小沼純一(早稲田大学文学学術院教授、音楽・文芸批評家)
国際交流基金(ジャパンファウンデーション)は、日本を代表する作家である村上春樹氏の作品を海外のファンの方々にも様々な形で楽しんでいただく新たな試みとして、「村上春樹を『観る』・『聴く』・『語る』」と題し、シンガポール・韓国で演劇・コンサート・パネルディスカッションを通じて村上作品に触れていただくイベントを実施しました。
シンガポール・韓国における本企画への大きな反響と国内のハルキストたちや参加アーティストのファンからの多くのリクエストを受け、2016年2月29日、3月1日の2日間限定で、「村上春樹を『聴く』」の東京凱旋公演を開催しました。そこで、コンサートの監修を務めていただいた小沼純一氏に、本コンサートを創るにあたってのプロセスと村上作品に出てくる音楽、そしてコンサートを通した国際交流について寄稿いただきました。
村上春樹を『聴く』東京凱旋公演 2016年2月29日アンコール曲
村上春樹と音楽、というタイトルでコンサートをつくらなくてはなりません。お手伝いいただけせんか? そう連絡があったのはほぼ1年前、2015年4月の半ば過ぎでした。この作家の作品は海外でよく読まれている。折しも蜷川幸雄演出による『海辺のカフカ』の公演や「シンガポール作家祭2015」も開催される。それにあわせて独自のコンサートをやりたい。そのようなお話でした。
一作でも村上春樹の長篇小説を読んだことがあるなら、そこにはいくつもの音楽がでてくることに気づかれるでしょう。ひとつのジャンルとはかぎりません。ジャズがありロックがあり、クラシックがあります。こうした音楽があらわれる文脈はさまざまです。ラジオからながれる、レコードでかける、口笛で吹く、誰かが演奏する、どこかから聞こえてくる。多くの場合、曲目も明示されるけれど、どういう音なのかどういう音楽なのかが読者のイマジネーションに委ねられるものもあります。
さまざまな音楽と小説内での文章・文脈との結びつきから何ができるか。昨年のゴールデンウィークは、小説を読みかえし、メモをとり、ぼんやりとコンサートを想像することで過ぎました。ひとつ決まっていたのは、出演してくれる演奏家でした。「1966カルテット」、そしてシンガポールでは「山中千尋トリオ」、ソウルで「国府弘子トリオ」です。この演奏家「から」、全体を考えていかなくてはなりません。
担当の大島幸さんと会い、決まっていることは何か、動かせること・動かせないことは何か、何をどうしたいのか、どうするのか、を話し合ったのは、五月の後半くらいだったでしょうか。まずコンセンサスを得たのは、演奏の前後に小説のなかの一節を朗読する、あるいは、スクリーンに投射する。音楽のジャンルを分けることはしない、ということです。前半がクラシック系で後半がジャズ系、というようなかたちはとらない。いろいろな曲が、つぎつぎにひとつのステージで演奏される。そうしないと、ただ小説のなかにでてきました、ならべてみました、になってしまう。そうではなくて、何らかのかたちで小説という世界、小説のなかのことばと音楽とが、コンサートを聴きにきた人のなかで結びついたりずれたりするさまをつくりださなくてはならない。そんなふうに考えたわけです。
しかし、です。具体的に考えると口にするほど容易ではありません。ステージ上でのセッティングがあります。楽器/アンサンブルによるサウンドの調整があります。カルテットとトリオがどういうふうに入れ替わるのか。朗読がはいるなら、役者さんの「入り」と朗読はどうなのか。マイクは手に持ってでてくるのか、据えつけにするのか。ライトはどうするのか。朗読の終わりと演奏開始のタイミングはどうか。このような細かいことどもを、人の空間的な動きや必要とされる時間とを書きだしたりしながら、ステージングを「想像」していかなくてはなりません。
ステージには下手にトリオ用のピアノ、上手にカルテット用のピアノと、2台のピアノを用意する、と大島さんが言ってくださったのは、ジャンル別に音楽作品を分けなくてすむ、企画を進めるなかでもっともありがたい決定でした。ここまでお読みの方々でも、これは共感していただけるのではないでしょうか。
村上春樹作品にでてくる音楽はたくさんあります。でも、そのありようはさまざまです。BGM的にながれるものがあり、ストーリー展開やテーマとつよく結びつくものがあります。そのあたりを勘案することも必要になりました。そして、お客さんについてはこんなふうに考えてみたのです。
