2018年9月号
小西広明、酒見志奈子
ニューデリー日本文化センター
2017年9月14日、安倍総理大臣がインドを訪問し、モディ首相と日印共同声明を発表しました。その中に次のような文言があります。「両首脳は、より幅広く緊密な産業協力を達成するために、インドにおける日本語教育を拡大させる重要性を認識した。この点について両首脳は、今後5年間で、インドの100の高等教育機関において認証日本語講座を設立し、1,000人の日本語教師を育成する取り組みを行うことを決定した」。
これを受け、日印両政府による日本語教師育成センター設立に向けての動きがスタートしました。
インドにおける日本語教育
インドで日本語教育が始まったのは1954年、アジア初のノーベル文学賞受賞者であるラビンドラナート・タゴールが設立したビシュババラティ大学がその最初です。同校は博士課程までを有し、優秀な人材を数多く輩出しています。その後1969年にデリー大学、1972年にはジャワハルラル・ネルー大学(Jawaharlal Nehru University以下、JNU)でも日本語教育が始まりました。しかし、こうした高等教育機関での日本語教育は、日本研究者、特に日本文学研究者のための日本語という側面が強く、だれでも日本語を学べるというものではありませんでした。1974年度国際交流基金調査『海外日本語教育機関一覧(昭和50年)』によれば、当時の全世界の日本語学習者数は77,827人で、インドの日本語学習者数はわずか573人です。そのころインドの人口はすでに6億人を超えていました。その後、世界の日本語学習者数は確実に増え続け、1990年度国際交流基金調査『海外の日本語教育の現状』では、全世界の学習者数は981,407人に達しますが、インドの学習者数は、このうちの1,407人です。この傾向は近年まで続き、全世界の学習者数が365万人を超えた2009年になっても、インドの学習者数は4,253人でした。
外国語教育の難しさ
インドで外国語学習者数が少ないのは、実は日本語だけに限った話ではありません。2018年現在13億を超える人々が住むこの国は、200以上の言語が話されていると言われており、公用語だけで20言語を超えています。この多様性、使用言語の多さが外国語教育の普及を難しくしています。連邦政府の公用語であるヒンディー語は、使用人口が3億人に満たないとも言われている一方で、特に知識層にとって、英語は外国語ではなく第二の母語であると考えられています。
中等教育政策の中に「3言語政策」と呼ばれるものがあります。州の公用語と、連邦政府の公用語であるヒンディー語、英語の3言語を学ぼうというものです。例えば、インド第二の都市ムンバイがあるマハラシュトラ州はマラーティー語を州の公用語としています。ムンバイの人々は、うちでは家族とマラーティー語で話し、学校ではヒンディー語と英語を学びます。どの言葉も単なる学習言語ではなく、日常生活を生きていくための言葉であり、誰もが複言語社会を生きています。
日本語教師育成センターが設置されたジャワハルラル・ネルー大学のUGC-Human Resource Development Centre
今なぜ日本語教育か
このように、誰もが複数の言語を使って生きているインド社会で、さらに日本語教育を拡大させる理由として、先の日印共同声明は「より幅広く緊密な産業協力を達成するため」としています。首脳会談では安倍総理大臣から「インドでの日本語教育強化は、ビジネスや人的交流の裾野を拡げるもの」だとの指摘があり、インド側モディ首相からも「インドでの日本語教育強化の重要性を理解、日本との連携を進めていきたい」旨の発言がありました。インドでは、新幹線方式による高速鉄道計画が進んでおり、「メイク・イン・インディア※」のための日本の貢献が期待されています。また日本でも、高度人材、特にIT人材としてのインド人に熱い視線を注いでいます。これが「幅広く緊密な産業協力」であり、そのために「両首脳は、今後5年間で、インドの100の高等教育機関において認証日本語講座を設立し、1,000人の日本語教師を育成する取り組みを行うこと」を決定しました。そして今年7月23日、日本語教師育成センターがJNUのUGC-Human Resource Development Centre内でスタートしました。
