ヴェネチアに降り注いだ鍵の記憶―日本館で生まれた体感の場とは?

塩田千春(アーティスト)
中野仁詞(神奈川芸術文化財団学芸員)



 7月28日、国際交流基金さくらホールで第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館展示の帰国報告会が行われました。登壇者は、キュレーターの中野仁詞さんと、出品アーティストの塩田千春さん。日本館の「《掌の鍵》 -The Key in the Hand」展は、ヨーロッパ各国の新聞やアート専門誌で大きく取り上げられ、来場者は約13万人に達しました(2015年7月20日現在)。報告会では、展覧会に至るまでの制作プロセス、インスタレーション作品の構想、現地での反応などを聞くことができましたが、今年のビエンナーレは、ミラノ万博の影響で例年より1ヶ月早い開幕になるなど、イレギュラーな出来事も多かったようです。過去に展示を経験した多くの人が「日本館の空間は難しい」と述べているように、今回のヴェネチアでも予想外のことが多くあったそうです。知られざるエピソードも飛び出した報告会の様子を、ギュッと凝縮してお送りします。

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舞台芸術から派生したコラボレーション

 例年通り、複数候補によるキュレーターの指名コンペからスタートした日本館の展示準備ですが、中野さんの手元に指名の手紙が届いたのが2014年1月のこと。プランの提出期限までわずか2ヶ月という短期間で企画をかたちにすることに、最初は不安を覚えたそうです。けれども「塩田さんとなら、素晴らしい展示をつくることができる!」という確信から、ベルリンで活動する塩田さんに参加を依頼したと言います。
 中野さんは、2007年に神奈川県民ホールギャラリーで塩田さんの個展を企画しましたが、最初の出会いは4年前に遡ります。音楽×美術といった異ジャンル間のクロスオーバーを特徴とする同ホールでは、03年に文楽・美術・現代音楽の3つの要素を備えた創作舞台が計画されていました。その美術を塩田さんが担当したことから、2人の関わりはスタートしたのです。神奈川芸術文化財団では、舞台芸術の分野からキャリアをスタートした異色の学芸員である中野さんと、空間構成力に定評のある塩田さんは、その後も瞬間的な判断力を求められる舞台美術など多くの現場で協働を重ねてきました。その積み重ねが、今回のビエンナーレへと結実したと言えるでしょう。4月の選考委員へのプレゼンテーションを経て、2人は日本館代表に選ばれることになります。



降り注ぎ、受け継がれる大切なもの

 これを読んでいるみなさんの中には、美しい展示をすでに直接ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。
 今回の展示の大きな特徴は、世界中から集められた18万個の鍵です(当初は5万個を予定していたそうですが、各地の美術館に設置された回収ボックスや、合い鍵作成業者や小売店で結成された日本ロックセキュリティ協同組合の協力で、3倍を超える鍵が集まりました)。蜘蛛の糸のように張り巡らされた赤い糸から吊るされた大量の鍵が降り注ぐのは、2隻の古びた舟。塩田さん曰く、2隻の舟は「掌」の象徴なのだそうです。

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Installation image of the Key in the Hand, 2015, Photo by Sunhi Mang, Courtesy of Chiharu Shiota

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Photo by Sunhi Mang, Courtesy of Chiharu Shiota

 インスタレーションの象徴的な素材である鍵は「大切なもの」「先人たちの記憶」であり、それを人に預けるということには「個人的・社会的な責任」が生じます。そしてまた、大人が子どもの掌に鍵を託すということは、同時に未来を託すということでもあります。子どもの掌のメタファーである舟へと天から降り注ぐ鍵は、時にこぼれ落ち、溢れそうなほど(18万個の鍵のうち、5万は天井から吊るされ、13万個は床や舟の中に配置されました)。鍵を託すということは、それだけ大きな責任と未来を託そうとする行為でもあるのかもしれません。中野さんは「大人の掌に収まるサイズの鍵も、小さな子どもの掌では、とても大きく見えることがある」と付け加えました。また塩田さんは、制作の過程で「鍵が人のかたちに見えるようになり、糸に結ぶうちに人と人をつないでいるような感覚を覚えた」とも、述べました。

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The Key in the Hand, 2014, Courtesy of Chiharu Shiota

 吉阪隆正が設計した日本館の中央には、2階部分の展示室と1階のピロティを結ぶ、特徴的な筒状の「井戸」が存在します。日本館での展示の難易度を高める一因でもあるこの構造を、2人はうまく活用しました。降り注ぐ鍵の動的なイメージは、井戸を通って、階下のピロティへも貫通していきます(今回、井戸には蓋をしたので、現実に作品が上下に連続しているわけではありません)。ピロティに展示されているのは《生まれる前の記憶》《生まれる直後の記憶》の2つの映像作品です。塩田さんのお嬢さんが、幼い頃に生まれる前後の記憶を喋った不思議な出来事をきっかけに生まれた作品で、日本とドイツの幼稚園を巡り、多くの子どもにインタビューしたものです。中野さんは「ここで子どもたちが語る記憶は、本人のアイデンティティーなのか? それとも、先人たちが子どもたちを通じて伝えようとしている記憶の伝搬なのか?」という問いを、この上下の関係に込めたそうです。

