2020.10.15
【特集073】
特集「新型コロナウイルス下での越境・交流・創造」(特集概要はこちら)インタビュー・寄稿シリーズ初回は、現役医師でありながら、「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2020」芸術監督を務めた稲葉俊郎さんにご登場いただきます。コロナの今、生きることや命をどう見つめているのか。また伝統芸能、芸術、民俗学、農業等、幅広い分野の人々と対話を重ねることへの思いとは――。
涸沢診療所(長野県松本市)のある涸沢カールにて。東京大学山岳部監督を務め、夏は涸沢診療所で山岳医療にも従事した(本人提供)
――現役医師として医療現場に立ちながら、コロナの状況をどのように感じていらっしゃいますか?
僕が一番危惧しているのは差別や分断の問題です。コロナ感染症が出たといったら、誹謗中傷が起きたり、飲食店が廃業に追い込まれたり、家族が差別されたり、職場や幼稚園・学校に来ないでくれと言われてしまいます。本来、病気にかかってしまったわけで、むしろみんなが心配しないといけませんよね。「大丈夫ですか」「元気ですか」「何とか病気を良くしましょうね」という話につながっていかないといけないのに、なぜ対応が真逆な社会になったのだろうと思っています。そうした群衆不安の原因は、みんなが当事者側に回ったことだと思います。いじめられたくないからいじめる側に回ればいいという心理が働くことと同じように、陽性者が出ると過剰に差別をしたり、批判をしたり、ということが起きるのだろうと思います。
一つ希望を感じているのは、鹿児島・奄美諸島の与論島の事例です。人口約5000人の与論島で、島の方が次々に感染したんです。陽性になったら与論島では診られないので、鹿児島本島の病院に搬送されていくわけですが、入院していく患者さんにみんなが「大丈夫か」「元気か」「無事になって帰ってこい」とメッセージを送って励まし合ったそうです。退院して与論島に帰ってきた人たちに対してもみんなが声をかけあい、共に乗り越えていこうという機運があったそうです。
私たちの社会が差別や分断、非難やクレームを言い合う社会に向かっていくのか、それとも互いを気遣い、優しさや善意が循環する、助け合う社会に向かっていくのか、今岐路に立っているのではないかと思っています。
――どうしたら、与論島のようになれるのでしょう?
普段からそういう町づくりを島全体でみんなが心掛けていたことは大きいと思いますね。感染症に限らず、いろいろな災害は今後も起きうるものですが、普段の備えがあればちゃんと乗り越えていける。僕らがどういう場や町をつくっていくのかということが普段から大事で、いま取り組むべき切迫した課題ではないかと強く思っています。
(19世紀末に流行した)ペストのときも、ある程度落ち着いて次の社会に移行するまで10年くらいかかっています。これから10年くらいかけて社会基盤の構造が変化していくと思っています。その一つにオンラインの世界があると思います。2020年の「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ」(9月5日~27日、現在はアーカイブを配信中)をウェブ開催にしたのも、平時のときと緊急時のとき、どういう状況でも常に両方(オフラインとオンライン)を行き来できる社会の基盤をアートの世界でもつくろうという思いから準備を始めました。
社会的インフラも大事です。ただ、共に取り組むべき大事なことは、「対話」の技術だと思っています。みんなが対話をし合う社会。医療現場で患者さんと一人一人向き合っているときにも、対話の可能性をいつも感じます。うつ病等の心の病気の場合のカウンセリングも、話を聞くだけで相手が治癒したり、社会に絶望して自殺しようと思っている人が、やはり生きようと思うきっかけになったりすることがあるんです。そこにも対話の可能性があります。
――逆にいうと、今までは社会で対話が不足していたということなのでしょうか?
