2020.9.29
文化・芸術による地域づくりや、多様な文化の共生、国際相互理解等を目的に、日本全国で多くの団体が国際文化交流活動に取り組んでいます。国際交流基金は、そんな人々をサポートしようと1985年から「国際交流基金地球市民賞」を創設、日本と海外の市民同士の結びつきや連携を深め、互いの知恵やアイデア、情報を交換し、共に考える団体を応援しています。
第35回となる2019年度の受賞団体のひとつ「ハート・オブ・ゴールド」(岡山県岡山市)の代表理事・有森裕子さん(五輪女子マラソンメダリスト)に、スポーツを通じた国際協力の可能性等について伺いました。
認定特定非営利活動法人「ハート・オブ・ゴールド」
~国を越えて変化をもたらすスポーツの力~
インタビューに答える「ハート・オブ・ゴールド」代表理事の有森裕子さん
――1992年のバルセロナ、1996年のアトランタ五輪の女子マラソンで銀、銅メダルを獲得したマラソン選手という立場から、どのように「ハート・オブ・ゴールド」の立ち上げに至ったのでしょうか?
「大阪国際女子マラソン」の創設に関わったサンケイスポーツの結城肇さんたちが中心となって、1996年に「第1回アンコールワット国際ハーフマラソン」を立ち上げることになりました。「ランナーズエイド」(市民マラソン大会の参加費の一部を開発途上国の支援に充てる活動)の企画でした。スポーツを通じて国際的にチャリティーを行う手法として、いち早く使われたのがマラソンでした。そのゲストとして、ちょうどアトランタでメダリストになった私に声がかかりました。「(今までは)自分のために走ってきただろうけど、人のために走らないか」と。
第1回開催時の有森さん(中央)。子どもたちと一緒にゴールを目指す(ハート・オブ・ゴールド提供)
一方で、その頃偶然に、カンボジアの対人地雷被害者の義手義足をつくる「カンボジア・トラスト」という団体の活動をテレビ番組で見て、私は元々ものづくりが好きなので、その細かい手作業にすごく興味を持って、現場を見てみたいと思っていたんですね。そこにゲストランナーの話が来て、マラソン大会の支援金が「カンボジア・トラスト」にも寄付されると聞き、また、実際に義手義足の作業の現場も見学できるということで、お受けしたんです。カンボジアの事情についてはまったく知らなくて、行ってみたら、自分が日常で見たことのない光景が目の前にありました。「うわぁ」っていう現場がいっぱいあって。
参加ランナーのほとんどは日本人で、応援の旗を持った現地の子どもたちが等間隔に並んでいました。その時に、当時ありがちな、物資をいっぱい持っていって提供するということをやりました。子どもたちが何回も列に並びなおして、何個も取っていくっていう。それが良かったかどうかは別として、当時の支援といえば、物資の提供しか浮かばなかったんですね。「こんな状況でスポーツなんか必要なのかな? 食べていくのさえ大変なのに、体力使ってお腹空いたら大変じゃないか......」と感じながら。いろんなことを知ることができましたが、ゲストとしての誘いはこの1回で終わるんだろうなと思っていました。
第2回大会のスタート時。前列右から3人目に有森さん、前列左から4人目にはフン・セン第2首相の姿も(ハート・オブ・ゴールド提供)
ところが翌97年、カンボジアは内戦の危険度が高い状況の中、またこの大会の誘いが来ました。他のゲストはみんな断っているわけです。私も「いやぁちょっと......」となったんですが、結城さんは「こういう時だからこそやるんだ」と言うんです。
結局、自分にしかできないことや、自分がやってきた中でできることがあって、それを最大限に生かせるのであればと考え、人がやらないことをやるのも好きだし(笑)、とりあえずどんな状況かわからないながらも、もう一度カンボジアに入りました。その時に見た光景が、第1回とガラッと違っていたんです、良くも悪くも。ものすごく物々しかったですよ。そういう状況の中で大会をやるというのはすごく大変でした。安全に開催するために、当時の第一首相と第二首相をマラソン会場に呼んで並んで走ってもらい、それを国内のテレビで流しました。敵対する首相ふたりが並んでマラソンに参加していることによって、世界中にカンボジアは平和だということを発信しました。
――首相自身が走られたんですね!
