舘野晳
自由寄稿家・韓国語翻訳
韓国では日本の小説が
ベストセラーの常連になっている
ソウル光化門の大型書店・教保文庫。広々とした店内はいつも大勢の客で賑わっている。昨年、久しぶりに大改装をして店内は明るくなり、利便性も一段と増したようだ。客筋は若い女性、子ども連れの母親、サラリーマン、中高校生とさまざまだ。日本人観光客の姿もときおり見かける。CD、DVD、アクセサリーなど、ちょっとした買い物に最適のグッズが揃っており、近頃は日本のガイドブックでも紹介されているからだろう。
店内にいつも人だかりができるコーナーがある。「文学書の新刊コーナー」で、入口を入ってすぐの目立つ場所に陣取っている。教保文庫は韓国を代表する大型書店。文学書の売り場もたっぷり確保しているのだ。
その周囲を見てまわると、韓国の小説、エッセー、各種全集、翻訳小説などが賑々しく並び、売れ筋の本は目立つ場所に置かれている。ベストセラー入りしている日本作家、たとえば村上春樹、東野圭吾、江國香織などの作品は、いつも定位置を与えられた常連といったところ。
翻訳文学を集めた専用のコーナーもあるが、「日本文学」(韓国語に翻訳された日本の小説)だけは特別扱いである。大きな平台と書棚が用意されており、そこに翻訳書がずらりと並んでいるさまは壮観である。集められた種類だけでも(こちらは翻訳であるが)、日本の大型書店に見劣りしないだろう。そしていつも若い女性たちが群がっている。
日本文学コーナーは品揃えが豊富で多彩だ。『源氏物語』『万葉集』にはじまり、芭蕉、漱石、鷗外、宮沢賢治、川端康成、谷崎潤一郎と大家クラス、井上靖、三浦綾子、大江健三郎などの著名作家、そして日本でも売れ筋の村上春樹、東野圭吾、江國香織、奥田英朗、吉本ばなな、浅田次郎、宮部みゆき、渡辺淳一......と、有名作家の代表作や最新作が何点も並んでおり、初めて名前を聞く若い女性作家の作品まで、漏れなく顔を揃えている。
韓国では一般的に日本のように文庫版で小説を読む習慣はない。だからこれらの「日本文学」は、みな46判か菊判サイズで、たっぷりと存在感があり、それらがみな女性読者好みの小ぎれいな装幀と製本で妍を競っているのだ。
このように「日本文学」がまとまって陳列されているのは、これら作家の作品が韓国人読者に広く受け入れられていること、言い換えれば、売れ行きがよいことを示すものだろう。ほかの大型書店、永豊文庫、バンディ&ルニス、ブックス・リブロなどでも、同じように「日本文学コーナー」が設置されているから、教保文庫だけが特別扱いをしているわけではない。
上:一見日本の書店のように見えるが、教保文庫店内の日本書籍コーナー。日本語で「担当者おすすめ」の表示も。
日本文学の翻訳書出版は
年間800点台にも上る
日本書、とりわけ日本の小説のめざましい進出ぶりは「出版統計」を見ても確認できる。韓国では2010年(1〜12月)に、約4万点の新刊書が刊行された。このうち「文学」は8192点(全体の20.3%)だった。つまり新刊書の5冊に1冊は文学書である。さらに翻訳された文学書は2323点で、文学書全体の28.3%を占めていた。日本の場合は8%にも満たないというから、韓国では翻訳書の比重が高いのが特徴なのだ。
興味深いのは、韓国における翻訳文学書の国別順位である。日本は832点(35.8%)で断然トップを占め、アメリカ(21.4%)、イギリス(12.5%)、フランスなどを大きく引き離している。文学書全体に対する比率をみても、日本書は10.2%と際立っている。これは文学の新刊書が10冊あったとすれば、そのうちの1冊は日本文学の翻訳書であることを意味する。
日本文学の翻訳書は2010年には832点だったが、ピークの2009年には886点に達した。2001〜2010年を合計すると、なんと5680点である。もっとも「日本文学」といっても、小説の占める割合は09年が78.2%だったから、すべてが小説というわけではない。それにしても日本文学のこの人気は驚異的というしかない。
日本文学の翻訳書は2001年には260点に過ぎなかった。それが06年に500点台になり、07年以降は700〜800点台と目覚ましい躍進を示したのである。2006年が飛躍の起点になったことは明らかだろう。
背景には近年に起きた
韓国社会の大きな変化がある
もっと端的に、日本の小説の売れ行きの大きさを示す指標がある。教保文庫のオン・オフラインでの販売実績に基づく「年間売れ筋100位内の小説、日韓比較」である。2001〜2010年についてのデータを韓国と日本で対比しているのだが、以下表に示すように、2004年以降は互角の争いを繰り広げている。
教保文庫 年間売れ筋小説100位内の日韓の割合(教保文庫調べ)
なぜこのように日本の小説が韓国の出版市場に食い込むようになったのか。ソウルオリンピック開催(1988年)、サッカーワールドカップの共同開催(2002年)、金大中政権(1998〜2003年)のもとで開始された日本文化の開放政策、それらに影響された韓国人の日本観光の増加など、韓国人の日本に対する親近感が深まったことを、まず指摘しなければならないが、その背景にあるのは韓国社会が大きな変化を遂げたことである。軍事独裁国家から市民本位の民主主義国家になり、各種規制からの解放が現実のものとなった。国民は個人の権利を重視する生活習慣を身に付け、多様な生活様式が容認され、個性的な生き方が尊重されるようになった。
