小熊英二(慶應義塾大学総合政策学部教授)
国際交流基金(ジャパンファウンデーション)バンコク日本文化センターは、2014年9月、大メコン圏での国際会議参加に伴って、慶應義塾大学総合政策学部の小熊英二教授をタイにお招きし、タイのウボンラーチャタニー大学とチェンマイ大学の学生と教員に向けて「日本における格差の拡大とその対策」、「日本の市民運動と社会の変化」の2つのテーマで講義をしていただきました。小熊氏が、タイの地方都市滞在を振り返り、紀行文を寄せてくださいました。
タイの大学での講義
ウボンラーチャタニーでKポップダンスと出会う
国際交流基金の支援でタイに行くのは2回目で、前回は洪水さなかの2011年秋だった。3年ぶりのタイで興味深かったのは、グローバル化の影響である。
タイ東北部のウボンラーチャタニーは、バンコクの喧騒とはほど遠い地方都市である。しかしそこには、3年前にはなかった大型ショッピングモールが郊外に建っていた。一着高価なジーンズが並ぶブランド店もあるが、階上のフードコートは手ごろな値段だ。公共交通機関が貧弱なので、大型道路に面したモールには駐車場が隣接し、人々は自動車で集まってくる。
そのモールの正面広場にある野外ステージで、日曜日の夜に、Kポップのダンス大会が開かれた。出場を応募した地元の少年少女グループが、2人組タレントの司会で次々とステージで踊り、来賓の芸能人とおぼしき審査員たちが優秀グループを決める。いわば「のど自慢大会」だが、モール側としては、客集めのイベントでもあるのだろう。
壇上にあがる少年少女たちは、ほとんど高校生くらいの年齢だ。彼らはYouTubeでKポップグループの踊り方を研究し、ネット販売で衣装を手に入れているそうだ。野外ステージの正面に座り込んでいる観客は、ほとんど学校の同級生や家族らしく、彼らの踊りをスマートフォンで撮影している。
ウボンラーチャタニーは農村に囲まれており、貧困対策や教育普及に努めているNGOも多い。その一方で、郊外型モール、スマートフォン、ネット販売、YouTubeといったものは、この地にも急速に浸透している。そうした背景のもと、タイの少年少女たちが、きらびやかな衣装を着て、Kポップダンスに興じているのだ。
ウボンラーチャタニーのレトロ調カフェ「パンテー」
レトロ調カフェの出現、タイ人の自意識
ウボンラーチャタニーの中心街にも変化がおきている。大規模な再開発はまだないが、3年前にはなかったカフェがあちこちにできた。バンコクで修業したという若いバリスタが、しゃれた内装の店内にかまえ、見事なカプチーノを淹れる。
なかでも興味深かったのは、レトロ調をコンセプトにしたカフェである。タイの民家を改造した店に、古ぼけた扇風機やミシン、電話機などが並べられ、バナナやヤシが茂る中庭がある。どうやら、地元の知識層にも人気があるようだ。
しかしこうした様々な現象は、「タイも近代化している」という単純な話ではない。現代においては、「近代化」というものも、かつての時代のような形はとらないのである。
じつは前述のレトロ調カフェは、外見では付近の民家とほとんど見分けがつかない。日本でも民家を改造したレトロ調カフェはあるが、これは実物の民家は周辺には建っていないからこそ、レトロ調が際立つ。ところがウボンラーチャタニーのレトロ調カフェは、周囲に同じような古い民家が並んでいる。いわばカフェの中だけが、「ここはレトロ調カフェである」という自意識に満たされているのである。
こうした現象をもたらしている一因は、スマートフォンの浸透であるようだ。レトロ調カフェにきた客は、スマートフォンでカフェにいる自分や仲間の写真を撮影し、フェイスブックに投稿する。その写真だけを見る者には、そこが民家の並ぶ街で、戸外は昔ながらの風景であることはわからない。写真に切り取られた風景は、あたかもニューヨークのレトロ調カフェに、自分たちがいるような自意識を作り出す。
またバナナやヤシが植えてある中庭の風景は、タイ人のお客の自意識が、西洋の熱帯趣味に同化していることを意味する。聞いたところでは、このカフェに集められていた古い扇風機やミシンは、もともとは西洋人の観光客を相手にしていたアンティーク・ショップで買い集められたものらしい。この町の郊外には、中心街でまだ走っているトゥクトゥク(三輪タクシー)を、アメリカのクラシックカーや古い映画ポスターと一緒に展示しているモールがあったが、そこも外国留学帰りのオーナーが開設したものだという話だった。
ウボンラーチャタニーのレトロ調カフェ「パンテー」
グローバル化がもたらす光と影
そしてグローバル化は、従来とは違った形の貧困を生み出す。ウボンラーチャタニーでもチェンマイでも、中心街の地価高騰が激しく、この5年ほどで2倍以上になったという話を聞いた。
インターネットの発達を背景に、投機マネーが世界をかけめぐり、地価高騰をもたらしているのは、香港やメキシコシティなどでもよく聞いた話だ。サンフランシスコでは、1ベッドルームの平均家賃が3200ドル(34万円)である。タイでも、都市部に若い世代が家を買うのは、しだいに困難になっているという。
世界で進むもうひとつの傾向は、雇用の不安定化だ。グローバル化と情報化は、製造拠点を賃金の安い国に移すことを容易にした。日本の労働者はタイの労働者と競争しなければならず、タイの労働者はバングラデシュの労働者と競争しなければならない。ウボンラーチャタニーでもチェンマイでも、大学の卒業生たちに地元でよい就職先がなく、自分で自営業を起業するしかない者も多いという話を聞いた。
こうした経済的困難と、文化面での華やかさが矛盾しないのが、現代の特徴だ。KポップのダンスをYouTube で見たり、ダンス大会を見物したりするのは1バーツもかからない(逆に言えば、文化的な浸透度ほど、CDの売上は上がっていない)。きらびやかなダンス衣装も、ネット販売で格安で入手していると聞いた。
民家を改造したカフェも、できるだけ初期投資をかけずに開業するため、知恵をしぼった工夫なのかもしれない。あのようなコンセプトを立てたからには、大学を出ても職がない者が起業したのかもしれない。しゃれた内装のカフェでカプチーノを淹れていたバリスタも、大学を卒業していながら、地元でカフェを起業したらしかった。
メコン河の支流ムン川に建設されたパクムンダム運転の反対運動に関わった住民から話を聞く
メコン河の支流ムン川
世界のどこでも、人々は与えられた状況のなかで生きている。「近代化」や「貧困」のあり方、あるいは自意識の持ち方は、かつての時代と同じではない。そうした変化を見誤らないことは重要だが、しかし同時に、変わらぬものを見つめていくことも重要だ。そんなことを考えていると、Kポップで踊る同級生や家族に声援を送る観客たちの表情が、村祭りに興じる農民たちと変わらないように見えてきたのだった。
小熊英二(おぐま・えいじ)
1962年東京生まれ。東京大学農学部卒。出版社勤務を経て、東京大学総合文化研究科博士課程修了。現在、慶應義塾大学総合政策学部教授。学術博士。著書に『単一民族神話の起源』、『<日本人>の境界』、『<民主>と<愛国>』、『1968』、『日本という国』、社会を変えるには』など。