冨田 勲(作曲家 シンセサイザー奏者)
進行/前島秀国(サウンド&ヴィジュアル・ライター)
ゲスト/伊藤博之(クリプトン・フューチャー・メディア代表取締役)
シンセサイザー音楽の第一人者、日本を代表する作曲家として世界的に知られる冨田勲氏。今回のトップストーリーでは、冨田氏の2015年度国際交流基金賞受賞を記念して行われた講演会の模様をご紹介します。1970年代に日本初のモーグ・シンセサイザーによるアルバムを発表し、近年は宮沢賢治の文学を音楽化した『イーハトーヴ交響曲』にバーチャル・シンガー初音ミクをソリストとして起用するなど、サウンドクリエイターのパイオニアとして常に革新的な音楽を創造し続ける世界のTOMITA。講演会はまず第1部でサウンド&ヴィジュアル・ライターの前島秀国さんを進行役に冨田氏の足跡が、初音ミクの創造者である伊藤博之氏を迎えた第2部では『イーハトーヴ交響曲』の誕生に至る道程が紹介されました。そしてラストには最新プロジェクトについても明かされます。
(2015年11月17日 TKPガーデンシティ竹橋ホールでの2015年度 国際交流基金賞受賞記念講演会より)
冨田勲氏が2016年5月5日にご逝去されました。冨田氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
2015年度 国際交流基金賞授賞式(2015年10月19日)
先進的な偉業を成し遂げ、「世界のTOMITA」の名を不動のものに
満席の会場の大きな拍手に迎えられて登場した冨田氏
冨田:実は先日、家の中で転びまして。最高に格好よく見せたい時に絆創膏姿で登場することになってしまい、本当に残念です(笑)。
― 冨田氏のユーモラスな一言で幕を開けた講演会。冒頭、数年前に制作されたビデオ映像『冨田勲の軌跡』が会場のスクリーンに映し出されました。そのドキュメンタリーは、冨田氏の足跡を少年時代の原体験からたどり始めます。―
『冨田勲の軌跡』ナレーションより(抜粋)
1938年の北京。当時6歳の冨田少年は天壇公園の「回音壁」の前で、思いがけない方向から音が聞こえてくる不思議さに魅せられます。将来こだわり続ける「音響の原点」と言える体験です。
進駐軍向けのラジオ放送で聞いたストラヴィンスキーの『春の祭典』に衝撃を受け、日本で未発売のLPレコードをアメリカから取り寄せたのは高校時代のこと。大学に進むと作曲家に師事し、大学2年の時に自身が作曲した「風車」が全日本合唱連盟の合唱コンクールの課題曲に1位で選ばれたのを機に、作曲家として歩み始めます。
1970年、モーグ・シンセサイザーでオーケストレーションをした世界初のレコード『スイッチト・オン・バッハ』に出合ったことがきっかけで、モーグ・シンセサイザーを個人で輸入。1年4か月を費やし、シンセサイザーによるデビュー・アルバム『月の光』を完成させます。そのアルバムは、米ビルボード誌のクラシックチャート第1位を獲得。翌1975年には日本人として初めてグラミー賞の4部門にノミネートされ、国際的な評価を確立したのです。
1984年、オーストリアはリンツのドナウ川で、両岸と川面、空中から成る超立体音響の野外コンサート「トミタ・サウンドクラウド」を公演。1986年にニューヨークの自由の女神100年祭記念行事の一環としてハドソン川でも行い、10万人の聴衆を動員します。また、1988年には長良川の河畔でも開催しました。
1998年、瀬戸内寂聴の現代語訳『源氏物語』を題材に、日本の伝統楽器とオーケストラ、シンセサイザーによって交響化した『源氏物語幻想交響絵巻』を発表。東京、ロサンゼルス、ロンドンの公演では、自ら指揮棒を振りました。