適切な対話が行われていなかったのだと思います。子どもは大人のやり方を見よう見まねで覚えていくわけですね。例えば大人が怒りや暴力で場を支配するコミュニケーションをしていたら、子どもはそれが正しいと学習してしまう。僕らは本当の意味での真の創造的な対話を学ぶ時期にきているのではないかと思っています。
山形ビエンナーレ2020でも、未来を担う人たちに種をまきたいという思いから医学生と美術系学生の対話を行っていますが、そこで一番大切にしているのは対話の作法や技術です。「では会話してください」と言うのは簡単なことですが、僕は必ず「対話のルールを三つだけ設定しましょう」と言っています。一つ目は相手を褒める、もしくは相手を尊重すること。二つ目は未来を語ること。三つ目は断定しないこと。
「未来を語る」というのは、そういう方向性が共有されないと過去の知見を話し合うだけで話題が先に進んでいかないということが起きます。「断定しない」ことを共有するのは、バンっと断定したもの言いだとシャッターを下ろされた感じがして、この人に言っても無駄だと思ってしまうことを回避するためです。「相手を褒める、相手を尊重する」というのは、ただ無闇におだてるわけではなく、ちゃんと相手の意見や考えを理解し尊重して、そこを共有しながら話しましょうという立ち位置のことです。そういうちょっとした対話の水路をつくるだけで対話は創造的で未来志向になったり、質の深いものになったりするんですよね。細かい人間関係のいさかいから、究極的にはコミュニティーのトラブルや国際紛争の問題まで、対話はあらゆるシーンでの解決策を提示し得る可能性を持っています。今後10年、コロナ禍の中で突き付けられた今の社会の不安定さを創造的に突破する鍵になると思っています。
――多様性を確保しながら、対立する点ではなくて協調できる点を探していくという。
対立の構造の中でどんどん分断されていく社会ではなくて、対立軸から抜けて、みんながお互いをちゃんと尊重して理解し合う。その中でどういうふうにお互いの自由や幸福を尊重して、疎外しないようにしながら、共に仲間外れのない社会をつくっていけるのか。それは壮大な社会実験でもあり、人類が取り組むべき挑戦でもあると思います。多様性を尊重することを具体的にどういう文脈でどういう手法で実現するのかと考えると、やはり対話の力に賭けたいと思っています。
今回の山形ビエンナーレ2020の芸術監督を拝命して、「全体性を取り戻す」という大きなテーマを掲げました。解答としてではなく、問いとして発しています。「全体性」と聞いてみんなが表面で感じることは違いますが、深いレベルでは共通のテーマがあると思います。共通の土台で人は集えますし、対話もちゃんと行えます。みんなが違う世界、違う現実を生きていますが、「全体性」を取り戻したいという思いは共通であるという地点に立てば、みんながそれぞれの立場を理解し尊重できる社会になるのかなと思います。
――「全体性」とは、全体主義やみんなが同じことをやるのとは違う、それぞれの個がありながらも協調していて、全体としての調和がとれているというようなことでしょうか?
そうですね。孔子が『論語』子路編の中で「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と述べています。小人、つまらない人物は協力しないけれど、簡単に同調する。だけど、君子、立派な人物は、誰とでも調和し協力するけれど、決して同じ考えに染まらない、という表現があります。多分それが全体主義と、個を尊重し、個の全体性を取り戻しながら全体が調和するところの違いなのかなと思います。みんなが同じ考えに染まる全体主義は、それぞれがちゃんと自分の考えを持っていません。悩むことも考えることもありません。そうではなくて、それぞれしっかり自分の命の核と結び付くように対話をして、他の人と意見や生き方や考えは違うけれども、その上で他者と共に生きている以上、協力や調和の努力を惜しまない、という考えは、似て非なるものだと思いますね。そこは大事なポイントかなと思います。
個と場の関係性は、人類という種そのもののテーマだとも言えます。例えばゴリラやチンパンジー、同じ霊長類でも、ゴリラは家族というコミュニティーを大切にします。でもチンパンジーは家族の場は解体されて、ボスザルがいる強いヒエラルキー社会の中で群れをつくっています。アリやハチも集団をつくる生き物ですが、多くの野生の生き物は集団よりも個として生きていく。そもそも、個人と集団の利害は対立するものなのです。個人が幸せに生きることと、全体として集団が幸せに生きること、この利害が衝突して矛盾しやすいものを同居させ両立させる挑戦が、人類という種が持つ固有のテーマだとも思います。都道府県や国家をつくる生き物は人間だけです。結局、そこで重要になるのが対話なのです。個の幸福と、家族や集団、コミュニティー、大きくいえば国や地球の幸福、極小と極大の両方を重層的に両立させて生きるために、人間は対話という素晴らしい能力を与えられていると思います。
――具体的な実践としては、小さいコミュニティー等自分の周りから対話の場をつくっていくということになりますか?
