日本語教育支援部 JF講座チーム
パソコンや携帯が当たり前の世の中、自分で文字を書く機会はどんどん減っている。ましてや書道なんて「書き初め」や小学校の書写の授業の記憶しかない人がほとんどではないだろうか。
しかし遠い東欧、中央アジアの国々でも、筆をとって日本の文字を書いている人たちがいる。
日本の文字や言葉、文学の美しさ、そしてそこに息づく日本人の価値観や美意識を遠い海外の人にも感じてもらいたい―そんな思いを胸に、世界各国で「日本の美しい文字プロジェクト」を展開している書家の木下真理子さんが10月に、3カ国4都市を巡る旅に出た。
書道家 木下真理子氏
行き先はキエフ、アスタナ、アルマティ、モスクワ。10月下旬、年によっては初雪がちらつくこともあるという。まだジャケット一枚ですむ秋の日本から、ダウンやらホッカイロやら冬支度を詰めて飛び立った。
鏡の中の書作品
ツアーの最初の会場は、ウクライナの首都キエフにあるウクライナ日本センター。公開揮毫やワークショップの他、今回のために作成された作品の展示も行った。
書道といえば毛筆に墨に半紙に・・・小学校の授業の遠い記憶を頼りに思い起こすが、そこにあるのは鏡である。鑑賞しようと覗くと自分が映る。
ロシア国立図書館での展示
これは半紙ではなく、ミラーシートに揮発性の高い特殊な濃墨を使って書いている。額は、愛媛県松山市に工房を構える額師風雅さんの作品だ。アールデコ調の額が、和洋の壁を越え書作品と絶妙にマッチしている。
全部で18点、与謝野晶子など大正時代の歌人の歌を題材にした作品である。余白とのバランス、漢字・ひらがなの配置の仕方など、書の世界は奥が深い。
大陸から伝わった漢字を使うことの許されなかった平安時代の女性たちが、漢字の代わりにひらがなを編み出したという。四季折々の情景、音色、香りを描き出しながら、日本の文字はそれ自体に優美さと知的な品格を備え、長い歳月をかけてこの国の文化的な美意識を反映させてきた。そんな日本の美しい文字を鏡の上に表現する。作品(鏡)に映り込んだ自身の姿と向き合いながら、内面を見つめなおすといった意図がある。その時、作品はまさに、自分自身の心象風景を映す鏡となる。過去、現在、未来・・・鏡の向こうには何が見えるだろうか?
肌で感じた日本語人気
モスクワでは、ロシア国立図書館で行われた第24回 モスクワ国際学生日本語弁論大会の特別プログラムとして、公開揮毫とワークショップを行った。この弁論大会は、毎年この時期にモスクワで開かれ、CIS諸国から国内予選を勝ち上がってきた学生たちが参加する。最初の滞在地キエフでワークショップに参加してくれたオリガさんもその一人だ。楽屋で準備しているとスピーチが聞こえてくる。顔を見ないと日本人が喋っているかのようだ。スピーチの内容も深く、おもしろい。日本語への関心の高さが伺える。
3時間半にも及ぶ弁論大会が終わり、木下さんの特別プログラムの時間になった。会場には想定以上の百数十人が詰めかけた。97×180cmの全紙を縦に二枚接いだ周りを取り囲むように人が集まる。後ろのほうからだと背伸びしても見えず、あっという間にステージも観客でいっぱいになってしまった。
公開揮毫
《荒城の月》の音楽に合わせて揮毫したのは、森鷗外『舞姫』の一節である。―「暫し涸れたる涙の泉は又溢れて愛らしき頬を流れ落つ」。息詰まる緊張感が会場に漂う。木下さんの筆が古典の名作に再び息を吹き込む瞬間。終止音と共にぴったりと書き終えると,
万雷の拍手と喝采、会場はフラッシュの光であふれた。
続いてワークショップ。ここでは机がないため、服を汚さぬよう筆ペンを使った。100セット用意したワークショップ用の道具もあっという間になくなってしまった。題字は「桜」と「仁は愛を主とす」。美しい桜の写真を見ながら桜が象徴している日本の価値観や美意識を習う。大勢の視線が木下さんに集まる。どのまなざしも真剣そのものだ。最後は色紙に仕上げる。ワークショップ後には質問者で長蛇の列ができた。
キエフに続きモスクワでもワークショップに参加してくれたオリガさん。弁論大会も終わり、ほっとした表情。
「私は木下真理子さんの書道を初めてキエフで見ました。その時に神秘的で、安心する雰囲気を感じ、木下さんが書道の文字で飾った鏡に憧れるようになりました。その鏡に書いたそれぞれの詩を読んでみたら、優しさ、ぬくもりや悲しみ、いろいろな感情を感じました。とても印象的な作品でした。こんな素晴らしい経験があって本当にうれしく思っています。」
キエフに続きモスクワでも参加のオリガさん
国際交流基金では、海外拠点や日本センターで日本語講座を開講している。マンガやアニメなど、日本語の学習動機のきっかけが多様化し、日本語学習者数がこの20年で飛躍的に伸びている中、学習者のニーズに応えるため、またJF日本語教育スタンダードの理想・理念である「相互理解の日本語」の実現に向け、こういった日本文化の体験を通じて日本への関心と理解をさらに高めていけるよう、学習の機会を提供していきたい。
左:アスタナでのワークショップの様子
右:アルマティでのワークショップの様子
左:キエフでは電気を消し
右:ろうそくの灯りの中で書と向き合った
左:仕上げには作品にあわせて手鏡を使用。出来上がった作品を見つめる参加者。
右:半紙がいっぱいになるまで筆法を練習
左:基金のモスクワ日本文化センターでも展示作品をお手本にしたWSを行った
右:大正時代の日本文化について作品を通して学ぶ