日本 ―むかしむかしある時に―

ウティット・ヘーマムーン
小説家


撮影:川村格夫

2009年8月、この年の東南アジア文学賞を受賞することが決まったわずか2ヶ月後、私の心は講演へ向けて昂揚していた。国際交流基金バンコク日本文化センターから電子メールで連絡があり、国際交流基金東京本部主催の「第19回開高健記念アジア作家講演会シリーズ」講師の候補者に選ばれた、ついては2週間ほど日本に行かないかと打診があったのだ。その内容は、東京、福岡、大阪、函館の4都市で、講演会と交流を通じて互いの国の文学を学ぶという講演会シリーズの主旨に添う形で、私の人生と作品世界を語ってほしいというものだった。しかも2週間の滞在期間中、日本の様々な場所を見て歩く時間もあるという。これは私にとって素晴らしい機会であり、今回の講師に推薦されたということは大変名誉なことと思われた。


撮影:川村格夫

そんな私の脳裏に、「むかしむかしある時に」で始まるある民話の最初の言葉が突如として浮かんだのである。この言葉ほど、その時の自分の気持ちをぴったりと言い当てた言葉はなかった。 これは私の人生では初めての外国渡航だった。

バンコクのスワンナプーム国際空港を出発したのは2553年3月15日(タイ暦)。当日は蒸し暑い空気にもまして政治的な熱波が渦巻いていることが心配で、騒乱のせいで渡航に支障が出ないよう祈るばかりだった(2日後に日本で読んだ朝日新聞の一面には、赤シャツ派の人々が6リットル入りのペットボトルに血を入れ、首相府の前で高く掲げている大きな写真が掲載されていた)。翌16日の早朝に成田空港に着くと、すぐに冷気が身辺に漂いはじめ、一気に眠気を吹き飛ばされる心地がした。私は「自分は課せられた義務を果たすために日本に来たのだ。講演に招かれた栄誉に応えるよう全力を注がなくては」と自分の心に念を押した。


撮影:川村格夫

 空港ビルの外に出た私を最初に迎えたもの、それはかつて経験したことのないひどく冷たい空気だった。それからまる2週間の間、移ろい易い日本の気候は私の心に強い印象を植えつけた。日本の人々は天気予報にことのほか関心を抱いていて、テレビ番組では折に触れて天気予報が流されている。私自身もしっかりテレビの予報に注目し、時には自ら外へ出てそれを確かめたりした。東京での最初の3日間はとても寒く、特に日暮れから深夜にかけての冷え込みにはきついものがあった。逆に福岡の天気は快適で、講演前日の気温は25度もあり、太陽が燦々と輝いていたが、じきにしとしと雨に変わった。大阪と京都では降り続く雨のせいもあって、空気が肌に痛いほどに冷たかった。大阪から再度、東京へ戻ってきた後の2日間はずっと雨模様で、ちょうど空が晴れ渡った日が、函館での講演に発つ日となった。

落ち着きがあり、とても静かな佇まいを見せる函館の町で、私は特別な人のように暖かく迎えられた。チェックインしたホテルのロビーにタイと日本の国旗が並んで立てかけられてあったのだ。しかしその温かみとは正反対に、外の気温はなんとマイナス2度だった。灰色の空から雪が、ある時は強く、ある時は弱く、音もなく舞い降りている。時折風がビューと音を立てて吹きつける。浜辺を舐めるかのように渡ってくる潮風の音が微かに耳に届く。私の手は寒さでこちこちになり、とくに両耳は凍える寒さのせいで、まるで焼きたてのトーストのように、千切ればパリパリと音を立てて崩れてしまうのではないかと感じるほどだった。私は雪の積もった道路脇に立って空を見上げ、自分の顔に舞い降りる、繊細で、鋭い雪の洗礼を受けた。それはまるで何百人もの看護婦が、その柔らかな手のひらで顔中に注射の針を刺しているような不思議な感覚だった-美しく、安心感に包まれ、同時に痺れるような痛みを伴った-。


