阿部和重(作家)
国際交流基金バンコク日本文化センターは、芥川賞作家阿部和重氏の話題作『IP(インディヴィジュアル・プロジェクション)/NN(ニッポニア・ニッポン)』のタイ語版出版を記念して、2014年3月、阿部氏をタイにお招きし、第12回バンコク国際ブックフェア2014の公式イベントのひとつとして、タイの作家ウティット・ヘーマムーン氏とのトークセッション、朗読会を開催しました。
阿部氏は、タイ訪問の際、 現地の「Writer」 誌(文芸月刊誌、毎月約 3 千部発行)のインタビューを受け、作家になるまでのいきさつ、著書のタイ語翻訳について、アジアの作家として感じることなど、ざっくばらんに語ってくださいました。そのインタビューの様子を日本の読者の皆さまにもご紹介します。
本との出会い~作家になるまで
――今回はタイの読者向けにある種「阿部和重入門」的なところを想定してインタビューをさせていただきます。お生まれは山形県の神町というところですね。たとえば小さい頃から周りに本が沢山あるような環境だったのでしょうか?
阿部:山形というのは、日本の東北と言われる地方にある、大変な田舎ですね(笑)。国際的に有名なドラマとして『おしん』という山形を舞台にしたドラマがあって、大変人気です。
その中でも僕が生まれ育ったところは東根市神町です。うちはその中でパン屋を営んでいる関係で、商店街の中に位置しているんです。僕が自己紹介でよくお話するのが、自分の人生は家の半径数メートルで決まってしまったという話です。うちの正面が本屋さんで、その隣が銀行、その隣が映画館だったんです。
目の前が本屋さんだったという意味では本は日常的に手に取りやすいものではありました。しかし僕自身は子どもの頃からいわゆる読書家だったわけでは決してなく、むしろ逆でした。小説はほとんど読まず、漫画ばかり読んでいました。父親がわりと本好きで、本自体はうちにあったのですが、僕自身はあまり活字に慣れ親しむということはなかったですね。少年時代はまず映画があって、漫画があって、というような。
――あまり本を読まれていないとおっしゃる中でも、特に覚えている本はありますか?
阿部:やはり映画に関係するものを、たまに目の前の本屋さんに行って手に取ってみるということはありました。たとえばスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』がありますよね。そこで「ツァラトゥストラはかく語りき」という、リヒャルト・シュトラウスの曲が使われていまして。そのタイトルだけ見ると印象的なわけですよね。なんだろうなあと思っていると、その書店にあるわけですよ、そのタイトルの本が(笑)。そこで初めてニーチェっていう名前を知ってみたりしました。立ち読みはしてみるんだけど何が書いてあるかはよくわからない。だから僕は作家の名前と本のタイトル、それだけは映画を通して覚えるきっかけがあったのですね。
それとは別にちゃんと自分で購入して手に取って読んでみたのが、ブルース・リーの『魂の武器』というタイトルの武道の理論書のようなものです。まあ結局デビュー作でそれについて深く言及することになるのですが。ブルース・リーが創始したジークンドーと呼ばれる、世界的な、実際に道場もあってそれに携わる方も沢山いらっしゃる武道があります。そのジークンドーの理論書が翻訳されて売られていたんですね。
僕もブルース・リーの大ファンだったので、これは何としてでも読み通さなければいけないと思って。彼はもともとシアトルの大学に渡った時に哲学の勉強もしていたらしいのですが、かなり哲学的な記述もありました。だから、非常に難解ではあるけど、自分なりに読み解いてそれを真似して書いたりとかして。
――書いたんですか?