それぞれが自分の持ち場の中でもがきながら実践的な対話をして学び合いながら、確固とした暮らしやコミュニティーをつくっていくのが、それぞれの課題だろうと思います。家族や地域での対話が、役割に応じて大きな組織内での対話へつながります。日本のように日々内戦が起きているわけではない、最低限の安全が担保された社会でこそ、率先して実践したほうがいい。いろいろな背景を持つ人が日本に訪れたとき、日本という場に憧れを感じ感化するような、影響を与える場であってほしいと思います。対話は、母国語の言語構造にも影響されますから、お互いの言語の根本を学ぶ相互理解にも通じると思うのです。
また、新しい医療の場は、命というフィロソフィー(哲学)を共有できる場になるのではないかと考えています。その象徴の一つとして、畑のような命を育んだ場を共有地としてみんなが囲って集い、自然に対話が立ち上がる社会をつくっていけば、田んぼには水路が必要なように、対話の水路も自然に流れ、命が中心軸として立ち上がっていくだろうと思います。自分も実践者として取り組んでいきたいですね。差別や分断の社会をつくりたいわけではないのだとしたら、誰かがやるのではなく、できる範囲で、それぞれの居場所の中で貢献できればいいだろうと思います。
東日本大震災後から、鎮魂の意義と日本伝統の所作や美意識を学ぶために能楽(観世流)を習い続けている。石神井能舞台発表会にて(本人提供)
――コロナ下のソーシャルディスタンスでなかなか人と会えなくなってしまったということは、今後、人と人の出会いや関係性にどう影響を及ぼすとお考えですか?
実際は、全く物理的に会えないわけではないですよね。ちゃんと感染防御をして3密を避けて距離をとれば感染症の中でも会うことは可能です。今はとにかく「会えない」ということだけが強調されすぎている気がします。逆にいえば、人と会う必要性を吟味して考えて会う時期だと思います。不特定多数の顔の見えない人と会うことよりも、本当に会いたい人、会うべき人と会う。ちゃんと距離をはかりながら、一期一会の出会いを大切にする。そうした時期だと思えば悪いことばかりではないですよね。例えば、家族とは何だろうとみんなが考えるきっかけになると思うんですよね。今の傾向を前向きに捉えています。自分は誰と会い、どういう言葉を交わし、どういう交流をしたいのか。無目的な会話よりも、今は対話を明確に意識する時期なのかなと思います。
――あえて一人で自省することも大事だったりしますね。
情報化社会はどうしても外にたくさん情報があって、外に外に意識が向いてしまうんですが、実は自分自身の内部にこそ無限の泉のような生命情報があります。自分の内側にある生命の世界に、もう少し向き合って再接続する時間が大事です。僕が芸術と医療の共通性を語るときにも一番大切にしていることで、人間において眠りという時間が大事なのも同じ意味合いです。自分自身の生命の巣に戻る象徴的な行為が眠りの時間です。そうしたことを軽視して、外に外にと、権威や名誉やお金とか外見等、そうしたことばかりに意識が外側へ引っ張られすぎると、どんどん自分自身とは離れていきます。こもる時間は、生命が与えた仕組みの意義を理解する時間として、自分はなぜ生まれ、生きているのか、という根源的なことを考える、哲学的な対話の時間にしてほしいと思います。
――体や心の声を聴くという。
簡単にいうとそういうことですね。自分自身の体や心の声を無視しても生きていける社会になってしまったということでもあります。いま一度、命の原点に立ち返り、自分を支える体や心がどういうふうに懸命に生きて命をつないでいるのか、傷ついたり悲しんだりしながらも、どうやって僕らの体と心はベストを尽くしながら命は全体性を保って生き続けているのか、そうした哲学的な対話の時間が増えればいいなと。そうすることで社会的に立場が弱い人や苦しんでいる人の気持ちにも、寄り添えるのではないかと思います。
――誰もが命をもって生きているということを肯定することで、意見や考えが違っても、その人の存在を尊重できる、全体性のある社会につながるのかもしれませんね。
やはりそう思います。一人一人の命があって、それが重なって社会ができていることが根本です。存在の尊重が根幹でしょうね。そのためには、それぞれが自分の命の居場所を大切にしてほしいです。自分自身のケアがない限り、相手のことを大切にできませんよね。外の他者だけではなく内の自分自身も大事です。幼少時から何となく教わっていて、それとなく理解している気になっていますが、基本的な一番大切なことを忘れていたりします。赤ちゃんのような無垢な状態からもう一回再学習するくらいの気持ちで、誰にでも本質的なことを学び直す時期が必要だと思います。
山形ビエンナーレ2020のポスター。自然界と人間界をつなぎ新しい世界の在り方を見いだそうとしている存在を、山伏の坂本大三郎氏がモデルとなって表現した(山形ビエンナーレ事務局提供)
――山形ビエンナーレ2020を今開催するべきだとご判断された背景は? そしてタイトルにも「いのち」が含まれていますが、文化や芸術と、命や体はどうつながっているものでしょうか?