また、小説にでてくるなかでも特によく知られた、有名な音楽、あるいは、重要な意味を担わされた音楽にふれてほしい、親しんでほしい、との(すこしだけ教育的な?)おもい。ジャズ通、クラシック通、その他、それぞれの好み方が、ふだんはあまりふれない音楽を、こうした機会に、村上春樹の小説を媒介にして、ふれる機会になればいい。村上春樹には興味などない、その小説にも興味がない、けれども、出演者とそのプログラムにすこし惹かれる−−−そうした音楽好きの方のことも想定。
小説には多くの音楽があらわれてはきます。しかし実際に演奏するような場面はひじょうに少ない。大抵はメディアをとおして親しまれるものです。つまりそこには音楽の環境化、二十世紀後半以降のメディア環境の変化をみることができるのです。また、村上春樹の小説のなかにあるあまたの音楽は、その重要性の度合いはそれぞれそのときそのときで異なっており、機能もそれぞれ異なっている。すべてが過去にある特定できる音楽とはかぎりません。匿名の、文字どおり名づけ得ない音楽もあらわれる。そして、あらわれてくる音楽に対して、主人公や語り手はしばしば反応したり註釈を施したりする。そうした身体感覚は、ストーリーそのものや小説の「テーマ」とはべつなものとしても扱うことができます。それはそのまま、コンサートの聴き手へも結びついてくることでもあります。
村上春樹を『聴く』東京凱旋公演
(左上)国府弘子トリオ、(右上)1966カルテット、(左下)チョ・ジェヒョク氏との共演、ヴェートーベン『大公トリオ』、(右下)山中千尋トリオ
あらためてプログラムに戻ってみましょう。具体的な選曲についてです。
トリオが演奏するものはあまり問題がありません。スタンダードな楽曲がほとんどですから、曲名と演奏時間を伝えればいい。しかし「1966カルテット」の編成にフィットしたオリジナル曲はほとんどないのです。ビートルズやマイケル・ジャクソンの曲は、レパートリーとして持っている。でも、クラシック系の楽曲はない。そこで、何曲かはわたし自身があまり違和感がないように編曲をすることにもなりました。
シンガポールとソウル、それぞれ現地のピアニストに参加してもらい、何曲かでカルテットと共演することにも俎上にあがり、選曲では彼らの意見も反映させています。そのようにして、単に村上春樹とタイアップした日本の音楽家の演奏だけではなく、わずかではあっても、現地との「国際交流」でもあるようにと考えてもみたわけです。アンコールとして、ずっとべつべつに演奏していたトリオとカルテット、そして−−−シンガポールでは、できなかったのですが−−−現地のピアニストを含め全員が『ノルウェーの森』を演奏したことも、そのひとつのかたちといえるかもしれません。
ここで記さなかった、記せなかったことも多々あります。携わった現地スタッフとの齟齬、機器や会場のトラブル、著作権の処理、等など。しかしそうしたことが生じることこそが異なった文化の接触であり、人と人とが交流するということにほかなりません。わたし自身、このコンサートを三つの都市で開催するなかで感じ、考えることをとおして得た経験は、ひじょうに大きいものです。そしてそれは携わった方々ひとりひとりにもかならずあるにちがいないとおもっているのです。
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Behind the Scenes
「村上春樹でコンサートを創る ~村上春樹を『観る』・『聴く』・『語る』in シンガポール&ソウル~」大島 幸(文化事業部 事業第1チーム)
小沼純一 (こぬま じゅんいち)
1959年東京生まれ。音楽を中心にしながら、文学、映画など他分野と音とのかかわりを探る批評を展開する。現在、早稲田大学文学学術院教授。音楽・文芸批評家。著書に『武満徹 音・ことば・イメージ』『バカラック、ルグラン、ジョビン 愛すべき音楽家たちの贈り物』『ミニマル・ミュージック その展開と思考』『魅せられた身体 旅する音楽家コリン・マクフィーとその時代』『映画に耳を』他多数、新著に『音楽に自然を聴く』。編著に『武満徹エッセイ選』『高橋悠治対談選』『ジョン・ケージ著作選』ほか。NHK Eテレ『"スコラ" 坂本龍一音楽の学校』のゲスト講師としても出演。