阿部:はい(笑)。自分もブルース・リーにならって、ジークンドーみたいなものを作らなければいけないんじゃないかと思ってですね。何かを書こうと思って、結局丸写しで(笑)。
――『アメリカの夜』はタイトルがトリュフォーなのに、本を開いたらブルース・リーで一体これはどういうことなのだろうと思いました。そういったものが少しずつ作品に影響しているということですね。
阿部:そうですね。だから最初のお話のように、子どもの頃のいろいろな経験や見聞したものでほとんど規定されちゃっているというか、今まであまりその外に出ないで生きてきちゃったなというところがあります。
自分の小説に対して一時期までいただいていたある批判的なご感想では、子どもっぽい、ガキっぽい、ということをよく言われていました。自分でも心当たりがある部分があるので、そこはそのままずっと来てる部分があるのかなと。
ただある種のそのガキっぽさというのは僕自身に特有のものではなく、日本のある時期以降の文化に特有のものととることもできるので。その意味ではある種の日本の戦後のサブカルチャーの一部分の本質を、自分なりにはつかみ取っているのではないかなと思います。実は3年くらい前にそれをめぐる『幼少の帝国』というノンフィクションの本も出しました。もしタイのみなさんがご興味を持っていただければ、翻訳していただければ大変嬉しいなと思いますけどね(笑)。
――映画の学校に進まれるというお話がありました。おそらくタイの読者さんたちは、どうして映画の学校を出ているのに最終的に作家になるに至ったのかと考えると思います。その辺りを少し教えていただけますか。
阿部:やはり僕はとにかく映画を撮りたいと思っていまして、高校を中退して映画の専門学校に入るわけです。今村昌平という有名な監督が当時の校長で、現場で働いている人から直接学べるというメリットがあったので入学しました。
いろいろな科に分かれているのですが、最初の1年は皆一緒の授業を受けていました。その中でシナリオ、映画の脚本を一人ひとりがまず書いてみるという授業があったんですね。シナリオを書くという課題を与えられて、書いてみたら、これにまずハマったという。それ以前はどんな形であれ、自分で何か一つの作品を作り上げるというところまで至ったことはなかったのです。映画もまだ撮っていなかったし、文章で最後まで何かを書き上げるということもありませんでした。初めてシナリオという形で書き上げてみたら、自分なりに楽しさ、というか手応えのようなものを感じて。手軽に何か自分が表現したいものを、コストもかけずにまとめられるんだ、あ、これはいいなと思ったんです。
それ以前はほとんど小説も本も読みませんでした。せいぜい「あのミュージシャンが言及してたから」「映画化されてたから」という理由で読んだくらいです。たとえば三島由紀夫の作品や、他に、ほんのいくつか読んでいる程度でした。
映画学校に入る人はみんな映画が好きだと思ったんですね。ところが映画好きな人ってあんまりいなくて、むしろ実は文学に詳しかったり、バラバラだったのです。仲のいい友だちがすごく文学に詳しくて、彼らから「この本おもしろいよ」と聞いて、そこで大江健三郎の名前を知ったりとか。
そこから僕自身の小説、文学というジャンルに対する関心もグッと高まりました。さらに、書くという表現の楽しさを覚えたことで、何か一気に身近になったんですね。
とはいえ、一足飛びに小説というわけにはいかなかったのですけど。いずれにせよ学校の授業とは関係なくシナリオをまず何本も、とにかく自分で書きたいだけ書いてたんです。そしてそれを友だちに読んでもらって、ということを重ねていった。映画学校を出てからも、まずシナリオを書いて、シナリオのコンクールに送ってみようという発想だったんですね。
ところが、シナリオというのは映像化される前提で書かれるものなので、シナリオとして一番あるべき形というのは、シンプルであることなのです。演出家にとって邪魔な表現はいらない。ト書き、簡単な情景の説明と台詞だけがあればいいんですが、僕の場合は、とにかく自分の表現の欲求をすべてぶつけるように書いていたので、どんどんどんどんまったくシナリオならざるものになってしまった。あるときそれにふと気がつきまして、どのみちこれでコンクールに送っても、弾かれておしまいだろうと。なんとかしなければと思ったときに、その受け皿として「小説」というジャンルかなあ、と。
その頃には、僕もけっこう本を読み込んでいました。映画に関する知識として、映画評論というジャンルも読んでいました。それ以前は淀川長治さんという、日本でもっとも高名な映画評論家の著作は読んでいました。その他にも映画評論にも触れておきたいということで読んでいったのが、蓮實重彦さんです。僕にとっては大きな存在で、蓮實さんの評論に出会ったことでいろいろな啓蒙が説かれたところがあって、文学的な知識や映画に対する知識をより深めるきっかけになった。
そして小説というものがなんとなく自分でも形として見えてくるようになるんですね。じゃあ試しに書いてみようかな、と。そこでまず、書く表現としての小説というものと、映像というものでの表現はシナリオというふうに、2つの形式に分けようという発想が、出発点だったと思っております。その意味ではデビュー作の『アメリカの夜』はそのまま書いているという感じなんですね(笑)。
――その頃読んだ小説で特によく覚えているものはありますか?