2018年7月23日、JNUコンベンションセンターで行われた日本語教師育成センター開所式にて、あいさつをする櫻井友行国際交流基金理事。
開所式の様子
2018年7月23日、日本語教師育成センター開所式、「教師育成コースA(360H)」開講式がJNUコンベンションセンターで行われました。日本側より平松賢司大使,櫻井友行国際交流基金理事他が、またインド側より、V. K.シン外務閣外大臣、ジャガデシュ・クマールJNU副学長等が出席し、会場は厳粛な雰囲気に包まれました。
受講生たちは期待と不安に胸を膨らませ、若干緊張した面持ちでした。そんな受講生たちも開講式後のオリエンテーションでは、時折笑顔をのぞかせるようになりました。講師からは、出席状況や成績、学習態度いかんによっては退学もあり得ることなど、受講に関して厳しい言葉もありましたが、真剣に講師の言葉に耳を傾け、教師への新しい一歩を踏み出した受講生たちがそこにいました。3か月後の彼らの成長が楽しみです。
オリエンテーションが終わったら、受講生たちは解散...ではなく、レベルチェックテストの筆記試験と口頭試験を受けなければなりません。受講生たちは再び緊張の面持ちで、試験に臨んでいました。
積極的に授業に参加する受講生たち
授業風景
開所式の翌日から本格的な授業が開始されました。1限目の授業は9時半からですが、授業初日には8時半前に来ている受講生もいました。遅刻する受講生はほとんどいません。
開講して2週間が経つころには、初級文法の復習だけではなく、「音声」、「文法」といった、受講生にとって初めて学ぶ日本語教授法の授業も始まりました。授業中、教師は学習者のためにさまざまな配慮が必要です。初級文法の復習の授業でさえ、受講生たちは教師としての行動が求められます。例えば、ホワイトボードに答えを書く時の文字の大きさ、他の受講生に説明するときの体の向き、資料を見せるときの持ち方などです。受講生の中から「今まで、いかに何も考えてこなかったかに気が付いた。」という声も聞こえてきました。これからもいろいろなことを発見していってほしいです。
受講生たちはレベルの差こそあれ、みんな積極的に授業に参加しています。授業後も担当講師は質問攻めの毎日です。講師達にとっても初めてのプロジェクトで手探り状態ですが、やる気にあふれた受講生たちとの授業は楽しく、刺激的な日々を過ごさせてもらっています。
受講生たちの声
さて、授業開始から約2週間後、授業の感想や将来の抱負を受講生3人に聞いてみました。
Preet Vidyanandさん
私は以前、日本に留学していました。公民館などで日本文化を学んだのをきっかけに、インドに帰った時、日本語を広めたいと思いました。『まるごと』はインドでも販売されています。私は『まるごと』を使って授業をしたいと思っていますが、『まるごと』の教え方をきちんと学んだことがないので、このコースに申し込みました。
将来、私の学生達には日本語だけではなく、日本の文化、ビジネスマナー、経済大国になった秘密なども教えてあげたいと思います。私たちが住む世界をより良くするために自分が学んだことを社会に還元したいと思います。
このコースは授業の流れがきちんとしていて、よく分かります。3か月の短い期間で、たくさんのことが学べるのか不安もありますが、前向きに、楽しく頑張りたいと思います。
Tanushree Sandilyaさん
私の出身地のビハール州では、日本語に興味を持っている人はたくさんいますが、学校もなく、勉強するためにはデリーまで行かなければなりません。私はこのコースで日本語力を磨き、ビハールの人たちに日本語を教えたいと思っています。
コースの勉強は大変ですが、クラスメイト達はみんな「本当にいい先生になりたい!」と心から思っています。授業の後も寮に戻って、いつもコースのことをみんなで話しています。私にとってこのコースは、学生としても教師としても、とても大切です。
