ミハイル・シーシキン
(作家)
私の日本との最初の出逢いは、家の本棚に並んでいた日本の詩歌集であった。今でもその赤い本が目に浮かぶ。「蝸牛(かたつむり) そろそろ登れ 富士の山」人生のあらゆる局面で何度も読み返してきたこの句は、私にとって、すでに日本の句ではなく、私自身の句となっている。
そして、黒澤明監督の映画「羅生門」。8年生(日本の中学2年生に相当)の頃、公的に認可されていないような映画クラブで見た。当時はインターネットもビデオもなかった。奇妙な語り口で綴られる日本のはなしに、アンドレイ・タルコフスキー監督作品の「鏡」にも似た衝撃を受けた。おそらくこの時に、まだ何も書いてはいなかったにもかかわらず、私はすでに作家になろうとしていたのかもしれない。作家でなく映画監督たちが師匠だったとしても、いいではないか。芸術は、表現手段が絵画であろうが言葉であろうが、またロシア語であろうが日本語であろうが、その真髄は一つであるからだ。
別の惑星だった日本
当時、日本はどこか手の届かない存在で、別の惑星のようであった。そう、実際に別の惑星だったのだ。いつの日か、この信じられないくらいすばらしい国を訪れるなどということは、絶対にかなわない、非現実的なことだと思っていた。
若いころ、私には二つの夢があった。それは、自分の小説を世に出すことと旅することだった。しかし、そのどちらも不可能なことだとよく分かっていた。なぜなら、私は奴隷の国で生まれ、私の両親は奴隷であったし、私自身も生涯、その制度の奴隷として生きていくものだと思っていたからだ。ソ連の奴隷には、自分の書きたいことを書いて世に出すことも、海外へ旅することも、許されていなかった。
現在、私たちはあの頃と異なる惑星に生きている。何でも自由にできる。国境ももう存在しない。私の作品がロシアで出版され、ロシアで数々の権威ある賞を受賞し、世界各国で約30言語に翻訳されている。そして昨年は、日本で新潮社から奈倉有里氏の翻訳による私の長編小説が出版された。
『手紙』 ミハイル・シーシキン/著 奈倉有里/訳 新潮社
国際交流基金から、日本で初めて私の作品が翻訳出版される機会を使って日本を訪問しないかという招待の手紙を受け取った時は本当に嬉しかった!妻のエヴゲーニヤとともに来日し、日本の旅の喜びを分かち合うことができたことは感謝の念に堪えない。
日本の読者、作家、知識人との交流
日本滞在中は、沼野充義教授の多大なご尽力により、東京大学をはじめ、東京と京都の書店で、自著について日本の読者に直接語る機会を持つことができた。自分のことを知っている人がいない国に行って、出版されたばかりの自著を紹介してみたところで、さほど関心を持ってもらえるものではない。だからこそ、会場が満席で、日本の方々が熱心に耳を傾け、質問をしてくれたことには大変驚いた。これは、日本人の間で一般的にロシアという国やロシア文学に高い関心があることを物語っている。それはもちろん、我々に大きな責任が課せられているということでもある。なぜなら、ロシアの現代作家が受け入れられる背景には、トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフといった大文豪たちがいるからだ。
2012年11月2日 に東京大学(本郷キャンパス)で行われた講演会。シーシキン氏の講演「ロシア文学の意味」に続き、作家の島田雅彦氏、沼野充義・東京大学教授、松永美穂・早稲田大学教授らが文学を巡り、議論を交わした。
京都の書店で2012年11月4日 に開催されたトークショー。楯岡求美・神戸大学准教授の司会により、シーシキン氏が自著を語り、『手紙』の翻訳者である奈倉有里氏(左)が作品の一部を日本語で朗読するなど、読者との交流を深めた。
私にとって、日本の創造的知識人、教員や学生、そして作家の方々と出会い、交流することには重要な意味があった。また、特に光栄だったのは、日本を代表する著名な作家・島田雅彦氏と一緒に登壇する機会があったことだ。島田氏のことは、私の旧友で作家・翻訳家のドミトリー・ラゴージンがロシア語に翻訳した氏の小説を通して、ずいぶん前から知っている。現在は国際的なブックフェアや図書フェスティバルでよくご一緒する機会があるが、会うたびに新たな発見があり、島田氏を通して、現代の日本文化を多々学ばせてもらっている。
伝統と現代の見事な調和
今回の日本訪問では、日本の首都・東京と古都・京都の名所を訪れる素晴らしい機会にも恵まれた。美術館、神社仏閣や庭園などは忘れられない印象を与えてくれた。特に、古くからあるものと二十一世紀の文明が見事に調和しており、そのコントラストに大変驚かされた。日本人がいかに伝統を大切にしていることか。それと同時に、日本という国がいかに勢いよく未来に向かって進んでいることか。
ロシアから日本にやって来ると、まず目に飛び込んでくるのは何と言っても、街並みの清潔さ、秩序、そして周囲の人々や自分自身を敬う心である。そして、際立った礼儀正しさ。しかし逆に、ヨーロッパを旅する日本人にしてみると、私たちはみな野蛮人に見えるのではないかという気がしてくる。実際はどうなのだろう?
東京の地下鉄での嬉しい衝撃
作家としては当然、書店に足が向いた。日本語の漢字は全く分からないが、ロシアの作家の翻訳本で書棚が一杯になっているのには驚かされた。
そして、もう一つ見落としてはならないことがある。いま世界中で、紙に印刷された本が死に絶えると言われている。おそらく、実際に未来は電子書籍の側にあるのだろうが、そう思うと胸が痛む! 生きた紙の本が、魂のない電子書籍リーダーにとって代わるということは、読書の真の喜びが奪われることを意味するように思えてならない。モスクワで地下鉄に乗ると、皆こぞって電子書籍を読んでいる光景が目につく。そこで誰かが紙の本を開こうものなら、周囲はみな、「電子書籍リーダーを買う金がないのか」と言わんばかりの視線を注ぐ。ところが、東京の地下鉄は私にすばらしいプレゼントを用意してくれていた―日本人は紙の書籍を読んでいる!なんと素晴らしいことだろう!
ミハイル・シーシキン(Mikhail Shishkin)
1961年モスクワ生れ。主な著作に『皆を一つの夜が待つ』、『イズマイル攻略』、『ヴィーナスの毛(ホウライシダ)』、『手紙』など。これらの著作を通じて、ロシア・ブッカー賞、国民的ベストセラー賞、「大きな本」賞のロシアの三大文学賞全てを獲得した初めての作家となる。
ロシアとヨーロッパの文学的伝統を受け継ぎながら、文学の未来に対するビジョンで人間の内面に光を当てるシーシキンは、ロシアでは文豪トルストイやナボコフとも比較され、現代ロシアを代表する作家として、海外でも高く評価されている。
最新長編の『手紙』の日本出版を記念して2012年11月来日、日本の読者や作家、知識人らと交流を行った。