高田佳岳 LIGHT UP NIPPON代表理事
松浦貴昌 NPO法人ブラストビート代表理事
2011年8月11日「LIGHT UP NIPPON」岩手県大槌町
東日本大震災から5ヵ月後の2011年8月11日、東北地方10ヶ所の被災地において、地震で亡くなった方々の鎮魂と復興への願いを込め一斉に花火を打ち上げるイベント「LIGHT UP NIPPON」が開催されました。 被災地復興に取り組む日本の若者たちのリアルな一面を海外へ伝えることを目的に、花火の打ち上げを実現するまでの挑戦を追ったドキュメンタリー映像を制作、2012年3月インドをはじめとする14カ国において、のべ22回にわたり上映会を開催しました。 また震災発生からちょうど1年にあたる2012年3月11日には、インド、メキシコ、マレーシア、韓国の4ヵ国で現地の人々が主体となって追悼の花火を打ち上げるセレモニーを行なった他、インド、韓国、メキシコに「LIGHT UP NIPPON」代表の高田佳岳氏を派遣し、上映会に合わせて講演会や現地の人々とのディスカッションが行われました。
http://www.jpf.go.jp/ij2012/jp/event/2012_no06/index.html#memorial
本記事では、東京と被災地、人と人を結び付けて東北を明るく元気にすることをめざす「LIGHT UP NIPPON」の発起人高田佳岳氏と、音楽イベントを通じた若者のエンパワーメントに取り組むNPO法人「ブラストビート」を主宰する松浦貴昌氏の対談をお届けします。「いま、日本にできることは何か?」を真正面から考えるおふたりの話を通じて、若者が持っている未知の可能性、これからの時代に適した働き方・生き方を考えました。
左:松浦貴昌氏、右:高田佳岳氏
<インドでの反応>
ー:高田さんは東日本大震災からちょうど1年目の今年3月11日に、インド・ニューデリーで「LIGHT UP NIPPON」の講演をなさいました。現地の反応はいかがでしたか?
インド・ニューデリー
高田:日本とインドで花火に対する感覚が違うことに驚きました。インドでは、お祭りや結婚式などの祝い事の際に花火を打ち上げる場合が多いので、花火に「鎮魂と復興の祈り」を込めるという日本的なコンセプトがなかなか伝わらなかった。その時に、ニューデリー日本文化センターの日本語教育専門家の方が、日本人にとっての花火の重要さを代弁してくださったんです。夏の風物詩である花火が、震災で中止せざるを得なくなったことがいかに大きな出来事だったか。それでインドの人も理解してくれました。
松浦:私も知りませんでした。今回「LIGHT UP NIPPON」のドキュメンタリー映像を拝見して、初めて花火がもともと持っていた意味について深く知ることができました。
高田:僕も昔何かで読んだ記憶があった程度だったのですが、花火師の方に教えてもらって「これだ!」と思いました。東北の方にプロジェクトの企画を持っていったときも、花火が鎮魂の意味を持つ文化であるということは、すぐに理解していただけました。これは日本人ならではの感覚だと思います。
インドの講演では、花火の映像を見ているインドの人たちの様子が面白くて、彼らの表情をずっと観察していました。途中まではなんてことはないんですが、花火が打ち上がるクライマックスが近づくにつれて、みんなどんどんテンションが高まっていって。打ち上がった瞬間は、みんな良い顔をしていました。
ー:花火を見た後の反応はいかがでしたか?
高田:特に予算のことを聞かれました。花火の打ち上げにどのくらいお金と時間がかかったとか、協賛金はどのくらい集めたとか。
ー:やっぱりインドは数字なんですね(笑)。
高田:彼らの金銭感覚からすると、とんでもない額が集まっているわけで、それを花火に使ってしまうことに驚いていました。食糧支援や住宅を建てるとか、できることは他にもあるはずだという意見もありましたね。
ー:世界中で地震や津波の被害が報道されましたから、そう思ったのかもしれないですね。
高田:でも、日本で1億円集めたとしても住宅は10個ぐらいしか建てられないじゃないですか。10世帯が嬉しいか、1万人が30分楽しい気持ちになるか。そのどっちが良いだろうと考えると、僕は後者を選びたかった。
ー:インドの後は、韓国とメキシコでも講演をされました。他の国々の反応はいかがでしたか?
