杉本 博司(現代美術作家)
2012年に初演された「杉本文楽曾根崎心中」(KAAT神奈川芸術劇場)で、初めて人形浄瑠璃の懐の深さに引き込まれた人は少なくないはずだ。2013年、現代美術家・束芋の起用による映像など、さらに磨きのかかった同作品がヨーロッパの3都市(マドリード、ローマ、パリ)で再演された。日本の伝統文化や独特の死生観に馴染みのないヨーロッパの人々は、能や歌舞伎とはまた違った文楽の世界をどう受けとめたのだろうか
終演後に集められた観客のコメントには「人形と三味線と太夫が一体となって劇を創りあげる調和に、演劇の概念を覆された」という感想がありましたね。
世界中に人形劇はありますが、だいたい子供向けなんですね。ところが日本の文楽は、大人のための演劇としても、人形や舞台のモノ作りとしても、非常にクオリティが高いことに驚かれました。
杉本さんと親しい文化人、例えばアーティストのソフィ・カルや、女優のイザベル・ユペールなど、なかなかのうるさがたの方たちの感想が気になります。
イザベルは、普段は鉄仮面で、表情がぜんぜん崩れない人ですが、さすがに「私は泣いた!」と言っていました。イザベル・ユペールを泣かせた男、です。ソフィは前日が誕生日で、朝までどんちゃん騒ぎしてたようだけど、それでも来てくれました。この人もいいと言わせるのが難しい人ですが、言わせました。
海外のメディアの反応で印象に残っているものはありますか?
海外のメディアで一番反応が大きかったのがフランスのル・モンド紙で、公演初日の翌朝、一面トップの記事に出ました。経済も政治も全て飛び越えて、杉本文楽が一面トップとなるとは誰も期待していませんでした。これはル・モンド紙でも一年に1、2回あるかないかのことだそうです。
ル・モンド紙の見出しは「杉本は命のない木の人形に魂を吹き込んだ」というものでした。
魂のない物質である木偶の坊が生きたように見えるのは、実は人形のせいではなく、人間には自分の心を何かに投影して涙を流すところがあるからなんです。「人間の心とはいったい何だろうか、ということを考えさせられる契機になった」と論じた新聞もありました。人形浄瑠璃はこのように一皮反転している、不思議な演劇の形態なんですね。
言葉や文化の壁があったからこそ、むしろフラットに、総合芸術として受けとめられたのでしょうか。
文楽は定期的にヨーロッパ公演を行っていて、すでに評価も高いんですね。ただ今回は「杉本文楽」ということで、旧来の上演方法と大きく違う、新しい演出が加わっているところを特に評価してくれている人もいます。
上演前の記者会見で、人形遣いの方が「杉本さんの演出はもうとにかくやりにくかった」とおっしゃっていたのが印象的でした。照明は真っ暗だし、頭巾は被ったままだし、テンポが速くて息継ぎはしんどいし、と文句ばかりで......。
18世紀の初め、江戸時代に初演された頃の「曾根崎心中」の世界を再現したい、ということから杉本文楽は始まりました。当時は主に、朝から夕暮れまでの上演だったので照明はいらなかったんですね。夜も上演しようとすれば灯りは燭台くらいしかなかった。谷崎潤一郎の『陰影礼賛』ではないけれど、江戸時代のその雰囲気を舞台上で演出しようとすれば、おのずと薄暗い舞台になります。
闇のなかに黒子の人形遣いの群像がシルエットで浮かび上がり、バレエのようにも見える。人形遣いの方々には踊っているということを意識してくださいとお伝えしました。人形だけでなく、操っている人たちも群舞のように美しく動くことを目指しました。
伝統文化にそこまで斬り込むとは大胆ですね。舞台装置も、従来の文楽の横の動きだけでなく、縦に奥行きのある空間で、照明や映像も大胆に使われていました。
初演のときの蝶の映像はネットで入手した既成の映像だったんです。美術作家の束芋から、「何ですかあれは」、とダメだしされて、「じゃあキミやる?」と言ったら、「私」やるというので、代わりの映像を頼んだんです。初演ではほんの15秒くらいの場面ですが、仕上がりはものすごく気合いが入っていて、かなりの部分を侵略されてしまいましたね。よくよく見るといろいろな符牒があって、よく出来ています。
長年のあいだカットされていた序章の「観音廻り」の場面を、原文に忠実に復刻させた経緯を教えて下さい。
「曾根崎心中」は、1703年の初演から20年くらい上演された後、異常な心中ブームを巻き起こして上演禁止となります。それから200年以上ものあいだ、一回も上演されていません。実はこれを原文通り、昔のテンポでやったら4時間ぐらいになっちゃう。なので昭和30年に復刻したときには、しょうがない、序章を切りましょうということになったわけです。
ただ義太夫の台本は原文で残っていました。杉本文楽は原文に忠実であることが第一なんです。ただ長いと飽きられちゃうから、舌が回らないくらいのラップ調のところがあってもいいんじゃないかと提案したんです。さらに文楽では前例のない序曲を入れました。闇のなかから、べべんべんべんと太棹三味線の音が出てくる、ジミ・ヘンドリックスのギターソロのような曲をつくってほしいとお願いしました。
「観音廻り」の章は物語を理解するカギを握っているのでしょうか?
