ASEANにおける人的交流とエンパワーメント <4>
国際交流基金理事 佐藤百合寄稿
「日本ASEAN関係のこれまで、これから ~人的交流を中心に」

2024.5.2
【特集081】


特集「ASEANにおける人的交流とエンパワーメント」(特集概要はこちら)

「ASEANにおける人的交流とエンパワーメント」という本特集のテーマについて、アジア経済研究所にてインドネシアを中心とする東南アジア研究、特に経済・産業・企業、政治経済分析に携わってきた、国際交流基金理事の佐藤百合による寄稿をお届けします。

「日本ASEAN関係のこれまで、これから ~人的交流を中心に」

佐藤 百合(国際交流基金 理事)

2023年は日本ASEAN友好協力50周年だった。これを記念して、数多くの日本ASEAN関係イベントが年間を通して行われた。12月には東京で日ASEAN特別首脳会議が開催され、そこで「日本ASEAN友好協力に関する共同ビジョン・ステートメント:信頼のパートナー」が採択された。そのステートメントでは、(1)世代を超えた心と心のパートナー、(2)未来の経済・社会を共創するパートナー、(3)平和と安定のためのパートナー、という三つの柱が立てられ、それぞれの柱の下に次の10年に向けた実施計画がまとめられた1

ちょうど10年前の2013年にも、日本ASEAN友好協力40周年を記念した特別首脳会議が開催され、同様のビジョン・ステートメントが採択されている。この2013年版は、(1)平和と安定のパートナー、(2)繁栄のためのパートナー、(3)より良い暮らしのためのパートナー、(4)心と心のパートナー、の4本柱の構成になっていた2。これと比べると、10年を経た2023年には、「心と心のパートナー」として表現される人的交流が日本ASEAN間の信頼の基盤として前面に立てられ、日本とASEANに共通する経済や社会の課題に共に創造的に取り組もうという姿勢が打ち出されている、と解釈することができるだろう。

日本ASEAN関係が半世紀という歴史の節目を迎えた機会に、改めて両者のこれまでの関係を振り返り、これからのあるべき姿を考えることは意味のあることだろう。ここでは、人的交流という観点を意識しながら、日本ASEAN関係の過去、現在、近未来について考えてみたい。


1.日本ASEAN関係の始まりと人的交流

「日本ASEAN友好協力」の起点とされる1973年に何があったのか、はっきり答えられる人はそれほど多くないだろう。しかも、1973年から数え起こして周年記念を祝うという発想は、実は2013年の40周年の時に初めて現れたのである。2003年に初の日ASEAN特別首脳会議が開催されたが、それは30周年ゆえの「特別」ではなく、ASEAN全首脳が初めてASEAN域外国で一堂に会したという意味での「特別」だった。この会議の成果文書には「30年有余年に及ぶ日本とASEANの友好協力関係」と記されており、関係の起点がそれほど明確に意識されていなかった様子が表れている3

1973年当時、日本とASEANとの間に起きていたのは貿易摩擦だった。天然ゴムの世界的な輸出拠点であるASEAN加盟国にとって、日本からの合成ゴムの輸出急拡大が深刻な脅威になっていた。マレーシアの官僚たちがASEANとして動くように働きかけ、ASEANの申入れで1973年に日本とASEANの閣僚会合が東京で開かれ、そこで合成ゴムに関する日本ASEANフォーラムを設置することが決まった。これが現在、両者関係の起点とされているできごとである。その事務レベルのフォーラムが翌1974年2~3月に2回開催され、当初消極的だった日本側は合成ゴム輸出の適正化と天然ゴム活用への協力に合意するにいたったという4。だが実際には、貿易摩擦にとどまらないより広範な経済社会的な摩擦が1970年代初めから各国で起きていた。その摩擦は1972年のタイでの日本商品不買運動、1974年1月の田中角栄首相訪問時のインドネシアやタイでの反日暴動となって噴出した。背後には、日本の輸出・投資・援助の急拡大を、軍事侵略に代わる「経済侵略」(タイ学生運動指導者テイラユット)と見なす見方があり、日本批判の声はマレーシア、シンガポール、南ベトナムなどにもアジア学生会議や報道を通じて広がっていた5