メキシコでの講演
高田:韓国は、日本との戦争で自分たちの文化が損なわれた経験を持っていますから、文化を大切にするのは素晴らしいと言っていました。地理的にも韓国は日本に近いですし、若い人たちと話していても感覚が近かった。メキシコはやっぱりラテンという感じで、「みんなが笑顔になっているのがいいね!」としきりに言っていました。
ー:ニューデリー日本文化センターでは、東日本大震災からちょうど1年を迎えた2012年3月11日に、市内の小学生グループや若者たちが参加して追悼の花火を打ち上げるセレモニーを行ないましたね。
高田:規模自体は小さかったんですが、インドは凄かったです。
打ち上げに使った花火は三号玉と言って、日本では購入に認可が必要ですが、インドのマーケットでは誰でも買えるんです。最初に運転手さんが買って来てくれたのも打ち上げ60連発とかでした。こんなの日本で見た事ないよ!っていう(笑)
ー:参加者は、花びらでつくった日本列島の地図に1人ずつ蝋燭の灯をともし、祈りを捧げていました。
高田:インドの小学生たちは普段派手な花火に慣れているので、花火を打ち上げた後、「どうして1発なの?」と不思議そうな顔をしていました(笑)。
ニューデリーの小学生達とのセレモニー
<活動の原動力は?>
ー:松浦さんが「ブラストビート」を始めたきっかけをお聞かせ下さい。
松浦:私は16才から26才までずっとバンドで音楽活動をやっていたんです。頭はモヒカン、鼻やアゴや唇にもピアスをつけているような時代もありました。それで、高校時代から音楽イベントなども自分たちで企画していたんです。場所を探して、予算を立てて、ポスターやチケットも手づくりして学校中売り歩く、ということを全てやっていました。
ー:松浦さんは「ブラストビート」の代表理事だけでなく、マーケティング会社も経営されています。その原点が音楽活動だったんですね。
ソウルでのライブ
松浦:音楽を通じて、やる気があれば何でもできるっていう根拠のない自信を持てたんですよね。それが原体験です。
実際に「ブラストビート」を日本で立ち上げることになったきっかけは、マーケティングの仕事を始めた後です。アイルランド人の音楽プロデューサーであるロバート・スティーブンソンが創設した「ブラストビート」の活動を紹介しているのをテレビ番組で見たんです。一瞬で目が釘付けになってしまいました。イギリスの子どもたちがこんな変わったことをしています、みたいな、ごく普通のドキュメンタリーなんですよ。でも、悲しくもないのに号泣してしまった。見終わった後に、大袈裟なんですけど「これはきっと神の啓示だ」と、思ったんです。「自分が日本で『ブラストビート』を立ち上げるんだ」と。
それでロバートにメールを送ったんです。「日本でやりたい。断られたら、まったく同じものを日本で勝手に立ち上げるからね」って脅し文句までつけて(笑)。そうしたら、すぐに彼から反応が返ってきて、翌月に日本に行くから相談しようと。その後コミュニケーションを重ねて「お前に日本の代表を任せるよ」って言ってもらったのが最初です。
高田:モチベーションが凄いですね。話が一気に広がっていって。
松浦:入り込んでしまうと、一気に突っ走ってしまう性格なんです。
ー:マーケティングの仕事も並行してやってらっしゃったんですか?
松浦:はい。マーケティングの会社を経営しながら、年に3、4回はカンボジアに行って途上国の支援をするという活動をしていました。カンボジアはポル・ポト政権時代に文化的な土台が破壊されてしまって、その影響が現在も残っています。孤児院で絵本の読み聞かせをして、子ども達に本を読む習慣を根付かせる活動をしていました。
ー:ありがとうございます。では、高田さんが「LIGHT UP NIPPON」を始めたきっかけを伺えますか。
高田:きっかけは、やっぱり東日本大震災ですね。
ー:震災時はどちらにいらっしゃったんですか?
高田:東京の日本橋です。大勢の人が外に避難する様子が見えて、僕がいるビルのガラスにもヒビが入り始めて、これは尋常じゃないと思いました。でも本当に衝撃だったのは津波の映像でした。僕は東京水産大学で魚類学とか海のほ乳類の勉強をしていたんです。だから津波を見たときに、大変なことが起きていることがよくわかった。それから岩手県の大槌町で暮らしていた時期があって、町の友人たちのことを思い出しました。
ー:大槌町は津波で大きな被害を受けた町です。いつ頃暮らしていらっしゃったんですか?
