度に関しては、最良のブレインを獲得することも、目標になり得ます。



日本の対外政策を振り返る
 ここからは、日本の状況についてお話したいと思います。1945年以降の日本にとっても、宣伝は重要なアプローチの1つで、新しく生まれ変わった国家や、その後の見事な経済復興について宣伝されました。特にアジアの近隣諸国に対しては、日本に対する敵意に打ち克つことがもう1つの目標として掲げられました。その一例として、大々的な青年交流プログラムの立ち上げがあります。1980年代における日本の対外政策の主軸は、諸外国から見た日本のイメージであり、文化交流や和平プログラム、貧困国に対する開発援助が実施されました。それに加えて日本は、社会自体を国際化しようとする、集中的なプログラムを開始しました。
 全体として見れば、広報外交の枠組みの中で行われる広報活動だけでなく、従来の文化外交政策も宣伝の部類に入ると言えるでしょう。



cultural_diplomacy04.jpg 価値観についての対話
 ドイツの文化外交政策を分析する2つ目のキーワードとして、「価値観や理想についての対話」を支援するためのアプローチと、外交政策におけるその意義とはどのようなものでしょうか。
 宣伝による文化外交政策の目標は、自国とその利益のために何かを達成することになります。しかし、価値観についての対話が目標とするのはまったく異なるものです。例えば、対話によって対象国を変化させるきっかけを与えることを目的としています。

 これまでにドイツは諸外国との文化外交政策の中で再三にわたり、価値観についての対話を中心として位置付けてきた経緯があります。1970年代のギリシャ、スペイン、ポルトガルがそれにあたります。また、新興国に対しては、民主化、言論の自由と多様性の容認、法の支配を促してきました。1990年以降、10年以上にわたりドイツが文化外交政策の絶対的中心に位置付けていたのは、中欧・東欧の旧社会主義国家が取り組んだ民主主義、市場経済、多様性のある社会への変革や、EUへの加盟に向けた努力に対する支援でした。ドイツの文化外交政策がこれほど大きな役割を担ったことはありませんでした。

 ドイツの外交政策においては、1990年以降の経験によって文化外交政策が拡張され2000年には新たな概念となりました。詳細を以下に引用します 。

 「文化外交政策とは、我が国の外交政策にとって欠かせない要素です。それは、平和維持、紛争回避、人権の尊重、協力的パートナーシップなど、ドイツの外交政策における様々な目標や利益と合致し、同時にそれらによって後押しされるものです。」

 「外国で行うドイツの文化活動は単に中立的なものではなく、価値観によって方向性が決まります。民主主義の発展や人権の尊重、持続可能な成長、科学技術の進歩への関与、貧困の撲滅、天然資源の保護といった分野において、ドイツはその立場を明確に表しているのです。」

 2011年、ドイツ外務省はアラブ諸国における激変について、今までになく具体的な見解を示しました 。

 「私たちは、この激変の影響を受けた国々が強固な市民社会において民主主義を実際に機能させられるよう手助けをしたいのです。とはいえ、民主主義は一夜にして成るものではありません。目標を達成するためには、高い持久力が必要です。」

 つまり、価値観についての対話の主な目標の1つは変革への支援です。あるいは非常に簡潔に表現すると、個々の国々における民主主義と市場経済への移行プロセスの支援であると言えます。



影響力を増す市民社会
 まずは、対象となる国々の市民社会がターゲットになります。ここ20年以上にわたって、市民社会が与える文化外交政策への影響力は増してきました。そして10年前、市民社会、特にNGOが新たな国際秩序に対する期待の担い手になりました。研究者たちは、市民社会を政府、家族、そして市場の間にある存在と位置づけています。それと同時に、市民社会は民主主義、法の支配、そして紛争解決に向けた重要な要素だと考えられています。
 ミリアム・エッガーは、ドイツの財団法人の外交活動に関する自身の論文の中で、次のように述べています。「表現の自由が機能している民主主義において、市民社会団体は社会の利益を集約し、明確に表現することによって体系化する影響力と、利益についての広範な展望を視野に入れて構造化する影響力を持っている。このようにして市民社会団体は、政府機関や政党、その他の団体が関連する利益を共同で取り上げ、処理できる環境を提供している。」

