記憶としての建築に関する文化観の違い~「3.11-東日本大震災の直後、建築家はどう対応したか」展を韓国4都市で開催

ソウル日本文化センター
山崎宏樹



未曽有の被害をもたらした2011年3月11日の東日本大震災からちょうど1年が経過した今年3月、仙台(東北大学)とパリ(パリ日本文化会館)では、建築家たちの大震災からの復興に向けての活動を伝える展覧会「3.11-東日本大震災の直後、建築家はどう対応したか」が開催されました。

この展覧会は、世界各地を巡るために、同じ展示セットが2つ制作されましたが、仙台での展示を終えたセットは、アジアで最初の開催地として、隣国として日本の被害に心を痛め、直ちに支援を表明してくれた韓国に渡ってきました。 韓国内では、釜山(慶星大学校)、済州国立博物館ソウル歴史博物館、さらに万国博覧会が開催された麗水の鎮南文芸会館と、4都市を巡回する展示が実現しました。



言葉の重要性を改めて知る

本展覧会は、建築物やプロジェクトを写真と解説文で説明するパネル、建築や地形の模型、ドローイング、実物展示で主に構成されていました。2012年から2年間という区切りで、世界各国を巡回することが予定されているため、説明の文章は、汎用性の高い英語で書かれています。
このため韓国での展示に際しては、韓国人の来場者により深く展覧会の内容を理解してもらうために、韓国語の解説パンフレットを用意しました。具体的には、仙台での展示で用いられた日本語の解説パンフレットを韓国語に翻訳し、それぞれの展示会場で来場者に提供しました。
その原文となる解説パンフレットは、全64ページにわたる詳細なものだったため、韓国語への翻訳にはたいへん苦労しましたが、韓国語版の解説パンフレットのおかげで、観覧された皆さまには、展示の内容一つ一つをよりよく理解していただくのに役立ててもらえたと思います。

韓国で最初の開催地、釜山は大学が会場だったため、来場者も大学生が多く、韓国語版の解説パンフレットがあれば、展示のパネル自体は英語のままでも問題がありませんでした。
しかしながら、釜山に続く、済州やソウルでは、公立博物館での展示になるため、子どもから年配の方まで様々なお客様が来場されることが分かっていました。そこで、それぞれの会場の共催者である済州国立博物館、ソウル歴史博物館の担当者の方と相談して、韓国語版の解説パンフレットを補完的に配布するだけではなく、展示パネルそのものを韓国語にした、小学生にも分かりやすいようなものを用意することになりました。

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釜山の慶星大学校での展示の様子。来場者の中心が大学生だったので、日本から輸送された英語版のパネルを用いた。 来場者は、韓国語の解説パンフレットを片手に展示を観覧した。
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済州国立博物館での展示の様子。オリジナルの英語版の説明文に、韓国語版の説明板を加えた。

ソウル歴史博物館のカンホンビン館長は、都市計画の専門家でソウル副市長も務められた方ですが、「本展はすばらしい企画であり、多くの人々、特に大都市に共通する課題として行政にかかわる人に見てもらいたい」と抱負を述べられましたが、ソウルでは4万人を超える人々が来場し、好評を博しました。限られた時間で、韓国語版の展示パネルを制作する苦労がありましたが、その甲斐があったと嬉しく感じました。

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首都ソウルでは、ソウル歴史博物館で展覧会を開催。4万人を越える来場者があった。一口に展示パネルと言っても、非常に大型のものもあり、韓国で新たに制作するには苦労もあった。

韓国での最後の麗水では、企画当初には、世界中から来場者が見込まれる麗水国際博覧会の会場の中で展覧会を実施する予定だったのですが、残念なことに万博会場のスペースが不足して、やむを得ず、万博会場以外の場所で展示を行うことになりました。
当初は万博会場内ということで、韓国人以外の来場者も多く予想されることから、展示パネルは、日本から輸送された英語版のパネルを使う予定でしたが、会場が地元の文化施設に変更となり、主な来場者が韓国人となったので、ここでも、韓国語版のパネルが大活躍することとなりました。

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韓国での最終開催地となった麗水の鎮南文芸会館。ここでも、韓国語のパネルが大活躍し、若い世代の来場者も、東日本大震災直後の建築家の働きに理解を深めた。



壊れた建築物を残すことをめぐって

展覧会の開催に合わせて、釜山では宮本佳明大阪市立大学大学院教授に、ソウルでは本展の企画者である五十嵐太郎・東北大学大学院教授(*)に、それぞれ講演を行っていただきました。両先生とも「記憶と建築」を大きなテーマに掲げ講演されましたが、それぞれの会場で、壊れた建築物を残すこと(記憶)に対する韓国側の素朴とも言える疑問が投げかけられました。

五十嵐教授は、質問に対し、「人間は忘れやすい動物であり、世代が変われば津波被害のことも忘れ去られ、後世に受け継がれなくなってしまう。一方、建築物は人間の寿命よりも長くその姿を留めることができ、後世に津波被害の状況を伝える手段となる。後世の人々が津波対策を考えるうえで、記憶としての建築は最も有効な手段となる」と回答され、聴衆に強い印象を与えました。

建物の痕跡を残し記憶を大事にしようとする日本と、地震に対する認識があまりないこともあって、古いものを取り去り新しいものを建設することで発展していこうとする韓国の、両国文化の違いが明確に表れた興味深い一場面のように思われました。

本建築展を通じて、災害復興という世界が克服すべき課題を日本の視点で韓国に紹介できただけでなく、復興に関する価値観について日韓両国文化が異なっていることが明らかになったという点からも、韓国での開催を意義深く感じました。

* 五十嵐太郎・東北大学大学院教授は、本展の監修に関して、「『3.11-東日本大震災の直後、建築家はどう対応したか』展を通じて考えたこと」を、「をちこちMagazine」へ寄稿してくださっています。









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