日本留学、語学スクール経営、動画配信を経て 目標は、世界の貧困、機会の不平等と戦う仕事 サインブヤン オドバヤルさん寄稿

2024.10.30
【特集082】

サインブヤン・オドバヤル氏サインブヤン・オドバヤル
(語学スクール代表 / 同時通訳家 / インフルエンサー)

日本に来てから13年! 私の名前はサインブヤン・オドバヤル。皆にはオディと愛称されており、星という意味である。現在、語学スクール経営、大学教員、同時通訳家、インフルエンサーとして活動している。趣味は動画編集、語学学習、国際交流 !現在、6番目の言語に挑戦中!

講演の様子

努力というものには、持続が一番重要

幼い頃から世界は不平等だと感じていた。世界の教育の格差による機会の不平等をどうにかしたいと考えた。モンゴルの首都ウランバートル市の周辺部に生まれた。物心ついた時には、兄、祖母と3人暮らしをしていた。兄は3歳上で、祖母は語学の先生だった。母子家庭で母が海外勤務、5歳から昼間は祖母、兄とで家庭料理の移動販売、夜は勉強をしていた。

努力というものには、持続が一番重要であることを痛感した。7歳になり、小学校のタイミングで町の中心部に引っ越すと、市場で古着を売るようになった。お客さんがいないときは、また勉強をしていた。小1は普通の学校で、優等生だった。クラス委員長を務めた。数学のチャンピオンに表彰された。けれど、努力を緩めるとすぐに追いつかれそうになっていた。

苦労は苦労と認識できない小さいうちでよかった。小2から転校し、中国語を習った。さらに、小3からより中国語に特化した学校の小5に飛び級した。授業に追いつくのに必死だった。周りは、中国語がペラペラだった。入った当時の私の中国語力は、挨拶程度だった。中学校卒業頃には、だいぶ話せるようになった気がした。いまだに、ネット友等と中国語を話すと、懐かしく感じる。中国語の覚え方はスパルタだった。毎日、1~2ページのテキストを丸暗記していた。深夜を回っても、宿題をしていた。

留学を実現できたのは、自分だけの聖書という相棒があったから

自分の人生は、自分のものだと学んだ。全力疾走すると、結果は出るとわかった。日本留学を心に決めた。アニメ等で憧れていたし、道徳心の高い日本社会で勉強することによって、道徳をさらに吸収できるのではないかと考えた。

高校は日本式高校の新モンゴル高等学校に入学した。倍率の高い高校でもあり、何より卒業時にスポンサー奨学金のチャンスがある夢の学校だった。高校卒業後、返済不要の奨学金で日本の大学に受かり、留学が決まった。

来日までの生活は、受験勉強に追われていたため、これといった思い出はあまり思い出せないが、夏休み中の日本語スピーチ大会、フットサル部の日本人のコーチ、そしてなにより日本留学試験の数学Ⅰで当年 世界1位となったこと等が思い浮かぶ。

そこまで達成できた理由は、相棒があったからである。自分だけの聖書を作った。厚めのノートを用意し、自己啓発書、成功者の講演、自分の発見等から、一生守っていきたい言葉を集めていった。毎朝、聖書を振り返る時間を作って、寝る前に新たな行を足していった。高校だけで、100ページになっていた。

日本留学から幅広い体験をし、多くのことを学んだ

日本語の学習にはコツがあった。中国語を小中で習っていたため、日本語はそこまで難しくなかった。漢字が同じものが多く、音読みもよく似ていた。語順もモンゴル語に近かったのも幸いだった。アドバンテージがあったものの、日本留学は世界レベルで競争しなければならない。日本語能力試験2級ぐらいの知識が必要だった。

私がよく使っていた方法は、下記の3つだ。

  1. ①新しい単語を集め、よく日常で言いそうな文を家で作り、次の日に必ずその文を意図的に使う。
  2. ②漢字をなるべく分解し、1つの漢字のなかのパーツで、その由来をイメージするか、新たな物語を作る。
  3. ③アニメの台詞や歌を完コピーし、発音や聴解力を鍛えた。

T型学習が重要だと思った。留学のための勉強はI型で一本道だった。日本留学からは、幅広い体験をし、多くのことを学んだ。

日本には、2011年2月1日に到着した。そこから、大学の面接等をし、日本留学の準備として、仙台市に合宿していた。そこで、東日本大震災を体験した。人生初の地震体験の規模が大き過ぎて、ショックを受けた。