こうした日本不信の流れがはっきりと変化したのが1977年である。この年の8月マレーシアで開催された第2回ASEAN首脳会議に日豪ニュージーランドの3首脳が招かれ、福田赳夫首相が出席、初の日ASEAN首脳会議がもたれたこと、その前後の3月と11月に日本ASEANフォーラムが開かれたこと、そして福田首相歴訪最後の国フィリピンで以後「福田ドクトリン」と呼ばれることになる日本の東南アジア外交基本方針が発表されたこと、が歴史的画期になった。基本方針は、日本は「軍国主義を廃し東南アジアと世界の平和と繁栄に貢献する」「『心と心』の理解にもとづいた相互信頼関係を構築する」「東南アジアのより良い未来に向けてASEAN諸国との連帯と強靭性をもった対等な協力関係(equal partnership)を保持する」の三つである6。福田首相の帰国を見送ったマルコス大統領は、東南アジアにおける日本の役割に関する首相の保証は、地域に関する日本の構想についてのすべての懸念を払拭した、と語った7。ASEAN側は、前年の1976年に、発足から9年目にして初めてASEAN首脳会議を開催し、事務局をジャカルタに開設するなど、外交主体たり得る体制を整えたところだった。日本側では、アメリカに加え東南アジアでも対日摩擦が深刻化するにおよんで、たとえば1974年の中央教育審議会答申「教育・学術・文化における国際交流について」8が明記するように「従来我が国の国際交流諸活動がしばしば政治・経済の交流を中心として展開されてきたことを、深く反省しなければならない」という認識のもと「人物等の交流事業の拡大」が中心的な課題として浮上してきていた。

こうして戦後の日本の経済的な成功が、対外的には日本への不信と摩擦を引き起こし、それを是正すべく人的交流が重要な外交テーマとして登場した。この変化の舞台のひとつが東南アジアであり、時同じくしてASEANが外交主体として立ち上がり、そのタイミングで日本は「心と心」というキーワードを提起した。「心と心」の関係の具現化といえる人的交流はその後、1983年に中曽根政権が提唱したASEAN諸国の青年約4000人を日本に招く「21世紀のための友情計画」、1987年の竹下政権による「日本アセアン総合交流計画」、1994年の村山政権による「平和友好交流計画」、2007年から始まった「21世紀東アジア青少年大交流計画(JENESYS)」などへとつながっていった。


2.国際交流基金のASEAN事業

日本とASEANとの人的交流の展開のなかで、国際文化交流を専門とする唯一の公的機関である国際交流基金(The Japan Foundation、以下JF)は一定の役割を果たし続けてきた。1972年にJFが設立されたこと自体が、上にみた東南アジアをめぐる情勢と無縁ではない。JF設立準備会議の地域部会(中山伊知郎座長)は「まずアメリカと東南アジアに最重点を置いたプロジェクトを積極的に考えるべき」としている9。実際、設立間もない1974年に、まずバンコクとジャカルタにアジア初の事務所が開設されている。

