In the Real World ~ 第14回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館

トーマス・ダニエル(聖ヨセフ大学建築デザイン学部長(マカオ))



 国際交流基金(ジャパンファウンデーション)は、イタリアで開催される「ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」の国別参加部門に毎回参加し、日本館展示を主催しています。
 現在開催中の「第14回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」日本館は、太田佳代子氏をコミッショナーとし、「In the Real World: 現実のはなし~日本建築の倉から~」をテーマに展示中です(11月23日まで)
 日本館のオープニングを訪れた建築家、トーマス・ダニエル氏に、建築の歴史を振り返りながら日本館展示をレポートしていただきました。

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日本館 ©PEPPE MAISTO



1960年代→70年代:現実世界へのアプローチ
 「In the Real World」という挑発的なタイトルで(何の対語としてのrealなのか。fake[偽物]か、imaginary[想像]か、ideal[理想]か、はたまたsurreal[超現実]か?)、日本館は1970年代建築の調査とデザインに焦点を当てた。これは近年、1960年代に関心が寄せられていることに対してのカウンターバランスとなっている。60年代は、「メタボリズム建築」(丹下健三に強い影響を受けた、黒川紀章菊竹清訓槇文彦ら日本の若手建築家・都市計画家グループが開始した建築運動の名称。生物学用語で「新陳代謝」を意味する)が圧倒的に優勢な時代だった。事実、日本建築史の流れの中で、60年代と70年代は両極にあると言っていい。これは経済が一因だったが(戦後の経済成長で、日本は1968年には世界で二番目の富裕国になったが、1973年の石油ショックが不況の引き金となった)、その影響は思想に現れた。日本の60年代は、戦後の荒廃した都市を再建する必要と、そのための無限とも思われたリソースを入手するために、都市のビジョンを統合する時代だった。しかし70年代は、経済の悪化に公害や草の根の政治的抗議活動が追い打ちをかけ、それまで統一されていた日本建築界の使命感を、無数の個人の強迫観念に分裂させた。

 転換点は1970年の大阪万博だった。万博はメタボリズムの神格化された最後の晴れ舞台であり、あらゆる点で大成功を収めた ― ただ1点を除いては。一般大衆が未来の日本の都市はこうなるだろうと思い描く、実現可能なモデルという点では、メタボリズムは万博で致命傷を負ったのだ。当時の日本において、都市再開発と人口増加は、現実に差し迫った問題だった。これらに対応する建築を日本政府から求められたメタボリストたちは、空中や海上へと伸びる、過激なほど斬新なタイプの都市を提案した。カプセルの集合体やインフラの枝を広げる木、アメーバのようなプラットフォームといった技巧を凝らしたデザインはしばしば崇高で、ときに絵のように美しかった。だが足取りが軽いことは滅多になく、恐竜のごとき地響きとうなり声を上げながら、巨大な偶像のようにのろのろと歩みを進めるほうが多かった。70年代に注目を集めることになる若手建築家たちは、まるで草むらに潜む小型哺乳類のように、事態を見守りつつじっと待った。巨大なものが勝つ時代はまもなく終わることを、彼らは直感で見抜いていたのだ。建築家だけでなく一般大衆の間でも、大阪万博をきっかけに、誇大妄想的なユートピア思想に対する反動が起こり、つつましく平凡で実用本位の、理にかなったテーマが好まれるようになった。つまり建築や都市に対する、いわば「現実世界」へのアプローチである。

 多くの場合、こうした新たなアプローチに理論的な基盤を提供したのは、当時最も影響力のあった2人の建築家の作品だった。メタボリズムに真っ向から反対して60年代を過ごした篠原一男と、当初はメタボリズムと行動を共にすることもあったが、後にその野心を批判するようになった磯崎新である。具体的には、以下のような変化が起きた―― 極度にシステム化された都市計画から、内向きの個人住宅づくりへ、西洋モダニズムの言語(様式)の真似から、非西洋的な日常語(様式)の研究へ、歴史的都市構造の容赦ない破壊から、見過ごされてきた建物やオブジェの収集・記録へ、作者が都市や建物を厳格にコントロールするやり方から、設計プロセスへの利用者参加へ、工業化されたプレハブから、1件ごとに異なるセルフビルドのプロジェクトへ、声高で耳障りなマニフェストから、因習を打破する「新しい」著作物の急増へ、そして、社会や産業の合理化から、違いや個性の賛美へ。

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Photos: @Takeshi Yamagishi



まるで資料館のような日本館
 今回のビエンナーレでは、日本館は木箱の詰まった倉庫に造り替えられ、整理途中の資料館のような姿となった。展示品の多くは、日本建築や都市の歴史の痕跡を記録したり救い出したりする試みとして始まった。戦後近代化の二次的な損害――地方の深刻な環境汚染、都市部での昔、あるいは近年の無分別な破壊――に対する、遅まきながらの対応だ。これには相沢韶男が1969年から行った、昔の姿をよく留めていたある集落の現地調査が含まれる。これは最終的に直接、歴史建築保存のための法律制定につながった。その他の展示は、実際の建物の断片から、写真やスケッチでしかとらえられない、はかない現象まで多岐にわたっている。長谷川堯による、大正時代(1912~26年)の表現主義的建築の文献。藤森照信および堀勇良の建築探偵団による、東京の「失われた」近代建築の調査。一木努が解体された建物から集めた、刺激的なオブジェ(かけら)のサンプル。赤瀬川原平が撮影した、彼が「トマソン」と呼ぶ不思議なモノたちの写真。真壁智治の「アーバン・フロッタージュ」(建物や道路の表面に紙を当て、こすって表面を写し取ったもの)。真壁は「遺留品研究所」の設立メンバーの1人だった。遺留品研究所は建築家の学生集団で、60年代後半から70年代前半にかけて、捨てられた物を、都市の行動パターンを推測する「手がかり」として使った。自身を取り巻く都市で体験する現実に魅了された遺留品研究所は、ここに集まったほとんどの観察者や収集家と同じく、20世紀前半の今和次郎の作品に触発された。早稲田大学建築学科の教授だった今は、急速に近代化する日本社会の行動や生活環境を考察する学問、「考現学」を創設した。今は、1923年の関東大震災の被災者が建てたバラックの調査を行ったが、それはまもなくさまざまな風変わりなテーマに分化した。建築学に直接関係するテーマは少なかったが、それでも今らが考案した記録や図表化の技法は以後、すべての世代の日本の建築家たちのフィールドワークに影響を与えている。

