2019年3月号
藤井慎太郎(早稲田大学文学学術院教授)
しかも、それらの上演作品には、劇場にとっても観客にとってもある意味「挑戦的」といえる作品が多かったのも特徴である。川口隆夫『大野一雄について』、岡田利規『三月の5日間』リクリエーション、 木ノ下歌舞伎『勧進帳』 (『勧進帳』はさらに能『安宅』をもとにしている)、藤田貴大『書を捨てよ、街へ出よう』(原作は寺山修司)など、「本歌取り」的というか、もとになった別作品との距離を測りつつ見るハイコンテクストな作品が多かった(それをいえば、坂口安吾の小説を下敷きにした野田秀樹『贋作 桜の森の満開の下』や、同名だが異なる作品が多く存在する岩井秀人『ワレワレのモロモロ』にもそうした側面は指摘できよう)。にもかかわらず、批評家や観客の反応が総じて肯定的であったのは、そうした文脈を必ずしも知らなくとも単独で観客にアピールしうる力を作品が備えていたということであろう。
『勧進帳』を公演した木ノ下歌舞伎。 (c) Yusuke KINAKA
そうしたことすべてがあってこそ、舞台芸術におけるのべ観客数6万人(閉幕を迎える前の2019年1月の段階の仮集計の数字)という目に見える成果に結びついたのだといえる。もちろん、30万人を動員したチームラボを筆頭に、17企画に対して(やはり1月の時点で)100万人の来場者があったという美術に比べると、この数字は地味に見えるかもしれない。だが、動員数については、劇場の着席定員(×公演回数)以上の来場者はありえない舞台芸術はもともときわめて不利であって、アヴィニョン演劇祭の来場者がフリンジ・フェスティバルを除いて例年10万人強であることを考えれば、6万人という数字は大きな意味を持つものである。また、実際に全体の半分の演目となる18企画をフランスの劇場で見ることができた私は、そのほとんどの公演が大入り満員の状態でなされたこと、観客の反応が総じて肯定的、時に熱狂的であったことを身をもって経験している。
もちろん、何事にも100%完全な成功などありえないように、欲を言えばきりがないものである。誰がどのようにアーティストと作品を選んだのか、責任の所在や演目選定のプロセスがもっと明確になっていたらよかったのではないか、9月後半から10月前半には公演が集中しすぎたのではないか、パリ以外の地方都市での企画がもっとあったらよかったのではないか、特にストラスブールのオペラ座やメッスのポンピドゥ・センターなどでも行われた日本特集と連動できたのではないか、ダンスや音楽についても演劇のように充実したプログラムを組むことができたのではないか......、などと思わないわけではない。とりわけ、岩井秀人がジュヌビリエ劇場に長期滞在して、プロフェッショナルおよびアマチュア俳優とともにつくり上げた『ワレワレのモロモロ ジュヌビリエ編』、岡田利規が同様にバンコクでタイ人作家・俳優とつくり上げた『プラータナー:憑依のポートレート』などのわずかな例外を除いて、日本のアーティストが日本(東京)で制作した作品をフランス(パリ)に持ってきて見せる、一方通行的な企画が大半だったのはいささか惜しまれる。
だが、それにしても、「ジャポニスム2018」を通じて、日仏両国、さらにはそれ以外の国・地域の数多くのアーティスト、劇場関係者、批評家・研究者、観客がすでに出会い、知り合うことができたことの意味は測り知れない。そうして築かれた人間関係と信頼関係は今後、より双方向・多方向的で協働的なプロジェクトを実らせるための豊かな土壌となる。その土地をさらに耕し続け—文化(culture)の語源は「耕す」ことにある—、こうして蒔かれた種をさらに大きく育てる責任を私たちは将来に向けて負ったのだと考えている。