そうそう、30mくらいですけどね。アンコールワット周辺はもう人だらけで、物々しさと同時に、にぎやかさも一緒に見せることができました。第1回開催時は何も持っていなかった子どもたちが、1回目にあげたすべてのものを身に着けて、うれしそうに会場に来ているわけですよ、ニコニコしながら。とにかく楽しみを待っていたかのごとくね。その活気づいた姿が見えて、「あぁ、すごいなスポーツって」と。たった一つのこのマラソン大会が、こんなに人々や雰囲気を変えたということに私自身も驚きました。自分のやってきた、生きるための手段に使ってきたスポーツというものが、こんなことにも生かせるというのを初めて教えられた。あぁ走ってきて良かったな、こんなことができるんだなって。それが、私が支援活動に携わる根源ですね。変化を起こせる力がスポーツにはあるということ、前向きなものとして、万人に、国籍など関係なく、何か変化をもたらすことができるっていう感動というか、この気づきが新鮮で楽しかったし、メダルを取った時よりもうれしかったですね。
――それが1998年の「ハート・オブ・ゴールド」立ち上げの出発点なんですね。
3回目の大会は、単に呼ばれて行くのではなく、私も自主的に関わりたいと思ったし、生きる力をもらったので、継続的にやっていけるような仕組みをつくりたいということで、当時は存在しなかったスポーツのNGOを立ち上げようと決めました。「第1回アンコールワット国際ハーフマラソン」を立ち上げた結城さんや、同大会の報告パネル展に関わってもらったNGO「AMDA(アムダ)」*¹ の方にアドバイスをいただき、バルセロナ五輪女子マラソン銅メダリストのロレーン・モラーさん等にも入っていただいて、私が代表となって立ち上げました。
当時、「ハート・オブ・ゴールド」の事務局は、AMDAで働いていた田代邦子さん(現事務局長兼副代表理事)のみ。あとはみんなボランティアです。
――国際協力やマラソンに関わる方だけでなく、いろいろな方が支援されていたんですね。
そうですね。そこに専門的にスポーツを通した国際活動に関わりたいという学生2名が、そういう団体がうちしかなかったので入ってきてくれました。そのうちの一人、山口拓(現筑波大助教)を大学院卒業後、アジア地域事務所長としてカンボジアに派遣しました。現地に事務所ができたことによって、現地の人間とのコミュニケーションを徹底的にとってもらったんです。国が違えば価値観は当たり前に違いますし、その辺のやりとりがネックだったので。その頃は、「アンコールワット国際ハーフマラソン」の立ち上げに関わった人たちが抜けてしまった時期で、いきなり全部「ハート・オブ・ゴールド」に運営が移譲されたので、カンボジアサイドと、とにかくてんやわんやという感じでした。
――現地とのコミュニケーションの難しさはどうやって乗り越えられたのでしょうか?
もう話すしかないですね。向こうは相当嫌だったと思いますよ(苦笑)
――何回も説得するのですか?
説得というか、基本、「あなたたちがどうしたいかが大事ですよ」ということを伝えました。何がしたいじゃなくて、あなたたちは何ができるの? と。「できるものがあって、これができないのなら手伝うよ、できることはあなたたちがやって。基本私たちがするわけではないから」という立ち位置の確認をしないと駄目です。
援助とか支援という活動は何なんだろうって。この頃は、国連人口基金(UNFPA)の親善大使としてもカンボジアに入っていたので、支援活動がどういうものかっていうのをよくよく思い知らされた時期でしたね。
――2013年の第18回大会で運営をカンボジア側に全面移譲されるに至っていますが、現地の人のマインドもだんだん変わってきたのでしょうか?
いやもう、相当時間がかかりましたよ。国内政治が落ち着いていなかったので、活動を継続し、点を線に、線を面に広げていくにはしばらく時間がかかりました。カンボジアの教育・青年・スポーツ省が、体育科教育を国内に普及するための組織をつくるまでが大変でした。現地で一生懸命コンタクトをとり、国際協力機構(JICA)に指導を受け、情報を集めながら、次の活動の準備をしました。歴代の在カンボジア日本大使にも、カンボジア入りする度に訪ねて行って、ずいぶんお世話になりました。
マラソン大会を中心にシンボライズして、とにかくカンボジアのいろんなところでスポーツを根付かせていく、スポーツ・体育科教育を通して心身ともに健康になれば、国も栄えていくという絵を描きながら。
カンボジアの小学校の運動会で勝利に歓喜する子どもたち(ハート・オブ・ゴールド提供)
――地元の人は最初から歓迎して受け入れてくれましたか?
基本はね。でも途中はけっこう煙たがられましたよ。(全部を)やってくれないって。で、その度に話し合いでしょ。現地の人は(約束をしていても)時々来ないし(笑)。ほんとによく粘って続いたなぁと思いますね。でも、その中に何人かいたんですよ、カンボジアの国づくりを本気で考えている人々が。そういう人材に出会え、共に活動できたことが最終的に現地で根付くきっかけでした。よって「ハート・オブ・ゴールド」は、私自身というより、現地でしっかり引っ張っていってくれた事務局の人間たちが頑張ったと思います。
――マラソン運営をカンボジア側に移譲されたのは、現地からの要望ですか?