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Photos: @Takeshi Yamagishi

 国内外における日常的な建物の類型学や集落のパターンの調査は建築家にとって、自らのデザインが西洋近代主義の影響を受けないようにするためのヒントにもなった。篠原一男が自分の学生だった坂本一成を助手にして行った伝統家屋の研究は、「土間の家」(1963年)、「白の家」(1966年)の妥協なき実験につながった。この2つは、伊東豊雄の「White U」、安藤忠雄の「住吉の長屋」(共に1976年)など、1970年代の閉鎖的な都会の隠れ家の先駆けとして展示されている。重点が置かれたのは、従来の居住の快適さよりも革新的な空間効果で、毛綱モン太の「反住器」(1972年)に体現されている。当時、東京大学助教授だった原広司(現在、東京大学名誉教授)も、1970年代教え子の大学院生のグループと共に世界の集落を巡り、その類型学を分析して過ごした。このことが原の初期の住宅デザインに影響を及ぼしたことを示す展示が、自邸の「反射性住居」(1974年)や、教え子である山本理顕の「山川山荘」(1977年)だ。 原は後に、集落調査から引き出したアイデアを、大規模建築プロジェクトに組み込んだ。例えば梅田スカイビル(1993年)で、これは今回の展示中、いちばん最近のプロジェクトである。1970年、大野勝彦が設計したモジュラー式のプレハブ住宅・セキスイハイムM1は、セキスイハイムが発売した。これは何千軒も売れたが、買い手の多くは建築家で、M1を自分の好きなように改造した。70年代の建築家たちは、メタボリズムが重視したテクノロジーの理性主義を強く拒絶したかもしれないが、それでも工業化された建設方法を回避するのは現実的に不可能であり、適応するしかないと理解していたのだ。石山修武も大野と共同で、モジュラー式のプレハブシステムや建物の構成部分を開発して売った。買い手の中に毛綱モン太や伊東豊雄がいたことは注目に値する。伊東は短期間だが、工業化されたカスタマイズ可能な住宅に興味を持っていた。それを示す展示が「梅が丘の家」(1982年)だ。これには伊東からル・コルビュジエへのオマージュとして、伊東が「ドミノシステム」と呼ぶ方式が使われている。石山らは、長期的なセルフビルド・プロジェクトとして自宅を建てることもした。海老原鋭二の「カラス城」(1972年)や鯨井勇の「プーライエ(鶏小屋)」(1973年)がその例だ。 公共プロジェクトの設計・施工に利用者が参加した例としては、象設計集団による埼玉県宮代町の進修館(1980年)が展示されている。

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Photos: @Takeshi Yamagishi

 各国のパヴィリオンに「近代化の吸収:1914-2014」というテーマを与えたことで、ビエンナーレのコミッショナーであるレム・コールハースがはっきり言っているが、これは、例えばスポンジに徐々に液体がしみこむような穏やかなプロセスとして理解すべきではない。むしろ「ボクサーがパンチを吸収する」のに近いという。状況としての近代性(伝統的な社会構造の崩壊)と運動としての近代主義(その状況への芸術的レスポンス)の区別については異論も多いので、ひとまず脇に置くとして、各国のパヴィリオンが全体として示したことがある。西から東へという当初の近代化の流れと、その逆の流れである応分の異国趣味が1つの集合体になり、近代主義が受け取った概念や技法という節で構成され、大なり小なりお互い影響を受けている。それらの概念や技法は、各国文化の特質によって更新され、その後、他に伝達されたり、もとの出所に反映されたりするのだ。しかし、19世紀中盤にアメリカの艦隊によって強制的に開国させられたことから、20世紀半ばの原爆や焼夷弾による攻撃まで、日本ほど近代性から強烈なパンチを浴びた国は少ない。どちらの場合も、その後に長期にわたる急速な近代化と西洋化が続いた。しかし、そうしたパンチをこれほど柔軟に吸収し、受け流し、それどころか、その衝撃を柔道のような技で方向転換した国はない。1950年代の西洋では、議論においても実際においても、巨大構造体(メガストラクチャー)という概念が際立っていた。メタボリストたちは、その概念を取り入れて統合することで、1960年代を通じて、きわめてユニークな提案を行った。1970年代日本の風変わりかつ因習打破的な建築家たちはインスピレーションの源泉を、それまでとは異なる広範な場所や時代に求め、今日の変幻自在で多元的な創造力のインキュベーターを累積的に形作ってきた。それはモダニズムにとって、代替的な進化の道筋であり、間違いなく日本固有のものでありながら、世界中の建築文化に影響を与え続けている。





in_the_real_world06.jpg トーマス・ダニエル Thomas Daniell
現在、マカオの聖ヨセフ大学で建築デザイン学部の学部長を務める。ヴィクトリア大学ウェリントンで建築学士号、京都大学で工学修士号、RMIT大学で博士号を取得した。After the Crash: Architecture in Post-Bubble Japan(2008年)、Houses and Gardens of Kyoto(2010年)等、さまざまな著書・文献を発表している。




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