JFのASEAN事業を貫く考え方に、対等な立場で双方向の交流を行う、というものがある。JF設立時の根拠法である1972年国際交流基金法には、次のような附帯決議が付されていた。「国際文化交流に関する政府の基本姿勢としては、わが国に対する諸外国の理解を深めることだけではなく、わが国民の諸外国に対する理解を深めることも同様にきわめて重要であることを特に留意すること」10。この付帯決議のいう双方向性が、対象地域を特定したうえで明確に実現されたのが、先述の政府の「日本アセアン総合交流計画」を受けて1990年にJF内に開設されたアセアン文化センターだった、と認識されている11。JFは、それ以前にも、アジア伝統芸能の交流(1976~88)、東南アジアの映画を初めて本格的に日本に紹介した南アジア映画祭(1982)などによって、日本に東南アジア文化を紹介してきたが、アセアン文化センター(1990~95)は双方向の交流をより大規模かつ継続的に行う場となった。さらに、政府の「平和友好交流計画」を受けて同センターがアジアセンター(1995~2003)へと発展的に改組されると、双方向の文化紹介から一歩進んで、人と人との「対話」「共同」「協働」が目的とされた。たとえば、日本を含む6か国の演劇人が結集し、シェークスピアを素材に2年をかけて新たに創作した「リア」は日本、ASEAN各国のほか欧州や豪州でも公演され、国際共同制作の金字塔となった。JFと国際文化会館とが共催したアジア・リーダーシップ・フェロー・プログラムは、ASEANを中心にアジア域内の各界中堅リーダーを招き、2~3か月日本に滞在して日本の専門家と共に共通課題の討議やフィールド視察を行うもので、この事業からその後多くの各国有力リーダーが輩出され、同時に国境を越えた人的ネットワークが生まれることになった12

JFが再びASEANに焦点を当てた事業体制を組むのは2014年からである。2013年の日本ASEAN友好協力40周年の特別首脳会議で「文化のWA(和・環・輪)プロジェクト~知り合うアジア~」をJFが行うことが発表され、2014年にJF内にアジアセンターが復活した。2012年末に再登板した安倍晋三首相は最初の外遊先に東南アジア3か国を選んでおり、時の政権のASEAN重視姿勢がこの事業組成を後押しした。そして10年後の2023年、日本ASEAN50周年の特別首脳会議においても「次世代共創パートナーシップ -文化のWA2.0-」を次の10年間引き続きJFが行うことが発表された。今回はアジアセンターという特別部署ではなく、文化芸術、日本語教育、日本研究・国際対話というJFの3本柱を横断してすべての部署で、つまりJF総体として、日本ASEAN交流事業に取り組む体制がとられた。JFのASEAN事業の理念は一貫して双方向交流の拡大・深化にあるが、2014年以降は「協働」さらには「共創」へと重点の置きどころが進化してきている。

2014年から現在、そして今後に向けてのJFのASEAN事業は大きく二つの領域から成っている。一つは文化・人的交流、もう一つは日本語パートナーズである。一つ目の文化・人的交流は、広範な内容を含んでいる。ASEAN各国のメンバーと日本人とが混ざり合って共同作業に取り組むタイプの活動は、スポーツ、音楽、ダンス、舞台芸術、ドキュメンタリー映画など、さまざまな分野におよぶ。たとえば、ASIAN ELEVENと名づけられたサッカー交流では、ASEAN各国、ティモール・レステと日本との間でまずコーチ、選手、リーグ関係者600名以上が相互交流し、次に各国選手から成る東南アジア初の公式選抜チームが作られ、日本は福島でU-18の試合が、タイでは東南アジア+日本の混合チームとタイとのU-16の試合が行われ、サッカー好きの多いASEANで人気の高い事業になった13


asean_sato_01.jpg 東南アジアの11か国から選抜された18歳以下の男子選手たちによる「ASIAN ELEVEN」チーム

また、ASEANと日本に共通する課題を取り上げ、各国のメンバーが集まって共に考え学び合うタイプの活動もある。その例のひとつが「防災」に着目したHANDs!(Hope and Dreams)Projectである。東南アジアと日本は地震、津波、台風、火山噴火などの災害が多いという共通点がある。このプロジェクトでは、まず各国からの約100名が各国と日本で被災地の現場を視察しながら防災教育の若手リーダーとなるべく研修活動を続け、次に彼らが中心になって小中学校での避難訓練などの防災活動を各国各地で展開するという形で、全体を通じて9万人の人々に学びの輪が広がった14。これとは逆に、必ずしも域内一円に共通性がなくても、だからこそ意味をもつ学び合いもある。たとえば、「イスラーム」に注目すると、ムスリム(イスラーム教徒)が多数派であるインドネシア、マレーシア、ブルネイから少数派であるフィリピンやタイ、カンボジアまでASEAN域内にも大きな幅がある。一方、日本ではイスラームはあまり身近な存在になっていない。TAMU(Talk with Muslims)プロジェクトでは、ASEAN各国のムスリム青年が日本に集い、各地で日本の大学生などと対話を行うことで、日本におけるイスラームへの理解を深めるとともに東南アジアのムスリムたちにとってもお互いに多くの気づきを得る機会になった15


asean_sato_02.jpg 「HANDs! Project」で学んだフェロー達による協働プロジェクト「KIDSUP」の様子(実施地:インドネシア)