前島:ビデオでも触れていた通り、冨田先生は5、6歳の頃に天壇公園にある回音壁で、不思議な音の響きを体験しました。その原体験がのちにサラウンドなどに結実していくわけですが、ストラヴィンスキーのバレエ曲『春の祭典』との出合いもポイントとなる出来事の一つだと思います。というのは、このレコードを聴いたことがきっかけで作曲家を志すようになり、オーケストレーションをご自身で基礎から勉強し始めたからです。
その後、冨田先生は多くのオーケストラ音楽を手がける一方、既存の楽器音に限界を感じていたことから、本体だけで1千万円もするモーグ・シンセサイザーを個人輸入します。ところが、説明書は紙切れ1枚のみ。音をどう出せばいいかさえわからず、箪笥のような箱を手探りで操作しながら音を作っていったといいます。そういう悪戦苦闘と試行錯誤を経て完成させたアルバムが『月の光』で、1974年にアメリカのレーベルRCAレコードから発売されてビルボードのクラシックチャート1位に輝き、グラミー賞にもノミネートされました。これは日本人として前例のない快挙です。先生はこの作品で一夜にして、世界に「TOMITA」の名を轟かせたと言っていいでしょう。
進行を務めながら冨田氏の偉業を紹介する前島氏
1980年代には「トミタ・サウンドクラウド」と名づけられた超立体音響の野外コンサートをリンツのドナウ川河畔やニューヨークの自由の女神100年祭、長良川の河畔などで開催しました。先生はこの「トミタ・サウンドクラウド」を通じて、世界平和や国際交流のメッセージを伝えています。たとえば自由の女神100年祭は、アメリカの大切な日である独立記念日の7月4日に催されました。当時は東西冷戦の時代で、だからこそ先生はあえてソ連のピアニスト、ニコライ・デミジェンコをソリストに起用し、20世紀のアメリカ音楽を作ったと言われるガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」を彼に演奏させた。このように試みが常に先進的であり、それを恐れずにやってのけるわけです。
では、今日は長良川でのサウンドクラウド公演の映像をご覧いただきましょう。UFOに乗った宇宙人に扮するスティービー・ワンダーが、地上で竹笛を吹く子どもたちと音楽で交信するという感動的な場面がありますので、その部分をお送りします。
― ここで、1988年「トミタ・サウンドクラウド・イン長良川」のハイライトシーンが映されました。そのあとで冨田氏が、リンツのブルックナー音楽祭で行ったドナウ川公演の裏話を披露し、会場の笑いを誘います。―
冨田:コンサートの会場となるのは公の場所ですから、裏側は大変なんですよ。一番困ったのはドナウ川の公演です。水は音響に影響するため、その効果を計算して、ドナウ川の中央に船を停泊させてコンサートをやるつもりでした。ところが前日になって、主催者側が「船を停泊させることは相成らん」と言ってきたんです。困っちゃいました。――会場笑―― 仕方なく「それでは錨を下ろしません。川上に向かって1分間に1メートルの速度で動かすようにします」と伝えたら、返事がなくてね。微速でも動いていれば停泊していることにはなりませんから、罰せられないだろうと思って決行しちゃったんです。――会場笑――こういう裏話はたくさんあります。
冨田勲×初音ミクの画期的なコラボレーションはこうして実現
― 第2部からは初音ミクの生みの親である伊藤博之氏が加わり、『イーハトーヴ交響曲』の話題が展開していきます。世界のTOMITAと世界的人気のボーカロイド初音ミクとの共演が注目を集め、2012年11月に東京で初演された『イーハトーヴ交響曲』はチケットがソールドアウト。2015年5月に北京で行われた初の海外公演でも、1700人あまりの観客を魅了しました。―