阿部:純文学というジャンルは、僕のようなあまり真面目に勉強してこなかった人間には遠いものだという印象が強かったんですね。非常に堅苦しいし、教訓とか書いてあるようなものなんだろうという先入観、偏見があったんです。
そのときに大江さんの初期の作品を友だちに紹介してもらって、特にバードという青年、不良少年たちの話が書かれている『個人的な体験』を読んだ時に、「あっ、これは案外自分たちに近いものが書かれているな」、と。いわゆる「お勉強」のようなイメージだけで純文学というものをとらえちゃいけないんだなっていうのを、18、9のとき初めて知りました。僕は、三島ではそれを感じ取れなかったんです。あまりに格調が高すぎたんでしょうね。
大江さんも実は良く読んでいけば非常にブッキッシュな(堅苦しい、学者的な)方なんですけども。しかしいわゆる初期の作品のバードなどの物語を読んでいくと、60年代とかのストリートな感覚がそこに書かれている。文学って案外そういうものを扱っているんだなあというところからいろいろいくつか読みました。たとえば、ウィリアム・S・バロウズの『裸のランチ』の完全版が出たり、ジャン・ジュネのものが出たりすると読んでみようと。あるいはSFに手を出してみようとか。とにかく毛色の変わったものという感じで手を出していったところがありますね。
――阿部さんの言われるところの「お勉強」をしてこなかったからなんでもとりあえず読んでみようとなったのでしょうか?
阿部:ちゃんとした基礎的な文学史の教養をとっぱらって手を出してきたので、そのぶん偏ってしまったところもありますけど。かなりいろいろなところが欠けています。バランスが悪くて、全作品読んでる人もいれば、全然読んでない人もいるみたいな感じになって。
――小説を書きはじめてからデビューまではどんなことをされていましたか?
阿部:専門学校を卒業して、フリーターになります。まず渋谷という街、これは『インディヴィジュアル・プロジェクション』にも出てくる街ですが、当時、西武百貨店が営んでいたビルの一つにシード館というのがありました。その一番上に多目的スペース、シードホールというのがあったんです。まず1回西武の契約社員で3ヶ月働きました。シードホールで働きたいなと思ってたんですが、希望したところに行かせてもらえなかったので3ヶ月でやめて、1回映画の現場に入りました。たまたま友だちが東映の教育映画部というところで編集技師をやっていて、ここはたぶんすぐ仕事あるよと言われたので。それで教育映画、交通安全のPR映画、あるいは中学校の生徒会の映画とか、そんなものを作っていました。
結局自主映画を撮るということで現場にずっといられなくなるから、そこもやめました。それからシードホールでバイトするようになるんですね。ちなみに今言った自主制作映画というのは、撮り上がったのですがそれ以降スタッフが集まらなくて空中分解して、完成しませんでした。
シードホールでアルバイトをするようになって、小説を「群像」という文芸誌に送るようになりました。3回目の『アメリカの夜』でデビューさせていただいた、という感じですね。
――ずっと「群像」に送られてたんですか?
阿部:「群像」だけにしました。
――それは何か理由が?
阿部:僕はやっぱり門外漢だなという意識が強くありました。たとえば蓮實さんの批評や、そこからいろいろな文芸評論、当然大きな名前としてある柄谷行人さん、浅田(彰)さん、渡部(直己)さん、絓(秀実)さんたちの批評とかを読んでいくと、基礎的な文学史の教養というのが非常に重要であるというのを実感するわけです。
そういうことを通過せずにいきなり文学の世界に入るというのは、さすがにおこがましいなという気持ちがあって。でも小説を書きたいという気持ちはあったので、そのライセンスをもらうには、自分がリスペクトしていて厳しいと思っている選考委員、柄谷さんであり後藤明生さんがいる「群像」に。やはりこのお二人に許可をいただかないと、小説を書いちゃいけないだろうと。そういう気持ちが強かったので「群像」だけに絞って3回送りました。なんとか3つ目の『アメリカの夜』という小説で、一応許可をいただいたのかなと(笑)。そして今に至り、20年仕事できたということです。
タイでは朗読会も開催
タイの作家ウティット・ヘーマムーン氏とトークセッション
インタビュアー:福冨渉(タイ文学研究者)
タイ文芸誌『WRITER』25号(2014年6月号)インタビューより抜粋
阿部和重、タイで自作を語る【後半】に続く
阿部和重(あべ・かずしげ)
1968年生まれ。日本映画学校(現・日本映画大学)卒業。1994年『アメリカの夜』で第37回群像新人文学賞を受賞しデビュー。その後、『無情の世界』で第21回野間文芸新人賞、2004年『シンセミア』で伊藤整文学賞・毎日出版文化賞をダブル受賞、2004年『グランド・フィナーレ』で第132回芥川賞、2010年『ピストルズ』で第46回谷崎潤一郎賞を受賞。近作に『クエーサーと13番目の柱』、『□』(しかく)がある。