2019.12.20
岡島尚志(国立映画アーカイブ館長)
8月29日の夜、横浜桜木町にあるシネコン・横浜ブルク13を会場に「越境するアフリカ――新たな連携をめざして」という名のシンポジウムが開催された(主催:国際交流基金、外務省、ユネスコ)。これは同時期に横浜で行われた第7回アフリカ開発会議(TICAD7)の公式サイドイベントという位置づけのもので、討議に先立ってアフリカ映画『密林の慈悲』(2018年、ジョエル・カレケジ監督、フランス=ベルギー=ルワンダ合作)の上映会も行われた。
パネリストは司会を務めた筆者を含めて7人で、日本を代表する映画監督の河瀨直美氏、『密林の慈悲』の製作者オーレリアン・ボディノー氏、シネマアフリカ代表の吉田未穂氏など錚々たる顔ぶれが揃ってのディスカッションとなった。旧知のアフリカ人はただ一人、ブルキナファソからやってきたアルディウマ・ソマ氏で、これまで映画保存の国際団体・国際フィルムアーカイブ連盟FIAF(フィアフ)の会議で二度ほど、ご一緒している。相変わらずの貫禄で、ワガドゥグ全アフリカ映画祭「FESPACO(フェスパコ)」*代表として、アフリカ映画の重要性を語ってくれた。
もう一人のアフリカ人、「ナイジェリアの映画界で最も有名な製作者の一人」と紹介されたアブジャ国際映画祭代表でもあるフィデリス・ドゥカー氏もまた、「映画人は世界中どこでもよく似ているな」と感じさせる素晴らしい紳士であった。周知のように、ナイジェリアは、インドと並んで、世界でもっとも多くの映画が作られている国である。ドゥカー氏によれば、年間に製作・公開される自国映画の数は約2000本で、しかもその8割近くが恋愛映画だという。1億9000万の人口を有するアフリカ屈指の経済大国で、明るく健全で、夢のある楽しい映画が作られ続けているということだろう。「保存が大変ですね」と言ったら、真顔になって、「みんなで考えなくては」と呟いた。国や映画界を挙げて映画を保存し、適切なフィルムアーカイブを設立し、そのために十分かつ継続的な予算措置を講ずることは、アフリカのどの映画生産国にとっても喫緊の課題である。
司会を引き受けたとはいえ、筆者にとってアフリカ大陸は依然としてとても遠い。行ったことがあるのは、2回だけ、それも北にあるモロッコのラバトと南アフリカのプレトリアで、いずれもFIAFの会議であった。前者が行われたのは2001年でシンポジウムテーマは「植民地と映画」、後者2011年のそれは、「アフリカと世界における現地固有の映像遺産」であった。どちらも厳しい映画保存の現実を思い知らされた機会である。
ところで、「アフリカと映画の関係で思い浮かぶのは?」と問われて、映画好きな60代くらいの日本人――つまり「私」の世代の平均的な映画ファン――はどう答えるだろうか。残念なことに、ごくわずかな知識や記憶しかないのが普通である。案外、最初にアフリカ映画とは呼べない作品を挙げてしまう人が多いのかもしれない。アメリカ製娯楽映画なら、まずハワード・ホークス監督の『ハタリ!』(1961年)、無声映画ならトッド・ブラウニング監督の『ザンジバルの西』(1928年)、フランス映画ならジャン・ルーシュ監督の『僕は黒人』(1958年)といった作品、日本なら羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』(1965年)、『アフリカ物語』(1980年)といったところが、まず脳裏をよぎるのである。つまり「私」たちは、40年近く前に大ヒットした、ナミビア人俳優ニカウさん主演の『ミラクル・ワールド ブッシュマン』(1980年作品で、現在は邦題を『コイサンマン』に改めている)を懐かしく思い出したり、比較的近年ならクリント・イーストウッド監督の『インビクタス/負けざる者たち』(2009年)に感動したり、あるいは、ロケ地に選ばれてはるか遠くの惑星の風景になる、いわば無名性を担わされたアフリカを知っている程度なのである。