高田:大学院に通っていた時です。3ヶ月ぐらいダイビングをしたり、漁師さんに船に乗せてもらったりしていました。今回の津波で漁師の友だちは亡くなってしまった人もいたのですが、無事だった人たちもいて、じゃあこのタイミングで僕に何ができるだろうかということを真剣に考えました。
それで思ったのは、「日本が変わるかもしれない」ということです。言い方は悪いですけど、これまでぬくぬくと生きて来た日本人が、はじめて死を身近に感じた。そういった体験をした人は大きく変わることができるはずで、それは同時に日本も変われるということだと思ったんです。それで、僕のできることを探し始めました。自分にできるのはエンターテインメントなので、何か気が晴れるようなことをやって、人の笑顔を見たいな、と。
ー:それが「LIGHT UP NIPPON」の花火に繋がったんですね。
高田:ええ。震災の影響で2011年の「東京湾大華火祭」が中止になったのを知って「それを東北で打ち上げればいいじゃないか!」と思った。
最初はお金をかけずにできると思ったんです。打ち上げる予定だった花火は宙に浮いた状態だし、花火師だって打ち上げたい気持ちがあるわけだから。それで、話をしに行ったんですが、まあ当然「ふざけるな。金はどうするんだ」という反応でした(笑)。でも、できるという確信はあったんですよね。思い込みって大切だなあと思いますけど、実際に実現できた(笑)。
松浦:「LIGHT UP NIPPON」の過程で、漁師さんたちともコミュニケーションはされたんですか?
高田:僕は大槌町のことを知っているから、彼らと同じ目線で海について語れるんですよ。「鮭とか獲れなくてさ〜」って漁師さんが言っていても、「そうなんですか。大変ですね」だけじゃなくて、「この時期は鮭の季節ですよね。でも沖のあの辺りだったら獲れるんじゃないですか?」みたいなことも言えるわけです。
松浦:現場を知っていて、共感できることって大切ですよね。やっぱりコミュニケーションなんだ。
<被災地にも選択肢を与えたい>
ー:震災以降、仕事をしながらボランティアや他の仕事を行う「パラレルキャリア」「プロボノ(職能を生かしたボランティア)」が注目を集めています。高田さんと松浦さんはその先駆けだと思うのですが、最近の動向をどのように見てらっしゃいますか?
高田:じつは、パラレルキャリアって言葉をさっきはじめて知ったんですよ。松浦さんはどうですか?
松浦:プロボノの方がよく聞きますね。パラレルキャリアの場合は、ボランティアっていうより、複数の仕事を持っているという意味に近い気がします。
ー:一般的には、本業が持つ人たちが、アフターファイブにボランティアなどの活動をすることを指します。特に震災後、自分がやりたいことに気づいた人たちが増加したことから、注目されています。
松浦:2009年に日本で「ブラストビート」を立ち上げてからは、周囲の仲間たちもいわゆるパラレルキャリア型の人ばかりだったので、新しい動向という感じはないです。ただ、震災以降に「加速した」というイメージはあります。
高田:僕はボランティアって言葉、ちょっと苦手なんですよね。「東北の被災地に行って花火を打ち上げるなんて、すごいボランティアをしていますね」って、たまに言われるんです。でも、ボランティアをやっているわけじゃないんですよ。
僕は笑っている子どもを見るのが好きなんです。泣いている子を見ているよりは、笑っている子を見たいから花火を打ち上げただけ。もし被災地支援のために何かをするんだったら、毎月10万円でも20万円でも寄付したほうがよほど役に立つと思います。
ですから、僕は広告代理店の仕事も「LIGHT UP NIPPON」の活動もどちらも本業なんです。どっちが大切、とかじゃなくて、全部好きでやっているだけですね。
松浦:私もそうですね。興味の赴くままに色々なプロジェクトに関わっていく。「ブラストビート」の代表である以前に、個人なんですよ。自分の意志なんです。
高田:そうですよね!
松浦:そういう意味では、若者の方が自由に発想できるんじゃないかと思います。年齢を重ねると、住宅ローンを抱えたり、家族を養わないといけなかったりと、物理的な理由で活動が制限されます。
一概には言えないけれど若者の方が身軽で、色々な選択肢を持てる。だからボランティアっていう文脈だけでなく、学生だけど起業してみよう、プロジェクトに関わってみよう、という人も増えて来ていると思います。
ー:そういった若者が増えている理由は何だと思いますか?