 文化外交政策における実際のアプローチは、さまざまです。例えば、仲介的機能を果たす機関や財団法人のような公益法人、非政府団体(NGO)、観光プログラム、国際会議、助成金プログラムなど、あらゆるルートを通じて行われています。
 また、対話には、宗教と政治の関係、教育、科学、経済改革、汚職防止、環境保護、紛争解決メカニズムといったテーマのみならず、基本的人権、法治、政治参加、グッドガバナンス、労働組合設立、出版の自由、社会における女性の地位などもテーマとして含まれます。



イスラム諸国との対話
 特にイスラム諸国との対話においては多国間外交が重要なポイントになります。残念ながら、重要にもかかわらずこのような多国間外交は極めて発展が遅れているといわざるを得ない実情ですが、現在、イスラム諸国との対話は3つのメカニズムに集中されています。
 まず、イスラム協力機構で、54のイスラム諸国で構成された紛争協議を行う連盟ですが、ほとんど効力を発揮していません。次にアラブ連盟で、リビアやシリアで発生した内部紛争に関与することで、初めてその存在が国際的に知られました。そしてサウジアラビアが多数派を占め、その結果完全にスンニ派教徒の機関となっている湾岸協力会議です。 欧米諸国の人々にとって、大小さまざまな国際機関が存在しない世界など、まったく想像できません。そのような国際機関が我々の外交政策に与えてきた影響、すなわち、すべての国々が国際的責任を担い、その結果、各国の国益をはるかに超えた展望を持たなければならないという認識は、イスラム諸国ではいまだにほとんど芽生えていません。しかし、より強い影響力を持つことはそれだけ魅力的なものなのでしょう。長期にわたってこのテーマはイスラム諸国との価値観についての対話の一部であり続けています。

 文化外交政策における価値観についての対話を目的としたアプローチを観察すれば、国家の文化外交政策のアプローチに則っていては、これらの任務の大部分はまったく遂行できないことがすぐに分かるでしょう。これまでに挙げたテーマの多くは、たとえばEUを介するような、国際的な協議に則ったアプローチを必要とします。ゲーテやベートーベン、ピナ・バウシュゲルハルト・リヒターはこれからもドイツの文化外交政策の原点であり続けるでしょう。
 しかし、民主主義の発展や宗教の共存、少数民族との関係、移民の融合政策、紛争回避、多国間外交といったテーマは、EUの傘下で複数の国々が共同で取り組んでいる場合に、より説得力を持って議論の場に持ち出すことができます。ヨーロッパは啓蒙、進歩に対する信念、そして寛容さを支持します。ある国の内部で発生した最近の暴力的紛争への対処や、それに関する実行可能な和解プロセスの提案は、20世紀の歴史において複雑な過去を持つドイツのような国が行うよりも、EUが行うほうがはるかに簡単です。今までのところ、ブリュッセルのEU本部はこのような対応をしていませんが、見直しが進められている段階です。



それぞれの近代化を模索する
 将来的には、価値観についての対話はより複雑になるでしょう。西欧諸国の民主主義的価値観はもはや確実な手だてではなく、一方では西欧諸国によって広められた近代化モデルによって多くの新興国が苦い経験を味わい、「自己破壊的で、普遍的には受け入れ難い国」と見なされている事実と結びついています 。近代化=「欧米化」であるという考え方はもはや通用しません。研究者が「複合的現代性」について語り、中国モデル やトルコモデル などについて言及するのは、そういう訳です。また一方では、イスラム過激派の存在によって西欧諸国の文化外交政策における対話の機会が益々制限されてきています。このことは、最近エジプトやチュニジアで行われた選挙に顕著に表れています。それにもかかわらずドイツ連邦政府は、変革を目指すアラブ諸国とのパートナーシップを支援するために、2012年だけで5000万ユーロという巨額を用意しました 。驚くべき金額だと思います。その評価結果が楽しみです。(後編に続く)


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講演後に聴衆と歓談するマース氏


(写真:高木あつ子)



cultural_diplomacy01.jpg クルト-ユルゲン・マース Kurt-Jürgen Maaß
1943年生まれ。ハンブルグ、ローザンヌ、ストラスブルグなどの大学で法律を専攻し、ハンブルグ大学で博士号を取得。NATO議会会議、フンボルト財団、連邦政府教育省、ドイツ科学評議会での勤務を経て、1998年~2008年の10年にわたりドイツ対外文化研究所事務局長として活躍。テュービンゲン大学政治研究所の名誉教授でもある。研究の専門領域は文化外交、ヨーロッパと中東との対話、危機予防。また、外交に関するコンサルテーションも行っており、ドイツでの文化外交論の第一人者




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