もちろん「私」たちは、例えば、DVDを手にして、スタンリー・ベイカー主演の英国映画『ズール戦争』(1964年)と、コリンヌ・ホフマン原作のドイツ映画『マサイの恋人』(2005年)と、1994年のルワンダ虐殺を描く二作『ホテル・ルワンダ』(2004年)、『ルワンダの涙』(2005年)と、トム・ハンクス主演の『キャプテン・フィリップス』(2013年)などの間を簡単に行き来できる時代に生きてはいるが、「本物」のアフリカ映画に出会うことはむしろ稀なのである。
1970年代、80年代を中心にアフリカ映画を一番熱心に興行してきたのは岩波ホールだろう。とりわけセンベーヌ・ウスマン監督のセネガル映画『エミタイ』(1971年)、『チェド』(1976年)、『母たちの村』(2004年)といった優れた作品を上映した功績は大きい。あの頃の公開作でいえば、岩波ホールではないが、昨年亡くなったブルキナファソのイドリッサ・ウエドラオゴ監督による『ヤーバ』(1989年)や『掟』(1990年)も印象的であった。それらには、今思い出しても、主人公や風景の向こう側に、物語を超えた高貴で超越的な何物かが宿っていたような気がする。
そうした小さな、しかし重要なアフリカ映画ブームの後、「本物」のアフリカ映画にたくさん出会える機会を作ったのは、なんといっても関係者のただならぬ努力によってこれまで実現されてきたいくつもの草の根的なアフリカ映画祭であった。その歴史や業績については、今回のイベントのために編集・出版された冊子『アフリカ映画の世紀』(国際交流基金刊)に詳しい。ちなみに国立映画アーカイブの前身である東京国立近代美術館フィルムセンターでは、シネマアフリカ実行委員会との共催により、2010年11月に日本=南アフリカ交流100周年を記念して「シネマアフリカ2010」が開催された。1984年の「国際交流基金アフリカ映画祭」から数えて26年のその年、19番組、30作品(短篇を含む)のアフリカ映画が上映された意味は大きい。
今回のシンポジウムに先立って上映された『密林の慈悲』(2018年)は、驚くべき映画であった。今年のFESPACOでグランプリを受賞した作品で、1998年、第二次コンゴ戦争を背景に、ジャングルに迷い込んだルワンダ軍の兵士2人が必死に原隊へ復帰しようとする苦闘のさまが、右往左往する彼らの極限の心理状態とともに綿密に描かれている。画面からほとばしるエネルギーや熱量に圧倒される90分であった。鑑賞の途中、ふと、2人の兵士の関係が黒澤明のいくつかの作品の主人公に重なって見え始め、鑑賞後に、コンゴのジャングルをシベリアのタイガ(針葉樹林)に置き換えれば、黒澤のソ連・日本合作映画『デルス・ウザーラ』(1975年)になるような気がした。製作者ボディノー氏は、そんな私の不躾な問いかけに、「(そうした比較は)むしろ光栄です」と答えて、ほほ笑んでくれた。
アフリカには、あらゆる種類の巨大な自然があって、ほかにない美しさを映画に加えている。ジャングルもその一つであることはいうまでもない。日本も森の国だが、私見では、黒澤明以降、もっとも森を美しく――あるいは映画的に、時には神話的にさえ――見つめてきた映像作家が河瀨直美氏であると思う。氏の映画を網羅的に上映する日本で初めての一大レトロスペクティブ「映画監督 河瀨直美」が12月24日から、京橋の国立映画アーカイブ(長瀬記念ホールOZU)で始まる。
河瀨映画を見ながらアフリカ映画を考えるのも、その逆も共に一興か――牽強付会な想念が、3か月を経た今も胸中にあって、『密林の慈悲』の記憶をありありとよみがえらせる。