松浦:自分らしさを大切にしたいからじゃないでしょうか。もちろんどの時代にも共通の願いだと思いますが、震災が起きたことで多様な働き方のロールモデルが現れた。選択肢が増えたんだと思います。
高田:震災が良い気付きになったってことですね。
「LIGHT UP NIPPON」の過程で、すごく感動したエピソードがあるんです。ドキュメンタリー映像にも収録されていますが、被災した若者のひとりが自分の家が流れていくのを見て、日々のつまらない人生が変わっていくと思ったって言っているんです。
彼は凄く燃えたぎっていて、震災後に自分がやりたいことを始めた。それは音楽なんですけど、You Tubeで自分のパフォーマンスを発表するようになったんです。残念ながら全然流行らないんだけど面白くって。とりあえず僕たちはひたすら見て、再生回数を増やすことに協力してるんです(笑)。
松浦:いい話ですね。
高田:でも、結局その子は元の仕事に戻って行ったんですね。生活をすることを考えると仕事に戻るしかなかった。最近、彼の声が聞きたくなって「元気?」って電話したら「いやー、なんか元通りになってしまって」って落ち込んでいて......。
松浦:もったいないですよね。そこで燃えたぎったものが元通りになっちゃうのは。
高田:復興はもちろん大事ですが、生き方を変えるチャンスだったかもしれないものが、また元に戻ってしまうことは悲しい。
東京の人間はいいんですよ。何も壊れていないし、お金もあるし、時間もある。パラレルキャリアのような選択肢があるけれど、被災した人たちには選択肢がない。震災で一番大きな変化に気づいたはずの人たちが、変えるチャンスを失っていくのはいやなんです。だから、松浦さんが「ブラストビート」を東北沿岸部でやるっておっしゃっていたのは最高だって思います。
松浦:諦めてほしくないんですよね。自分にも世の中を変えられるかもしれない、一石投じられるかもしれない、っていう感覚を忘れないでほしい。
東北で「ブラストビート」を広げようとしているのも、新しい雇用をつくりだしてあげるんじゃなくて、自分で仕事をつくリ出せる人を増やしたいと思ったからなんです。日本は都市部に雇用が集中していますけど、地元で仕事をしたい、地元にいたいっていう人はたくさんいるんです。そういう人に対して、地元で仕事ができて、それを自分でつくれるんだっていう自信を持たせてあげたい。
高田:がんばりましょう。くすぶっている人たちがたくさんいますよ!
<これからの目標は?>
ー:最後に、活動を続けているモチベーションを伺えますか?
松浦:モチベーションに上り下がりはないです。常にやりたいことやっているだけですから。被災地三県である宮城、岩手、福島でブラストビートを立ち上げることも含めて......現地の人たちが立ち上げてくれたんですけど、今年はそれをしっかり根付かせていきたいです。大好きな町に住みながら、仕事がつくっていける、そして町もつくっていける。そういう意志を持った若者を増やしていく活動に全力で取り組んでいきます。
高田:僕もまったくそのとおりです。「LIGHT UP NIPPON」は、そもそも「日本を明るくしたい」という想いで始めたものなので、そろそろ花火以外のことをやっていきたい。
今度は「海」がテーマ。僕は、海や魚や、海に関わっている人たちが好きだから、海を支援していきたいと思っています。僕には昔から夢があって、海から教育を発信したいんです。海に潜って魚を獲ったり、自分で魚をさばいたりして、人間らしい生き方を示したい。僕が校長先生になってね(笑)。
だから、ひょっとすると5年後に僕は花火に関わってないんじゃないでしょうか。立ち上げはものすごく大変でしたけど、一度フレームをつくってしまえば案外簡単にできる。今いるスタッフに引き継いでもらって、僕はまた別の方向から日本を元気にしてきたい。
花火はこれからも打ち上がり続ける。そして僕は海に帰る。これですね(笑)。
松浦:海、良いですよね。私も魚が好きなので関わりたいです。
高田:いっしょにやりましょう! 「ブラストビート」の「ビート」の部分を何か海の言葉に変えて(笑)。
松浦:「ブラストビート」じゃなくても、自分1人でも参加したいですね。ぜひやりましょう!
photo by Kenichi Aikawa
「LIGHT UP NIPPON」28分間ドキュメンタリー映像(英語版)が国際交流基金ホームページ「動画スクエア」でご覧頂けるようになりました。
「LIGHT UP NIPPON」ドキュメンタリー映像(28分間・英語ナレーション/字幕入り)
高田佳岳
LIGHT UP NIPPON代表理事
http://lightupnippon.jp/
1977生まれ 東京水産大学、東京大学大学院海洋研究所卒業
在学中、岩手県大槌町の研究センターに所属
スキューバダイビングのインストラクターを経て現在都内の広告会社に勤務。、東北地方10ヶ所の被災地において、地震で亡くなった方々の鎮魂のために一斉に花火を打ち上げるイベント「LIGHT UP NIPPON」では6千万以上の寄付金・協賛金を集める。
松浦貴昌
NPO法人ブラストビート代表理事
http://blastbeat.jp/
1978年生まれ16歳~26歳までバンドマン(経験職種は30以上)。その後14ヶ月間ビジネスを勉強し、マーケティング会社を立ち上げる。その傍らでNGO・国際協力に携わりながら、2009年より「音楽×起業×社会貢献」を通じて若い人材を育てる体験型教育プログラムを展開する、NPO法人ブラストビートを立ち上げる。2011年 日韓ブラストビート・プロジェクトを実施。
http://www.jpf.go.jp/j/culture/new/sinjidai/010.html
日韓ブラストビートの映像
http://www.jpf.go.jp/video/index.html