序章を復刻したのは、大事な前提が省略されて、いきなり神社のところから始まる現行曲では、2人がどうして死にに行くのかという動機付けが説明されないからなんです。「曾根崎心中」には、色恋沙汰でありながら、阿弥陀の浄土に導かれたいという確信的な願いが前提にあります。さらにその根底に深い信仰心がある。お初が常日頃から観音信仰に帰依し、観音めぐりをしていたという伏線があります。真実の心の証を立てるために死ねば、観音様がこの世で結ばれない2人をあの世で結ばせてくれる、という前提が、カットされていた原文からわかるんですね。
現代人にとっては心中自体、ぴんとこない概念です。ましてヨーロッパの人にとっては、想像力を働かせてもなかなか理解が追いつかないのでは?
今回上演した3都市はいずれもキリスト教社会です。カトリックでは自殺そのものが大罪で、人間の命は神から一時的に預かったものであり、どんな理由であろうとも、それを自分で壊してしまうことは一番の罪になる。よく「ロミオとジュリエット」と比較されますが、あれは心中ではないですね。勘違いで悲しくなって死んじゃう‥‥勘違い死。観音信仰から心中へ向かうくだりは、カトリック社会では理解されにくいところでしょうが、2人の道行きから終に死んでいく場面では皆さん、はあーっと深く引き込まれ、涙を流す人もいました。宗教を超えた何ものかがそこにはあるんですね。
2人で心中するわりには、お初と徳兵衛の感情には少し温度差がありますね。
これはね、杉本文楽独自の演出です。女性の方が完全に信仰心にどっぷりはまっていて、まだちょっと躊躇している男を導きながら、女性主導で死に向かってゆく。台本を見ると、天満屋の縁の下に徳兵衛を隠したお初が足を出して、擦り擦りするんですね。女から「おまえさん死ぬ気があるんだろうね」と、ちゃんと確認する。完全に江戸時代から女上位だったということなんですね。徳兵衛にチョイスはないんです。だまされて金はとられるわ、親方に勘当されるわ、もう死ぬしかない。お初の方は絶対死ぬほどの状況でないにも関わらず、一緒に死んで浄土へ行きましょう、というお初からの発案によって心中に向かう。江戸時代の初演当時「曾根崎心中」のヒットにより、爆発的に心中が流行ったといいます。様々な心中防止策が図られ、一番効いたのは、心中した男女の葬式を出しちゃいかんというものです。葬式も墓も出来ないんだから浄土にいけませんよ、やめた方がいいですよと。
物語とそのニュアンスを伝えるために、3都市それぞれ違う方法を試みたそうですね。
スペインでは開演前に心に響くような語りによる解説をしました。ローマでは当初、同時通訳のイヤホンガイドを配ったんですが、音漏れが上演者と観客双方の集中力を割く結果になってしまったので、後半から機器が壊れたことにして字幕もイヤホンもなしでやりました。パリでは、短いけれどキメの言葉が効いた、古風なフランス語の翻訳字幕でした。これがいちばんよかったと思います。
今後も杉本文楽の海外進出は続いていくのでしょうか。
すでに水面下では次の公演の準備が進んでいます。やはり近松の世話物になる予定です。写真や建築など、様々な分野のアートに取り組んできましたが、舞台芸術には瞬間的に成立し、公演ごとに変化していく様を、自分が観てみたいという思いがあります。古代の人々のメンタリティを検証する上でも、人間精神の重要な部分を担う芸術として、演劇が自分の仕事の核になることは間違いないですね。
杉本文楽マドリード公演2013.09.27 初日
杉本文楽ローマ公演2013.10.04
杉本文楽パリ公演2013.10.10
杉本博司
1948年東京生まれ。立教大学卒業後、1970年に渡米、1974年よりニューヨーク在住。徹底的にコンセプトを練り上げ、精緻な技術によって表現され る銀塩写真作品は世界中の美術館に収蔵されている。近年は執筆、設計へも活動の幅を広げ、2008年建築設計事務所「新素材研究所」を設立し、IZU PHOTO MUSEUM(静岡県長泉町)の内装設計他、2013年4月4日にはエントランススペースのデザインを手がけたoak omotesando(表参道)がオープン。主な著 書に『空間感』(マガジンハウス)、『苔のむすまで』『現な像』『アートの起源』(新潮社)。内外の古美術、伝統芸能に対する造詣も深く、演出を手がけた 2011年の三番叟公演『神秘域』は2013年3月にNYグッゲンハイム美術館にて再演。4月には日本凱旋公演も行われた。1988年毎日芸術賞、 2001年ハッセルブラッド国際写真賞、2009年高松宮殿下記念世界文化賞、2010年秋の紫綬褒章を受章。