日本研究・知的交流部
アジア・大洋州チーム
高口 真法
ワークショップ最終日(8日目) お別れ会でワークショップ中の記録写真を見ている参加者
2011年3月、多くの人々と同様、ぼくは東北地方の太平洋沿岸を呑み込む津波の映像の前で呆然としていた。
その3ヶ月前にあたる2010年12月には、ぼくはインドネシアのスマトラ島北端部にあるバンダ・アチェ市で10代の若者たちの素晴らしい笑顔に囲まれていた。そのときには実感しなかったが、6年前の2004年末、そのアチェ地方もまた、スマトラ島沖大地震によって引き起こされた津波に襲われ、おびただしい数の命が失われた場所であったのだ。すでに30年に及ぶ独立紛争で疲弊していたアチェ地方を襲った津波はあまりに大きな意味を持った。この災害を一つの契機に、翌年和平合意が結ばれたとされている。
ぼくがアチェに行くきっかけとなったのは「アチェこども演劇ワークショップ」という事業だ。この事業では、アチェ各地から集まった、紛争で傷ついた10代の若者たちと数日を過ごしながら、演劇のワークショップを行う。演劇という表現手段を通じて、かつて敵同士であった旧独立派、旧国軍派といった枠にとらわれることなく、新しい世代が協力して将来のアチェを創っていってほしいという願いや、国際交流基金の行う文化交流活動を通じて平和構築に貢献できないかという思いから生まれたものだ。
2007年に行われた第1回ワークショップは、現地のNGOコミュニタス・ティカール・パンダンの協力のもと、それぞれ旧独立派、旧国軍派の影響下にあった3つの地域から10人ずつ、10代の若者を集めて行われた。翌2008年には、その参加者がフォローアップ事業「アチェこども会議」で再会。その後2010年の12月5日から12日にかけて、今度は新たな参加者を得て第2回目のワークショップが行われた。2007年、2008年の様子については以下のウェブサイトに譲ることとするが、今回初めてこの事業の担当となったぼくは、事業の準備をしながらも、なかなか現場のイメージがつかめずにいたのも正直なところだった。
『「アチェの子ども達と創る演劇ワークショップ」~きっかけから実現 そして未来へ~』(2007年)
『2008年アチェ子ども会議』(2008年)
しかしながら、その不安に似た感覚は、参加してくれた元気いっぱいの30人の中学高校生たちや、手伝いに来てくれた6人のワークショップOB、演劇や朗読活動を行っている地元の学生たちによって吹き飛ばされた。2007年の第1回に続いてワークショップのファシリテーターをお願いしているのは、教育演劇専門家の花崎攝さんとすずきこーたさん。初めて会った参加者同士が緊張をほぐすために体を動かす数々のゲーム、グループごとに分かれて制作した自己紹介ポスター作りと発表、円座になって上半身を動かしながら歌う歌等、二人のファシリテーターが繰り出すプログラムは多彩で、参加者たちが楽しみながら打ち解けていく様子はほほえましいものだった。
ワークショップ2日目 鳥が鳥かごを探して入るゲーム(椅子とりゲームに似たゲーム)
ワークショップ2日目 手をつないだ輪を崩さずに円形から他の形を作れるかな?
ワークショップが進むうち、もともと花崎さんやすずきさんの進め方に慣れていたワークショップのOBや、地元の大学生たち年長者が、ワークショップの本来の対象である10代の参加者たちよりも目立ってしまう場面が出てきた。この様子を見た、もう一人のファシリテーター、アグス・ヌール・アマルさんが、昼食後の休憩を利用して年長者らを呼び集めた。アグスさんはアチェ出身で、現在では全国で語り芸パフォーマンスを行っている、現地側の専門家である。彼は、年長者の役割はあくまで参加者のファシリテーター(ジュニア・ファシリテーターと呼んでいた)として雰囲気を盛り上げたり、必要なときは励ましたりヒントを与えたりすることにあるので、「おれがおれが」と自分が前に出て行くのではだめだ、と諭してくれた。以後、年長の若者たちは見違えるようにサポートに徹し、とても頼もしい存在となった。彼らとの再会を喜んでいた花崎さんやすずきさん、以前の事業でも活躍してくださった通訳の沼澤麗さん、国際交流基金ジャカルタ日本文化センターの麦谷職員ら、かつてのワークショップ参加者を知る面々が、その成長ぶりにそろって目を細めて喜んでいる姿が非常に印象的だった。今回の事業で初めてOBの若者たちに会ったぼくですら、参加者にすぐ口を出したいところをこらえて見守ったり、自主的に大人のファシリテーターたちを助けたりする様子には正直に感動を覚えた。
ワークショップ3日目 「黒板に字を書く先生と机に座って勉強する生徒」を体で作ってみる