現地からの要望です。いつまでも自分たちが主導権を握れないことへのジレンマが出始めた頃でした。正直まだまだ心配なことはありましたが、自立の時がやってきたと思い、それから全面移譲に向けての話し合いがなされ、この大会の趣旨とチャリティーであることが継承され、透明性のある運営がなされること等を約束した覚書を交わしました。覚書では、「アンコールワット国際ハーフマラソンは、日本とカンボジアの友情のシンボルとして組織され、カンボジアのスポーツ発展のために寄与する」と締めくくられました。
大会側の要望で、私が大会運営に関わってきた日本側の組織代表として、終身名誉会長となってアンコールワット国際ハーフマラソンに招待されることが決まり、2013年に全面移譲しました。
――最近はどうでしょうか。
移譲後も参加者、参加国は増えてますます盛大ですが、大会を開いているといろんなことが起こり大変です。一生懸命やっていますけどね、彼らも。政府から突然、「イベントをやるからスタート地点を変えろ」と言われ、国際大会はそんなに急にコースを変えられないし、急にコースを変えると、「国際マラソン・ディスタンスレース協会(AIMS)」*² 公認レースが危うくなりそうなこともありました。
――尊重する部分と、「どこまではOK」というような譲れる部分の判断が難しいですよね。
こちらが「OK」と言える立場なのかと言われれば、それはそれで疑問に思います。だからこういった活動って、誰のためのものなんだろうって、それは永遠に謎ですね。いいことなんだけど、いいことって本当に厄介だなと思います(笑)。いやぁ、しんどいですよ。ただ、こういったことを通して人生が切り開ける、それは私たちもそうですし、いろんな気づきをたくさんもらったし、誰かのためというより、自分のためになったことも山ほどあるし、結局はそれでいいんだろうなって。
――20年以上活動されているので、始動時のお子さんはすでに成人されている年齢になりますね。
そうですね。活動に参加した青少年や子どもたちが20歳代になって、スタッフとしてカンボジアの事務所に入ってきています。これからも、より人材の育成に注力したいですよね。これはまだ計画が立っているわけではないですけど、カンボジアの事務所である程度育ったら、日本の事務局に入れるというのも一つの手かなと思っています。教育の充実と、人材をきちんと育てるということさえできれば、あとはそんなに心配はないのかなって。それは国連の活動でも思いました。善悪や、正しいか正しくないかを決めるというよりは、きちんとした教育の現場と、心身ともに健全な人を育てるために教育するということが、何よりも大事なのかなと思いました。
日本語教室の生徒たちに囲まれる有森さん。この中の5人が日本への留学を経験(ハート・オブ・ゴールド提供)
――「ハート・オブ・ゴールド」は、有森さんのご出身地である岡山県の学校でも留学生を受け入れる等、地域や日本国内でも活動を広げられていますね。今後は教育活動に注力されていくのでしょうか?
一緒に活動してくださる学校がある等、岡山県そのものが非常に協力的で、地元としてやりやすさがありますね。カンボジアの貧困層の子どもたちが、留学のチャンスをもらうことによって、成長して自立していくところを見たり、指導者が学校現場を体験して、持ち帰ってますますやる気を出したり、やはり人材育成・人材交流の流れがうまく回っていけば、一つのいいモデルになるだろうなって。そこはすごく、これからが楽しみです。イベントも有効ですが、今後もやっぱり教育に力を入れたいです。
すでにカンボジアの小・中学校の学習指導要領・指導書を作成し、モデル校で体育が導入されています。また、現地に初の4年生体育大学が開講したので、そこで教師を育てていければ、彼らが今度は自分の国のいろんな教育現場で指導ができる。そういったちゃんとした指導によって子どもたちを育成するという流れができれば。まだもう少し時間がかかりますけどね。
2019年度国際交流基金地球市民賞伝達式にて。受賞を喜ぶ「ハート・オブ・ゴールド」の関係者の皆さん
*¹ AMDA
世界32の国と地域にある支部のネットワークを生かし、多国籍医師団を結成し、災害や紛争発生時、医療・保健衛生分野を中心に緊急人道支援活動を行っている。事務局は岡山市。
*² 国際マラソン・ディスタンスレース協会(AIMS)
120以上の国と地域にわたる450を超える世界的な長距離レースで構成される会員制組織。同協会の認定大会はオリンピックや世界選手権に出場するための資格タイムとして有効になる。
★「ハート・オブ・ゴールド」の活動紹介動画は以下の国際交流基金公式YouTubeチャンネルで公開中です。
有森 裕子(ありもり ゆうこ)
認定特定非営利活動法人「ハート・オブ・ゴールド」代表理事。バルセロナ/アトランタ五輪女子マラソンで銅メダル/銀メダルを獲得。後にプロ宣言し、2007年「東京マラソン」で引退。国内外の大会やスポーツイベントに参加する一方、国際的な社会活動に取り組んでいる。国際オリンピック委員会(IOC)「スポーツと活動的社会委員会」委員、公益財団法人日本陸上競技連盟理事、一般社団法人大学スポーツ協会副会長、公益財団法人スペシャルオリンピックス日本理事長等を務める。
国際交流基金地球市民賞
https://www.jpf.go.jp/j/about/citizen/
2020年7月 於・国際交流基金本部オフィス
インタビュー・文:寺江瞳(国際交流基金コミュニケーションセンター)
※インタビューは新型コロナウイルス感染対策に配慮して実施しました。