将来、私は自分を教えてくれた先生方のような先生になりたいです。ビハール州で、日本らしさが感じられる授業をしたいと思っています。
Vaidehi Mulayさん
私は初級と中級の学生に日本語を教えたことがあります。今まできちんと教授法を勉強したことがないので、きちんと教え方を勉強したいと思い、このコースを受講しました。
コースを受けて2週間が経ちますが、このコースを受けて本当によかったと思います。このコースでは、一人ずつ自分の意見を発表する機会がたくさんあります。このコースに入る前から見ると、今の私はだんだん成長してきたなと感じます。みんなの前で意見を発表することで「自分」を持つようになりましたし、自信がだんだんついてきました。きっとこのコースが終わった後、私の教え方はとても変わっていると思います。
私は将来、自分の学生達にもさまざまな活動を通し「自分」を持たせられるような教師になりたいです。
インタビューに答えてくれた、Tanushree Sandilyaさん、Vaidehi Mulayさん、Preet Vidyanandさん(左から)
受講生たちは毎日出される多くの課題に真剣に取り組んでいます。それらの多くは、教科書に答えのないもの、また、一人で正解を探すのではなく、他の受講生たちとの議論を通し、考えを深めていくもの、答えは一つと決まっていないものなどです。これまで経験してきた勉強のスタイルが通用しないことも多いでしょう。しかし、日本語教師の仕事は、同僚の教師達や事務スタッフと協力し、試行錯誤を重ね、課題を乗り越えていくことではないでしょうか。そのために、この3か月間、同じ教室で学ぶ仲間たちとの時間を大切にし、切磋琢磨していって欲しいと願っています。
日本語教師育成センターでは、いくつかの異なるコースを開講予定です。メインとなるのはもちろん7月23日に始まった「教師育成コースA (360H)」で、主に理工系高等教育機関の教師を育成するコースです。1期30人、年に60人の教師を新規育成します。5年間で300人の先生が新たに生まれることになります。週に30時間、12週間で360時間という本格的なコースで、修了者にはインド外務省の事務次官、駐インド日本大使が署名した修了証書が発行されます。これほど本格的な教師養成コースは、長いインドの歴史の中でも初めてのことです。また「教師育成コースB (30H)」は主に日本語を学ぶ大学生を対象としており、デリーのほか、プネ、シャンティニケタン、チェンナイの全国4か所で実施予定です。
新たに教師を育成するだけではなく、現職教師の研修も日本語教師育成センターの重要な仕事です。中等教師研修、大学教師研修、民間学校の先生も参加しやすい研修などを考えています。さらにはデリーでの研修だけではなく、ムンバイ、コルカタ、ハイデラバードなど各地域の特性を生かした研修の実施も大事な仕事です。広いインドでは、比較的若手の教師が多い地域、教師会が中心となってネットワークが形成されている地域など、地域によってさまざまな特徴、個性があります。どこの地域にいても均質の研修が受けられることを保証するとともに、地域に根差した教師の研修が大切になってきます。今後も、日々成長する受講者とともに、日本語教師育成センターを発展させていきたいと考えています。
日本語教師育成センターで本格的な教師養成コースが開講。講師とともに最初の授業後に笑顔を見せる受講生たち。
※モディ首相が2014年に発表した政策。国内外の企業からの投資を促進し、インドの高い経済成長率と雇用創出を目指すために効率的な行政を実現することを目的とする。
小西 広明(こにし ひろあき)
国際交流基金派遣専門家。1993年バングラデシュ、ダッカ大学を皮切りに、タイ、パキスタン、中国、韓国、マレーシアで20年以上にわたり日本語教育に従事。2016年6月よりニューデリー日本文化センターに勤務。「早く、安く、うまくなる」日本語教育がモットー。
酒見 志奈子(さけみ しなこ)
国際交流基金派遣専門家。福岡県出身。青年海外協力隊として中国で活動後、大学院進学。2015年よりカイロ日本文化センターでまるごと日本語講座の運営を担当。現在インドで日本語教師育成センターの運営を担当。