二つ目の日本語パートナーズは、大学生からシニアまで一般の日本人がASEAN各国各地に10か月ほど滞在し、原則として1人1校ずつ現地の中学高校などに入って日本語教師のアシスタント、生徒たちのパートナーとなる事業で、2014年からの10年間に3000名以上が派遣された16。人の流れとしては双方向ではないが、インパクトは双方向である。現地社会は貴重なネイティブ日本人である日本語パートナーズを歓迎する。日本語パートナーズの方は現地で日本人ただ一人の生活を体験する。現地社会に入り込み、日本を伝えると同時に、現地から学び、周りに助けられ、そして日本に帰国した後に、地元の多文化共生社会を見る目が変わったと語る経験者は多い。


asean_sato_03.jpg アジアの中学・高校などの日本語教師や生徒のパートナーとして、授業のアシスタントや、日本文化の紹介を行う日本語パートナーズ

JFの「文化のWA」事業は2014年から23年までの10年間に、コロナ禍で人流が途絶えた2年あまりを挟みながらも、文化・人的交流と日本語パートナーズを合わせて計700万人以上の日本ASEAN間の交流を生み出した。2024年から始まる「次世代共創パートナーシップ」事業は10年間に1000万人以上の交流を創出することが目指されている。


3.ASEAN側から日本へのメッセージ

日本ASEAN関係のこれからを考える手がかりとして、JFが2023年3月に行った国際シンポジウムでのASEAN各国パネリストからのメッセージを紹介したい。この国際シンポジウムは、日本ASEAN友好協力50周年記念の一環として「新たなステージを迎えた日・ASEAN関係:グローバル・パートナーシップの構築に向けて~次世代の有識者が今後の展望を語る」 と題して開催された。ASEAN各国と日本からそれぞれ1~2名ずつ中堅・若手のパネリストが登壇し、政治・安全保障、経済・社会、文化・人的交流の三つの分野にまたがって自由な討論を展開した17

まず、ASEANが地域に果たす役割について彼ら自身の自己認識が語られるなかで、「ASEANインド太平洋アウトルック(AOIP)」が話題になった。AOIPとは2019年にASEAN首脳会議で採択された、ASEANが培ってきた平和・安定・繁栄をインド太平洋地域に拡大していこうとする構想である。世界で大国の覇権競争が激しくなり、インド太平洋地域をめぐる大国主導のヴィジョンが浮上する現在、パネリストたちはAOIPについて次のように語った。ASEANが提唱するAOIPは、あくまでも包摂的なヴィジョンであって、大国主導の封じ込め構想からいかに脱却するかという意識がある。我々は価値ベースのアプローチはとらない。AOIPは安全保障よりも地域メンバー皆にとっての経済発展が主たる関心事である。AOIPはインド太平洋地域のため、という射程を越えて、グローバルな公共財となることができるだろう。

1980年代生まれの現在30代のパネリストたちは、自らの経験に即して日本とASEANの関係を振り返りながら、次のような率直な日本への見方を開陳した。東南アジアにおける日本のイメージは、1980年代のままで止まっているのではないか。「今の日本」を再導入することが重要だ。そして、長い東南アジアと日本の歴史のなかでそれを捉え直すことが必要なのではないか。若い世代はエシカル(倫理的)な行動をとることに関心をもっている。そういう姿を知るためにも、日本人はもっと東南アジアに出かけてほしい。日本は自らを説明しアピールしようとする姿勢が足りないように思う。


asean_sato_04.jpg 「国際シンポジウム 新たなステージを迎えた日・ASEAN関係 ―グローバル・パートナーシップの構築に向けて ~日本ASEAN友好協力50周年を迎え、次世代の有識者が今後の展望を語る~」