伊藤氏が、冨田氏と初音ミクの共演が実現したいきさつを披露
伊藤:まず、『イーハトーヴ交響曲』と初音ミクの単独コンサートとの決定的な違いからお話しましょう。従来のコンサートでは、前もって合成しておいた初音ミクの3DCGに合わせて楽器奏者が演奏します。でも『イーハトーヴ交響曲』の場合はオーケストラの演奏者と同様、ミクも指揮者の指示に従う必要がある。つまり、3DCGの初音ミクを指揮に合わせて動かさなければなりません。そこで、3DCGのテンポをその場で臨機応変に変えられるシステムを開発しました。
― それにより、初音ミクを指揮に合わせて自在に踊らせることができるようになったのです。そこに至るまでの悪戦苦闘の様子は、映像でも伝えられました。
そのあと、伊藤氏が冨田氏との出会い、それにまつわるエピソードを語ります。―
伊藤:忘れもしない2012年の3月7日。音楽制作用ソフトウェアを扱う会社のスタジオに行ったところ、冨田先生がいらしたんです。僕はファンとして純粋に遭遇できただけでラッキーと思いましたが、『イーハトーヴ交響曲』の話になり、先生が「ミクに出てもらえたらなぁ」とおっしゃいまして。その時に「明日、ミクのコンサートがあるんです。いらっしゃいませんか」とお誘いしたんです。翌3月8日「ミクの日大感謝祭」の初日に、先生は来てくださいました。それが直立不動でご覧になっているんです。僕が「お座りください」と促してもずっと立ったままで・・・・・・。
冨田:席に座ったら観客の谷間に入っちゃうようなもので、何も見えないですから。ずっと立たざるを得ない。――会場笑――
伊藤:はい。ですから僕も立たざるを得ませんでした(笑)。
冨田:あなたは若いからいいんですよ。――会場笑――
伊藤:こういういきさつがあったんです。偶然といえば偶然なんでしょうけれども、運命が巡り合わせてくれたのかとさえ思いました。
冨田:初音ミクといえば有名な歌姫ですからね。参加していただけるのかどうか、非常に不安で。そうしたら「やりますよ」と簡単におっしゃった。――会場笑――
伊藤:僕はあの時、自分から「ミクがオーケストラの演奏に合わせないといけませんよね」と言ってしまいました。
冨田:そう。先におっしゃったんですよ。僕は不可能だと思っていたのに墓穴を掘るようなことを口にしたので、「大丈夫ですか」と(笑)。
伊藤:こういう調子で絶妙なプレッシャーをかけてくださるので、言わざるを得ないというか、「やろう!」と思うんですよ。これがやっぱり、先生の人を動かす力なんでしょうね。
初めてお会いした時に先生から、モーグ・シンセサイザーに歌わせたりしゃべらせたりすることに苦心したと聞きました。ご自身で実際にチャレンジした経緯があって、初音ミクに代表されるボーカロイドという新しい技術に注目なさったのだと思います。
― 続いて、中国のオーケストラが演奏し、宮沢賢治氏の故郷・岩手県花巻市の合唱団がコーラスを務めた『イーハトーヴ交響曲』北京公演の映像が。指揮に合わせて歌い踊る初音ミクの姿が披露されました。またその映像には、冨田氏が70数年ぶりに天壇公園を訪れた際の場面も。―
伊藤:天壇公園で先生は「鳥のさえずりが反響して面白くなるんです」とおっしゃっていますが、ここに先生の原点があるのではないかと感じました。シンセサイザーとはそういう楽器で、音を加工して作り上げる。実在しない音を6歳の時に回音壁で聞いた体験が、先生のシンセサイザー音楽に対する熱意に深く関わっているんだなと、僕は映像を見て思いました。
冨田:振り返ってみると、そのようですね。あの印象は、80年近く経った今も消えていません。しかも、その印象がまったく変わっていないんです。
現在進行中の最新プロジェクト「ドクター・コッペリウス」とは!?