5月からは、無事大学に入れた。福島大学の経済経営学類に入学し、企業経営専攻に進んだ。英会話研究会のESSサークル等をとおして、はじめての日本人の友達がいっぱいできた。年1の英語劇発表会ではシェイクスピアの「ベニスの商人」を発表、主役の一人であるバッサニオ役を演じた。2年生に上がると、全国学生英語スピーチ大会等に興味を持ち、全国2位まで登れた。3年生になると、大学の制度を利用し、テキサス州、ヒューストン市役所でインターンをした。将来に繋がる経験をしたかったからアルバイトは英会話講師をしていた。大学卒業が決まり、おまけに英語副専攻を取得できた。

マイクに向かって話すオドバヤル氏

「日本に恩返しをしたい」と、語学教育に力を注ぐ

学べるうちに学んでよかった。就職も考えたが、最終的には大学院に進学した。在学中に、オーストラリアのクイーンズランド大学に短期留学をし、世界一流の英語の授業を生で研究できるチャンスを手に入れた。

その後、語学スクールを起業し、日本人に英語を教えていた。高校生の時に、学んだ記憶術を英単語の暗記術に改造し、スパイ育成に使われた軍隊式の方法で文法とスピーキングを教えていった。

日本に恩返しをしたかった。奨学金で大学と大学院に通えたので、今度は得意の英語を日本人に届け、地方の語学水準を上げたいと思った。卒業1年後の2018年には、とある大学で非常勤英会話・英語講師を務めることになった。一遍に何百人に英語教育が届けられるチャンスだったので、非常に嬉しく思った。

正面を向いて話すオドバヤル氏

日本語学習の手助けをするべく、自分のチャンネルを開設

一方で、日本に住む外国人もとても苦労していることに気づいた。日本人と友達になれない、コミュニティーに入れない海外の人が非常に多かった。5年契約で来ても、寂しくて1年で帰国していった。それを阻止するために、日本人と海外の人が言語交換できる「Meet-upイベント」を日本人の親友と一緒に作っていった。毎月30名ほど(うち10名外国人)を集めて5、6グループにし、15分ずつ日本語と英語を切り替えきりかえ 、30分ずつでグループを交ぜる2時間のイベントだ。英語オンリーのテーブルや、日本語オンリーのグループもあった。話題が尽きるのを防ぐため、クイズゲーム等をテーブルに置く等工夫していた。最後に集合写真をとったり、仲よくなった人と連絡先を交換したり、二次会でカフェでお茶をしたりした。数年に渡り 、35か国累計2000名の方が参加してくれた。

全日本「外国人による日本語弁論大会」が行われた。「我が恩師、日本」というタイトルで、日本留学をとおして、自分がどう成長したかについて話した。運営側のYouTubeチャンネルで自分の動画がバズり、沢山のモンゴル人から質問が来るようになった。

オドバヤル氏のFacebookトップページ

Facebookのキャプチャ

弁論大会の日本語スピーチが1万再生を超えたのをきっかけに、皆の日本語学習の手助けをしたいと思い、自分のチャンネルを開設した。現在2万7千人のフォロワーができ、35万回閲覧されるようになった。日本語や英語の学び方について動画配信をしている。最初は日本語や英語の学び方、発音の注意点、良く使う日常単語、諺、学ぶためのよい方法、無料教材の紹介等を配信した。評価はとてもよく350,000 350Kもの人が見て、よいコメントばかり残している。350,000 3 50Kの中でネガティブコメントは3、4名程度だ。オンライン講座をモンゴル人向けに作ってくださいという要望がしょっちゅう来ていた。350,000350Kはモンゴル人口の10%の人と等しい数 で、町なかを歩くと挨拶をしてくれることがあった。人のためになる趣味を持てたことに、自分も嬉しくなった。

私は死ぬまでの計画を立てている。現在は、丁度真ん中の同時通訳と大学教員あたりにいる。この先は、より多くの人に教育を届けるために、芸能活動をし、活動の幅を広げたいと思う。最終的には、国連のような世界の貧困、機会の不平等と戦う仕事をする目標を持っている。

サインブヤン・オドバヤル氏

サインブヤン・オドバヤル
モンゴル出身、来日13年。リングイスト語学スクール代表。大学教員、同時通訳家、インフルエンサーとして活動中。Facebookに自分のチャンネルを開設し、現在フォロワー2万7千人。趣味は動画編集、語学学習、国際交流 。

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