そうなると韓国よりも、そのような経験が豊富な日本のことや日本人の生活感情(感覚)や生活様式を描いた日本文学が、何かと気になる存在になってくる。私小説の伝統を持つ日本文学は、その点では多様な文学表現の実績がある。実際に読んでみると、小説のテーマや描写技法が新鮮かつ多彩で、ついその魅力にとらわれてしまうのだろう。日本文学の特徴について、ある知人は「個人の目線で物語が展開するので新鮮さを感じる」と語っていた。
日本における「韓国文学」の
翻訳出版は年間わずか21点
ここまで韓国における日本書の翻訳出版状況について述べてきた。次は日本における韓国書の翻訳出版状況である。ただし、ここでも「文学書」に限定して話を進めることにしたい。年間800点台という韓国での日本文学の翻訳出版に比べると、日本での韓国文学の翻訳出版点数は比較にならないほど少ない。2001年からの10年間の実績は次のとおり。10年間の合計は212点、1年平均では21.2点となる。
試みに08〜10年の3年分を比較すると、韓国では2555点だったのに対し、日本では58点に過ぎなかった。付け加えれば日本の人口は韓国の2.6倍である。だから同じ条件にすれば、両国の差はもっと開くだろう。翻訳書の刊行点数を比べると、日本は韓国の2.2%(50分の1)にとどまっているのだ。
日本で翻訳出版される韓国文学は年平均21点だから、日本の読者は韓国の文学作品名や作者の名前を知らないのも当然といえよう。この数年、韓国ドラマや映画、K-POPがヒットし、書店には関連の原作本、シナリオ、ノベライズ、スター紹介・ロケ地のガイドブック、ムックなどがあふれている。だから文学作品ももっと出ているのではないかと思うかもしれない。けれども安直な便乗ものを除いた「韓国文学」に限るとすれば、この程度の点数になってしまうのだ。
なぜ日本では「韓国文学」は出版される機会に恵まれないのか。出版関係者に尋ねると「売れないから」と一律の答えが返ってくる。他方、韓国では「日本文学」は「売れるから」競って刊行するのだという。出版も経済行為だから「売れるかどうか」という判断基準によって翻訳刊行が決定しているのだ。
けれども「売れる、売れない」の判断だけで、両国の刊行点数がこれほど開いているとは思われない。韓国の映画やTVドラマの場合でも、最初は日本市場でのヒットは難しいとの意見が多数を占めていた。関係者が日韓双方で試行錯誤を重ねた結果、現在のように一定の市民権を獲得するようになったのであり、それでもすべての作品の興行が成功しているわけではない。むしろ当たらなかったケースが多いくらいなのだ。ヒットするとマスコミに取り上げられる機会が増えるので、つい韓国ものは当たると錯覚してしまうが、実際はとても厳しい世界なのである。
「韓国文学」についていうなら、まだ紹介される点数が多くはないだけに、読者側が作品の面白さやダイナミズム、「情や恨の世界を発見する」までには至っていないのではないか。年間21点ではあまりにも少なすぎるのだ。30点、50点と紹介点数が増えていけば、次第に話題になるケースも現れるだろう。
出版社も認識については同じである。企画担当・編集者が韓国ものは当たらないと思い込んでいて、内容を十分に検討することさえも避けている。韓国事情や韓国語を理解しない出版関係者が多いことも隘路(あいろ)になっている。
先ごろ、SMAPの草彅剛がイ・チョルファンの『月の街 山の街』(ワニブックス)の翻訳を手掛けて本になった。有名芸能人が韓国文学を翻訳するという意外性も話題になったのか、15万部と好調な出足だという。09年末に出た韓水山『軍艦島』(作品社)も、戦時中の徴用労働者の炭鉱での過酷な労働を扱った重い内容だったにもかかわらず、すでに4刷を重ねている。韓国文学の知られざる魅力を伝えるために、さまざまな仕掛けをすることが必要なのだ。
韓国の出版情報を日本側に正しく伝えるルートの確立も必要である。出版企画・編集者、そして読者に出版情報をきちんと伝達するシステムを構築しなければならない。翻訳者の養成や支援も欠かせないだろう。日本の読者向けに韓国文学翻訳院、大山文化財団など、韓国内の出版支援機関との恒常的な連携も必要になってくる。
これらのことを段階的に築き上げ、出版環境を整備していけば、文学だけでも年間50点の刊行は十分に可能なのではないか。それは日本の読者向けに「韓国文学」に対する新たな認識を迫る、意義深い試みになることだろう。
上:2009年にベストセラーとなったシン・ギョンスクの小説「お母さんをお願い」は、米国、中国などで相次いで翻訳出版され、話題となった。
舘野晳(たてのあきら)
中国大連市生まれ、法政大学経済学部卒業、東京都庁勤務。(社)出版文化国際交流会理事、日本出版学会会員。2001年10月、韓国文化観光部長官より「出版文化功労賞」を授与される。
著書に『韓国式発想法』(NHK出版)、『韓国の出版事情』(共著、出版メディアパル)など、翻訳書に『分断時代の法廷』(岩波書店)、『現代韓国社会を知るためのハンドブック』(明石書店)、『ソウルの人民軍』(共訳、社会評論社)などがあり、共編書に『新韓国読本』(全10巻、社会評論社)などがある。『出版ニュース』(毎下旬号)に、1989年から「海外出版ニュース・韓国」を寄稿している。