前島:それでは最後に、大事なトピックをお伝えします。実は今、冨田先生は新しいプロジェクトとして「ドクター・コッペリウス」という作品を手がけていらっしゃいます。モチーフはフランスの作曲家レオ・ドリーブの曲によるバレエ作品『コッペリア』。マッドサイエンティストのコッペリウス博士が人間そっくりのコッペリアという人形を作って魂を吹き込もうとし、その人形をめぐって騒動が起きる......そういうストーリーです。
伊藤:「ドクター・コッペリウス」にはモデルがいます。「日本のロケット開発の父」と呼ばれた糸川英夫博士です。冨田先生は少年時代に糸川博士が設計した戦闘機「隼」に憧れたといいます。
冨田:戦時中は設計者の名前は公表されませんでしたから、糸川博士が設計したことを戦後に知りました。実は、糸川博士は60歳の時に、当時有名だった貝谷バレエ団に入団したんです。自分はこれからバレエをやるんだと言って。それも生半可な気持ちじゃないんです。
伊藤:モーグ・シンセタイザーで編曲した『惑星』が貝谷バレエ団にバレエ曲として採用され、先生がレッスンの現場を訪れた時に糸川博士は驚くようなことをつぶやいたそうですね。
冨田:「ホログラフィーと踊りたい」って。しかも本気なんですよ。主宰者の貝谷八百子さんは「有名な科学者だからといって優遇しません」と糸川博士を一番下のクラスに入れましたから、中学生の女の子たちに混じって60過ぎたおっさんが本気で脚を上げる練習をして(笑)。脚が耳まで届くようになったとすごく喜んでいましたね。それほどの情熱でバレエに打ち込んでいながら、有名なバレリーナとデュエットしたいというのではなくて、ホログラフィーとバレエを踊ることが夢だと。それを思い出したわけです。
伊藤:この「ドクター・コッぺリウス」は、糸川博士の夢を実現させようというプロジェクトです。具体的にはホログラフィーとして初音ミクが登場し、人間のバレリーナと踊ります。生身のバレリーナとバーチャル・バレリーナをステージで共演させるとなると『イーハトーヴ交響曲』以上にハードルが上がり、今まさに悪戦苦闘している最中です。同時に僕は、この試みに非常に意義を感じています。芸術に属するバレエや音楽とホログラフィーには接点がないと思うかもしれませんが、「ドクター・コッペリウス」は芸術と技術の融合が可能なことを示す作品になるはずです。何とか、できるだけ早く実現させたいと考えています。
前島:冨田先生の音楽活動は「新しい命を吹き込む」という要素がかなり大きいと思います。先生は命を吹き込むことによって、ただの箪笥だったシンセサイザーからいろいろな音を引き出し、『イーハトーヴ交響曲』で初音ミクをオーケストラと共演させました。
人形浄瑠璃や文楽など、日本には人形に命を吹き込むという文化があります。アニメーションの語源であるギリシャ由来のラテン語「アニマ」は生命を意味します。日本で脈々と受け継がれてきた伝統文化が、アニメや冨田先生の音楽や初音ミクに続いているわけです。「ドクター・コッペリウス」は、日本独自の「生命を吹き込む文化」を世界に向けて発信するという使命を持った作品になるはずです。だからこそ、このプロジェクトを日本人として必ず実現させたいと私たちは考えています。ぜひ応援していただければと思います。
講演会では最新プロジェクト「ドクター・コッペリウス」の概要も明かされた
― そして締めくくりに、冨田氏が国際交流基金賞の受賞に際してしたためたメッセージを前島氏が代わって読み上げました。―
「リリー・マルレーンから想うこと」
リリー・マルレーンは第二次大戦中に愛唱されたドイツの歌謡曲ですが、レコードの発売当初は60枚しか売れず、店員が捨てるのももったいないとドイツ軍の前線慰問用レコードの中に紛れ込ませました。ドイツ語の放送局から流れたこの曲は多くのドイツ兵が戦場で聞き、故郷を懐かしんで涙を流したそうです。それはまた、ドイツ兵だけではなく敵国イギリスの部隊でも歌われ出したため、慌てたイギリス軍司令部はこの放送を聴くことを禁じました。しかし今のインターネットと同じで完全に封じ込むことはできず、敵も味方も同じ歌を愛唱してしまいました。それなのになぜお互いは戦うのでしょうか。