むしろこういう危機的な状況こそ文化や芸術の力が一番必要となるのではないかと思っていたから、中止や延期にするという発想がそもそもありませんでした。コロナ禍の中で、差別や分断、誹謗中傷が起きるのはみんなの心の余裕がなくなっている証拠でもあるし、心が乾いて荒れて不安定になっているのだとしたら、そこに雨水を降らせて豊かな土地になるように、今ほど芸術、文化、音楽の力が必要な時期はないだろうと思っていました。不要不急という言葉に対し、心の緊急対応として必要な芸術もあると思います。芸術祭の役割を考えながら、今でないとできないことを共有したいと思いました。医療業界もそうですが、芸術や文化の世界の切迫した課題、今だからこそ行う必要があるテーマもきっとあるに違いないと思っていました。実際、山形ビエンナーレ2020も、今この時期にやる切実な課題を投げかけ、受け止めてもらったのではないかと思います。出展作品の全体性の中からにじみ出てきているのではないでしょうか。
――開幕しての反響や手応えはいかがですか?
僕はかなり強い手応えを感じました。「失敗したとしてもそれは挑戦の証だから、新しい時代の挑戦としてやりましょう」とみんなに呼び掛けて、誠実に応えてくれたのがうれしかったです。受け手も本質的な部分を感じ取ってくれているような熱量を感じました。
関係者が、今実施する意義を深く無意識に掘り下げて準備しましたので、表現の中に強度や深さが出てきているのではないかと思います。自分の中で深い無意識との対話がどれだけ行われたかが、作品の質や強度やエネルギーに影響を与えると、実感していましたから。
――芸術と医療を分けたことはない、とおっしゃっていますね。
僕の中では全く分かれていないという感覚です。子どもを見ていても、生きる営みと、踊ったり歌ったり体を動かすことが全然分かれていないと思います。そうした感性こそが本来的な人間の生命活動ではないかと思います。その感覚を忘れず大切にしてきただけだと思います。自分の全体性をどんどん分けていくのが大人のようなイメージがありますが、僕はあえて分けないようにしましたし、関係性が切れてしまったら再度つなぎなおすことをしてきました。そのことが自分という全体が不一致にならない重要なところで、実際的にはすごく医療的な要素を感じています。
壁を生み、分断し、カテゴリー化され、バラバラで関係性が失われていくことは生命の営みではありません。生命は全体性を取り戻し、調和を大切にする働きです。そのためには通路や水路を介して部分と部分とがつながり合い、響きあうことが必要で、全体の回路は循環を始めて動きだします。そうしたことを芸術祭でも、医療の活動の中でもやりたいのです。この10年で実践しながら、次の世代に手渡すため、誠実な後ろ姿を見せていきたいなと思っています。
稲葉 俊郎(いなば としろう)
1979年、熊本生まれ。医師、医学博士。東京大学医学部付属病院循環器内科助教(2014~2020年)を経て、軽井沢病院総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任(山形ビエンナーレ2020 芸術監督就任)。【単著】『いのちを呼びさますもの -ひとのこころとからだ- 』(2017年)、『いのちは のちの いのちへ』(2020年)(以上アノニマ・スタジオ)、『ころころするからだ:この世界で生きていくために考える「いのち」のコト』(2018年、春秋社)、『からだとこころの健康学』(2019年、NHK出版) 【翻訳書】「身体のデザインに合わせた自然な呼吸法―アレクサンダー・テクニークで息を調律する」(医道の日本社、2018年)等。
公式ホームページ https://www.toshiroinaba.com/
みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ https://biennale.tuad.ac.jp/
2020年9月 オンラインにてインタビュー
インタビュー・文:寺江瞳(国際交流基金コミュニケーションセンター)