日本とASEANの50年におよぶ関係について、シンポジウムのある論者は「安全な空間」(safe space)が形成されてきたと表現し、その空間をもっと広い地域に拡大していこうと呼びかけた。他方で、別の論者は次のように指摘した。日本とASEANの50年は、たしかに信頼(trust)を積み重ねてきた歴史だ。いま、我々には信頼の貯金がある。けれども、この貯金は、どこかに預けておけば利子が増えるというものではないのだ、と。

ASEAN各国の若手・中堅有識者のこうした声を聞くとき、50年をかけて不信を信頼に変えてきた日本ASEAN関係のこれまでの歩みを我々はしっかりと見つめつつも、決してそれに安住してはならないことを思い知らされる。東南アジア各国の社会は日進月歩であり、ダイナミズムに満ちている。一方、アニメや和食の人気が高いにもかかわらず「日本のイメージは1980年代で止まっている」と言われてしまう現実に、我々は考え込まされる。日本が東南アジアをいまだに支援してあげる対象と見なしているその目線から、30代の彼らは日本人のマインドセットの「古さ」を感じとるのかもしれない。今ある信頼の余剰(trust surplus)は努力なしには増えない、どころか日々劣化していくだろう。

我々日本人はまずASEANの現実をもっと知らなければならない。彼らがAOIPを語るときの自信を理解できるようにならなければならない。信頼の余剰を劣化させることなく、次の世代に渡していくには、日本人自身がASEANに対する認識をアップデートすることが必要なのである。これから10年の日本ASEAN関係を支える人的交流のキーワードは、「次世代」と「共創」である。2023年にJF、かめのり財団、ASEAN大学ネットワーク(AUN)が連携して行った日ASEANユース・フォーラム「TASC (Take Actions for Social Change)」はその助走となるものだった18。ASEAN各国と日本から20歳前後の大学生30名が3チームに分かれてそれぞれ「環境・防災教育」「多様性」「高齢化社会」といった共通の社会課題について4か月間かけて各地でフィールド調査や研修を行い、最後に日本でそれぞれのチームが考案した課題解決への提案を聴衆の前で発表した。さらにその後、違うチームのメンバー間で4か月間を振り返り、経験談を交換し合い、自分がどう変わったかを言葉に表し、メンバーの前で未来の自分の次の一歩を宣言した。「人生を変えるような深い体験」(参加メンバー)を共有し交換する明るい笑顔の輪のなかに、よりたくさんの日本の若い世代が混ざり合うことが、近未来の日本ASEAN関係の、そしてアジアの中の日本の、最も重要な土台になるだろう。


asean_sato_05.jpg 4か月にわたって行われた「TASC」プログラム最終日の研修の様子




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佐藤 百合(さとう ゆり) 国際交流基金(JF)理事。上智大学外国語学部を卒業し、アジア経済研究所にてインドネシアを中心とする東南アジア研究、とくに経済・産業・企業、政治経済分析に携わる。在インドネシア海外研究員(1985~88年、1996~99年)、インドネシア商工会議所(KADIN)特別アドバイザー(2008~10年)、アジア経済研究所理事・日本貿易振興機構(JETRO)理事(2015~19年)を経て、2021年10月より現職。JETRO理事として東南アジアとの経済交流を担当し、国際交流基金理事としては国際対話と次世代交流の促進、海外における日本研究の支援に取り組んでいる。現在、インドネシア研究懇話会代表、アジア政経学会監事、日本インドネシア協会理事、東京大学非常勤講師なども務める。インドネシア大学経済学博士。インドネシアおよび東南アジアに関する著書、編著、論文を多数執筆し、『経済大国インドネシア』で第24回アジア・太平洋賞大賞、第16回国際開発研究大来賞を受賞。

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