この曲はやがて海を越えて日本の1975年の12月、第26回NHK紅白歌合戦で梓みちよさんが歌いました。ベトナム戦争たけなわの頃でした。
音楽は翻訳者を必要とする文学とは違い、異言語の手続きを経ないで言葉の違う国々の人たちにも直接相手の心を響かせます。すなわち、世界を平和に導く共通言語が音楽にはあるのではないでしょうか。
今年の5月20日に私は、中国北京世紀劇院で中国政府が主催する芸術祭「相約北京芸術」にて、日本初の唯一のプロジェクトとして『イーハトーヴ交響曲』の公演を行いました。私は当初、賢治の作品の随所に出てくる宗教観が難解で、「銀河鉄道の夜」など現在の中国の人々には理解されないのではないかと気になっていましたが、すでに中国では人気の初音ミクが歌姫となり、それを操作する技術者の皆さん、東北からわざわざ参加してくれた100人の児童を含めた混声合唱、指揮者、北京のオーケストラの皆さんが一丸となっての演奏終了後は、ホールは割れんばかりの拍手で、「ああ、理解されたのだ」と涙が出るほど嬉しかったです。
これからは宇宙時代。何億年前には海にしかいなかった生き物が生存不可能と思われる陸を目指したように、人類は今や宇宙を目指そうとしています。大変な困難を克服しなければなりません。しかしこれは、生き物にとって受け継がれてきた悠久のロマンではないでしょうか。それには地球全体の国々の心は一つにならなくてはならないでしょう。
私はこの度、国際交流基金賞をいただくことになりました。日本人として大変名誉なことと喜んでおります。これからも世界共通語である音楽を通して交流のお手伝いができればと頑張るつもりでいます。
どうか今後ともよろしくお願いいたします。
作曲家 冨田勲
冨田:本当にありがとうございました。1か月以内に絆創膏も必要なくなるでしょうから、「ドクター・コッペリウス」を頑張ります。よろしくお願いします。
(編集:斉藤さゆり/講演会の撮影:相川健一)
冨田勲(とみた いさお)
1932年、東京生まれ。慶応義塾大学在学中より作曲活動を始め、NHK番組や手塚治虫のTVアニメ『ジャングル大帝』『リボンの騎士』のテーマ音楽からCMソングまで数多くの作曲を手がける。1974年『月の光』、1978年『バーミューダ・トライアングル』、1982年『大峡谷』と3度にわたりグラミー賞にノミネートされるなど世界を舞台に活躍。『千年の恋~ひかる 源氏物語』『たそがれ清兵衛』などの映画音楽で幾度となく日本アカデミー賞優秀音楽賞に輝いたほか、2003年勲四等旭日小綬章受章、2011年朝日賞、2013年宮澤賢治賞など受賞多数。
前島秀国(まえじま ひでくに)
クラシック、現代音楽、映画を中心にレビュー、CDライナーノーツなどを執筆。2001年から冨田勲氏へのインタビューを定期的に行う。編著『パーフェクト・オペラ・ガイド』(音楽之友社)、『オールタイム・ベスト 映画遺産 映画音楽篇』(キネマ旬報社)、共著『アートを書く!クリティカル文章術』(フィルムアート社)ほか。最近執筆したライナーノーツに『清水靖晃&サキソフォネッツ:ゴルトベルク・ヴァリエーションズ』『久石譲:WORKS IV』など。
伊藤博之(いとう ひろゆき)
1995年にクリプトン・フューチャー・メディア株式会社を札幌市に設立。ソフトウェア音源、効果音やBGM、モバイルコンテンツなど音に特化した事業を展開。大ブレイクを巻き起こした音声合成ソフトウェア「初音ミク」の生みの親として知られる。京都情報大学院大学教授。日本文化を海外に発信している功績が高く評価され、2013年秋に藍綬褒章を受章。