撮影:川村格夫

 ある場所から別の場所へ移動する間の道路脇の景色もとても興味深いものだった。成田空港を出て赤坂のホテルへタクシーで向かう途中の景色は、幾重にも連なる山並がことに美しかった。車は山の裾を縫うように坂になった道や、道路より高い場所にある家々を見上げるように走ったり、山を迂回した道路や東京湾へ抜けるトンネルを通過したりした。道路から見える樹木は一様に美しく、それぞれに固有な特徴を持っていた。曲がった枝をした松の木が一塊りで群生していたり、針葉樹の雑木林があった。細長の竹林が強風にあおられて揺れ、それらの間にピンク色の花びらをほころばせつつある桜の木があった。さらには濃く鮮やかなピンク色の花を咲かせている桃の木もあった。


撮影:川村格夫

私は一緒に来た婚約者の方に振り返って語りかけた。私たちは飛行機の旅で少し疲れていた。「あれを見て。松、竹林、桜、それからまた松、竹林、桜がずっと続いているよ」と私は言った。彼女が微笑みを返しただけだったので、私は続けた。「僕たちの国で言えば、クラティン(マメ科でキンゴウカン)、バナナ林、金亀樹(マメ科)といった感じかな。君、逆に言ってみてよ。金亀樹、クラティン、バナナ林......バナナ林、クラティン、金亀樹」。彼女にはそれが可笑しかったらしく、顔を赤くして笑いながら片方の手で僕の頭を軽く叩いた。「お馬鹿さん。ツーリストじゃないのよ」。「そうだった。確かにまるでお上りさんだね」と私は答えた。

 タクシーは築地の魚市場を過ぎて銀座方面へと向かっていた。私の目に両脇の歩道いっぱいに通行している人々の姿が映った。どの顔も凛とした表情で、やや早足の同じ歩幅の歩き方だった。彼らはみな濃紺のスーツを身につけ、その上にコートを着ていた。片方の手にはスーツケース。噂に聞いていた本物の日本のサラリーマン集団だ。そう思うと驚き、鳥肌が立つのが分かった。私は映画「インベージョン」(2007、アメリカ)をすぐに思い浮かべた。その他の様々な光景に出会うことで、タイとは多くの点で異なるというだけにとどまらず、あらゆる面で圧倒的に違っているようだということを私は思い知った。私の前方には東京の美しい景観がそそり立ち、自身のやり方で私に挨拶を送っている。私が知り、理解したいと望むならば、そこへ入っていくしかない。それが理解するための最善の方法なのだ。自らその中に飛び込んで求めよ。向こうから私たちに近づくのを待つな。私は自分にそう言い聞かせた。


撮影:川村格夫

 個人的な性格について言えば、私は何でも自分で知ったり、見たり、すべてを自分で試してみたい性分である。まして異郷に来たとなれば、なおさらそうである。私は武者震いした。日本は二つの面で独特の特徴を持っている。日常生活では伝統や慣習をいまも厳格に保持しながら、他方それとは対極の、娯楽や心を慰撫する世界も持っている。この両方共が私には何ら障害とはならない。私はずっと学び、知ることに飢えてきたのだ。

 私は4つの会場毎に別々のテーマで講演するための原稿を準備していた。この方法のおかげで私は講演を自ら楽しむことができたし、それぞれの会場の受講者は別々の側面の私というものに関心を持ってもらえたと思う。講演のスタートは東京会場(「表象芸術から文学へ:私の中での芸術の転換」)においてであった。受講者の数は100人を超えていた。私は体の震えを抑えることができず、カメラを取り出すと記念の写真を撮った。手振れのせいで写真はピントがぼけていた。東京でのたくさんの受講生の中には若い人も年配の人もいた。日本の大学生に混じってタイ人留学生も来ていた。様々なマスコミ機関のジャーナリストも講演を聴きに来ていた。私が講演を始めるとすぐに会場は完全な静寂に包まれた空間となった。講演をしている1時間半の間、私はずっと、もしかして聴衆の方々は私の話に退屈しているのではないだろうか、という不安につきまとわれた。しかし質疑応答の時間になると、会場のムードは一転して和やかになり、笑い声と活気に包まれた。私にとっては東京での講演がもっとも印象深いものだった。