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会場からの質問に答える塩田千春氏(右)と中野仁詞氏(左)



「感じ取る」空間が訴えかけるもの

 今年の日本館は、展示写真が現地メディアの一面を飾るなど大きな好評を得ました。
 ビエンナーレ全体のキュレーターを務めたオクウィ・エンヴェゾーは、2002年のドクメンタ11がそうであったように、社会の諸問題を多面的にとらえるキュレーションを特徴としています。90年代後半から2000年代前半のグローバリゼーションの潮流を批判的に検証し、開催に先立って世界4都市で知識人や活動家による討論を行うなど、ドクメンタ11では、造形的な美のみではなく、社会的な運動に焦点を当て、時代の空気を重々しくも鮮やかに示しました。しかしながら今回のヴェネチアでは、ギリシャ経済の破綻や、ISIL(通称、イスラム国)との衝突など、02年以上の重たい現実がビエンナーレ全体を逼塞(ひっそく)させた印象があります。政治色の強い作品は数多くあれど、不安定な状況をユーモアや発想の転換によって変質させるアートの持ち味は十分に発揮されなかったということかもしれません。
 そういった中で日本館の作品が好評を得たのは、身体や視覚などの生理に訴える異化を空間として示したからです。「読み解く」のではなく「感じ取る」空間であったからこそ、来館した多くの人々の感動と共感があり、ビエンナーレ開幕を伝える現地新聞の一面を日本館のインスタレーション写真が飾ることになったのでしょう。
 最後に塩田さんは、「中野さんともケンカしたし、小さなトラブルはたくさんあった。でも最後の一週間で、すべてのエネルギーを出し尽くすことができた。作品を作ることは私にしかできないし、ここでやれなければ一生後悔する。だからやりきれたことが嬉しい。」と日本館の展示を振り返りました。今回の展示を契機に、塩田さんは2016年のシドニービエンナーレに招聘されたそうです。「(私には)作ることしかできない。今ある力を出しきって作っていきたいです」。報告会は、そんな力強い言葉で締めくくられました。

the_key_in_the_hand_06.jpg (編集:島貫泰介 / 報告会の撮影:相川健一)





the_key_in_the_hand_07.jpg 塩田千春(しおた ちはる)
1972年大阪府生まれ。ベルリン在住。生と死という人間の根源的な問題に向き合い、「生きることとは何か」、「存在とは何か」を探求しつつ大規模なインスタレーションを中心に、立体、写真、映像など多様な手法を用いた作品を制作。神奈川県民ホールギャラリーの個展「沈黙から」(2007年)で芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。主な個展に高知県立美術館(13年)、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(12年)、カーサ・アジア(スペイン、12年)、国立国際美術館(08年)など。キエフ国際現代美術ビエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭、あいちトリエンナーレ、モスクワビエンナーレ、セビリアビエンナーレ(スペイン)、釜山ビエンナーレ(韓国)、横浜トリエンナーレほか国際展の参加多数。文化庁より文化交流使(12年)に任命され、オーストラリアを訪問。
www.chiharu-shiota.com
Portrait, Photo by Sunhi Mang, Courtesy of Chiharu Shiota

white.jpg the_key_in_the_hand_08.jpg 中野仁詞(なかの ひとし)
神奈川芸術文化財団学芸員。1968年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学大学院美学美術史学専攻前期博士課程修了。主な企画に、パフォーミング・アーツは、音楽詩劇 生田川物語-能「求塚」にもとづく(創作現代能、2004年、神奈川県立音楽堂)、アルマ・マーラーとウィーン世紀末の芸術家たち(音楽・美術、06年、同)、生誕100年ジョン・ケージ せめぎあう時間と空間(音楽・ダンス、11年、神奈川県民ホールギャラリー)。現代美術展では、塩田千春展「沈黙から」 (07年、神奈川県民ホールギャラリー)、小金沢健人展「あれとこれのあいだ」(08年、同)、「日常/場違い」展(09年、同)、「デザインの港。」浅葉克己展(09年、10年、同)、泉太郎展「こねる」(10年、同)、「日常/ワケあり」展(11年、同)、さわひらき展「Whirl」(12年、同)、「日常/オフレコ」展(14年、KAAT神奈川芸術劇場)八木良太展「サイエンス/フィクション」(14年、神奈川県民ホールギャラリー)ほか。芸術資源マネジメント研究所研究員。東海大学/女子美術大学非常勤講師。
プロフィール写真:西野正将




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