ワークショップ4日目 参加者は本当に歌が大好き。休憩中など、いつの間にか外でセッションが始まる。
8日間に渡るワークショップの中日には、新聞社やテレビ局の生放送スタジオ訪問など、社会見学も実施された。また、コミュニタス・ティカール・パンダンによるアチェの社会問題に関するセミナー、ワークショップ会場である大学キャンパスにおけるインタビュー、映像作家飯島周さんの指導によるインタビュー内容を用いた壁新聞作成など、参加者である中高生の好奇心を刺激し視野を広げる手法をとったプログラムも行われた。こうしたプログラムと併走しながら演劇ワークショップは進み、参加者は次第に事象や感情を表現する方法を身につけていった。
ワークショップも中盤を過ぎたころ、最終日の発表に向け、アチェの過去から目を背けず、現在の問題を把握した上で未来のアチェをどう創っていくかという大きな課題に沿って、自作演劇の主題を選び、筋書きを立てていく作業が始まった。
その過程で避けて通れないテーマに、前掲した2007年のワークショップのエッセイ中でも生々しく描かれている紛争の記憶がある。大変デリケートな問題であるため、微妙に変化する会場の空気をいち早く察しようとアンテナを張り巡らすファシリテーターたちの集中力や、慎重な通訳の雰囲気に、自分も緊張が高まっていくのがわかる。グループの一人が「彫刻家」になり、仲間を粘土に見立てて情景を表現するという手法を用いて、参加者たちは紛争について見たり聞いたりしたことを表した。言葉を失うとはこのことだった。紛争を経験したことのないぼくが恐怖心を抱くような光景が展開されている中、10代のワークショップ参加者ではなく、ジュニア・ファシリテーターの中でもひときわ落ち着いた振る舞いを見せていた学生が泣き出した。後で彼女は、紛争当時幼かったはずのワークショップ参加者たちがあれだけはっきりと記憶しているのだから、どれほど怖かったか、悲しかったかを考えるとたまらなくなったのだ、と気持ちを説明してくれた。
ワークショップ6日目 アチェの課題は何だろうか?作品の主題を考えるため、ディスカッションをしてみる。
こうした数々のワークショップを経て参加者は4つの班に分かれ、それぞれテーマを決めて短いシナリオを作成し、それを最終日に演じた。各グループが創った演劇小作品の主題はそれぞれ、「村の日常」、「連れ子家庭の悲劇」、「紛争」、「薬物にNo」となった。ファシリテーターたちの言葉を借りれば、これらは監督が指揮するのではなく、演者が自分たちで創っていく演劇である。先輩参加者の演技指導は入っているものの、4作品とも若者の溢れる表現力や創造力が発揮されたと言っていいだろう。最終日前夜にラジオ局の舞台を借りて行った発表では、満員になった200人の会場から惜しみない拍手が送られていた。
ワークショップ6日目 OBの司会で劇の主題を決める
ワークショップ6日目 リハーサル 村の日常
ワークショップ6日目 リハーサル後、専門家による劇講評を神妙な表情で聞く参加者たち
事業を無事に終え、参加者を出身地域に送り帰して、ジュニア・ファシリテーターたちと別れた後、アチェを離れる直前の空いた時間を利用して、津波によって地上に打ち上げられた、巨大タンカーを訪ねた。海岸から2キロくらいの地点だろうか、もう海に出ることはないその威容は、現在は記念碑として無言のうちに津波の規模を表していた。また、こどもたちが創った演目の一つ「連れ子家庭の悲劇」は、再婚相手にだまされたりこどもが非行に走ったりと、筋も演出もテレビのメロドラマに影響を受けたものになっていたが、一方でそうしたメロドラマ風とも思える家族の悲しい出来事は、津波で家族を失ったケースが非常に多いアチェではよく起きている問題を反映しているのではないかとの見方もあった。
日本の東北地方を震災が襲ってから、ぼくはよくアチェを思い出す。震災後、町やテレビにあふれ出した様々な社会広告やスローガンは、共感できるものであれ微妙な気持ちになるものであれ、日本が極めて難しい時期を迎えている中で、より多くの人々に日本を好きになってもらう、支持してもらうことを目指す仕事に従事することの意味を力ずくで考えさせようとする。自らの仕事が何にどのように貢献しうるかについて向き合えば、自分が文字通りわずかな力しか持たないことを痛感するのだが、その一方でぼくを勇気づけてくれるものもある。アチェでの経験である。ワークショップの参加者たち、またジュニア・ファシリテーターとして進行を助けてくれた若者たちが見せてくれた、生命力ほとばしるとびきりの笑顔が、凄惨な紛争と止めようのない天災に翻弄されたアチェの再生を表していたからだ。