撮影:椎原一久

 福岡でのテーマ(「叙述の力:事実と虚構の間で」)は、題目がやや堅苦しく、内容もまた難しかったので、自分が制作した芸術作品を映像で紹介した。しかし、聴衆の方々はきちんと理解して下さったと思う。講演後に、そのような評価があったと聞いたからだ。福岡はアジアの現代文化を紹介する活動を行っている芸術都市である。ここでの受講者は、およそ40〜70歳代の年配の方が多かったので、会場での私はまるで若造のような存在であった。講演の間、ある箇所で私はやや性的な話をした。その際、私は正直に、自分は芸術の世界に生きる人間であり、出家者ではないからだと説明した。すると2〜3人の聴衆の間から大きな哄笑が起きた。私はその笑い声に理解の絆を感じた。


撮影:椎原一久

大阪では東京の場合と似通っていて、若者からお年寄りまでと聴衆の年齢幅が広かった。タイ語を学んでいる日本の大学生や、日本の大学で教えているタイ人の教授も混じっていた。聴衆の数は約100人だった。誰もが熱心に話(「芸術の世界:私を虜にした文学の魅力」)を聞いてくれた。みな真面目な表情で、私の講演をメモしている人が何人もいた。真剣に講義を聴く、そんな雰囲気だった。ここでは私は、いかにして自分の中で造形美術、文芸、音楽、映画といった芸術ジャンルが溶け合い、自分が徐々に今日作家と呼ばれる人間となったのか、そのプロセスについて語った。

 全体が静けさに包まれた函館での講演(「作家の立脚点:現代タイ文学のこれから」)では、私が滞在した2日間の間ずっと雪が降り続いた。それは講演を聴きに会場にやってくる聴衆の方々には障害となった。そのため参加者は他のどの会場よりも少なかった。しかし、そんなことは問題ではなかった。なぜなら、函館の人々は明るく、友好的な心に満ちあふれていたからである。私が会った人物はどの人もとても親切で優しかった。外気の厳しい寒さにも関わらず、この地の人々の心は温もりで満ちていた。


撮影:椎原一久

 各都市では、私は時間に余裕のある限り色々な名所を訪ねた。私の意識は昼夜に関係なくずっと目覚めていて、1日が24時間以上あればなあと何度も思ったものだ。過ぎ去った日本での日々を思うと、私は日本での滞在時間がもっとあったら良かったのにとつい溜息をつく。しかし、自分が日本に行けたこと自体がすでに大きな幸運だったことは間違いない。2週間という短い滞在期間であっても、とても素晴らしい体験ができた。とくに奈良、桂離宮や東京の様々な場所を訪ねることができたのは貴重な体験だった。東京では渋谷の大きな交差点に立ち、色彩と活気に溢れた町の細い路地を歩き回った。漫画専門書店の「まんだらけ」や夜の繁華街の様々な表情、それらもまた素晴らしい体験だった。私が会った人物については言うまでもない。とくに津島祐子氏のような著名な日本の作家との対談は忘れられない思い出となった。


撮影:Atsuko,Takagi

 いろいろな都市に行ったものの、それでも足を伸ばせなかった場所はたくさんある。こうした機会の喪失を私は惜しむべきだろうか?考えてみると、ある機会の喪失は、同時に自分に別の機会を与えてくれるものでもあったのだ。私はまだ訪ねる機会のなかった多くの場所が日本にあることを喜びたい。そうであるからこそ、それは私が再び日本を訪れるであろう理由となるのである。

 日本で暮らした2週間は、創作上のたくさんの素材を私に与えてくれた。新しいことを学ぶと同時に、自らの内部を検証する機会にもなった。このような素晴らしい機会を与えていただいた全ての関係者に心からお礼を申し上げます。今、私は日本について多くのことを書きたくてうずうずしている。きっとそう遠くない日に、日本に関して私が著した本が人々の目に触れることになるはずだ。

翻訳:宇戸清治

略歴


撮影:Atsuko,Takagi

ウティット・ヘーマムーン
小説家

長編小説『ラップレー、ケンコーイ』で2009年度の東南アジア文学賞を受賞。筆者のこれまでの作品には、短篇集『思考の容積』、長篇小説『性交ダンス』『影の鏡 / 鏡の影』、評論集『一五一の映画』がある。アジア各国の作家に来日講演を行なってもらう国際交流基金主催『開高健記念アジア作家講演会シリーズ』の招きで2010年3月16〜29日の期間日本を訪れ、東京、福岡、大阪、函館で講演を行った。

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