2019年1月号
サンドラ・S・フィリップス
サンドラ・フィリップス氏は、米国のサンフランシスコ近代美術館において、長年にわたり日本の写真作品の収集・展示を積極的に行い、また著作や講演会などを通じて日本の写真を世界に広く知らせるとともに、日本の写真家を世界の写真史に組み込んできました。その多大な貢献により、2018年日本写真協会賞国際賞を受賞しました。2000(平成12)年度の国際交流基金芸術家フェローでもあるフィリップス氏の受賞を記念して国際交流基金で開催された講演会の内容を基に、ご寄稿いただきました。
私が日本の写真に本当に興味を抱き始めたのは1974年でした。若い母親だった私が、州の北部からニューヨーク近代美術館を訪れ、『New Japanese Photography』と題する写真展を見たときのことでした。その日に見た写真展がきっかけとなって写真を研究するようになったとまで言うつもりはありません。写真には、既に非常に興味を持っていたからです。しかし、当時の私は、戦後日本の写真の深みと重要性について、まだ全く分っていませんでした。私は、この写真展に強い衝撃を受けました。どこか深いところから心を揺さぶられたのです。これらの写真を初めて目にしたときの興奮を今も覚えています。
なぜ、これらの写真は、それほどまでに私の心を動かしたのでしょう。それまで日本の写真に触れたこともなかった、若いアメリカ人女性の心を。とにかく、私はその時まで、このような作品を見たことがなかったのです。これらの写真には私の知らない異質なエネルギーが満ちていました。どこかなじみのあるような側面もあるのですが、ほとんどは、私にとって初めての感覚、見慣れないものでした。人の心をつかんで離さない魅力と情熱があったのです。しかしながら、その日、写真展を見て帰宅し日常生活に戻って以降、サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)に採用され写真部門のキュレーターになる1987年まで、日本の写真について考えることはありませんでした。
SFMOMAは、ニューヨーク近代美術館の設立者たちより薫陶を受けた著名な人々によって1935年に設立されました。サンフランシスコは当時、代表的な世界都市であるニューヨークから離れているばかりか、ヨーロッパを意識した国際的な芸術活動の中心からも離れていました。一方で、サンフランシスコのビートニク・カルチャーは重要なものでした。アレン・ギンズバーク、ジャック・ケルアック、ローレンス・ファリンゲッティら、名前を挙げればきりがありません。彼らは、アフリカ系アメリカ人、アジア人(日本人、中国人、フィリピン人)、ヒスパニックなどの都市住民とともに暮らす文化人でした。
このような歴史的背景は、SFMOMAそのものや、SFMOMAが地域コミュニティの中で果たす役割に影響を及ぼしました。サンフランシスコの文化的遺産の重要な一部として、長年にわたる写真の歴史があげられます。写真は、安価で、地域性があったことから、ビート文化と同じように守られてきたのでしょう。サンフランシスコ湾岸地域の写真コミュニティの歴史はとても古く、世界中から多くの人々をカリフォルニアに引き寄せた、19世紀のゴールドラッシュにまでさかのぼります。カリフォルニアにやってきた人々は、故郷に残してきた家族に、自分が無事であること、あるいは成功したことを伝えたいと考え、写真を撮り家族に送ったのです。カールトン・ワトキンスやエドワード・マイブリッジも、ゴールドラッシュ時代に遠くからサンフランシスコにやってきました。サンフランシスコ出身で最もよく知られているのは、おそらくアンセル・アダムスでしょう。1902年生まれの彼は、アーティストであり、写真家としてサンフランシスコで活動していました。1935年にSFMOMAが開館した際、アダムスは、写真を芸術として認め重視するよう、理事らを説得してまわりました。その結果、SFMOMAは、アルフレッド・スティーグリッツの素晴らしいコレクション(77作品)をジョージア・オキーフから譲り受けることができました。 以降、SFMOMAは写真の収集に力を入れるようになりました。アダムス、エドワード・ウェストン、ドロシア・ラング、イモージン・カニンガムらサンフランシスコの写真家たちは、芸術家として認められたのです。SFMOMAにとって写真は重要だったと私は考えています。なぜなら写真作品は豊富にあって人気もあり、地域性があり、手頃な価格で入手できたからです。
私の前任者のヴァン・デレン・コークは、訓練を積んだ美術史家であると同時に、写真家としても活動していました。コークは、1962年から91年にかけてニューヨーク近代美術館の写真担当責任者を務めたジョン・シャーコフスキーを一番のライバルとしていました。シャーコフスキーは、おそらく、ゲイリー・ウィノグランド、リー・フリードランダー、ダイアン・アーバスを見いだしたことで最もよく知られています。私は、ジョン・シャーコフスキーのことを知っていましたが、何年も前にニューヨークで見た写真展『New Japanese Photography』を彼が共同企画していたことはたまたま知りました。
SFMOMAに勤めるとすぐに、私はコレクションを調べました。つまらないやり方ではありましたが、写真家の名前のアルファベット順に整理されたプリントを「A」のボックスから順に調べ始めました。作業が進み「M」のボックスまできたときのことです。森山大道による小さな美しい初期の作品(8×10)を見つけました。有名な野良犬の写真でした。この作品を目にしたのは、何年ぶりのことだったでしょう。これは、ヴァン・デレン・コークが、SFMOMAに寄贈したものでした。もう少し調べていくと、森山の初期の美しい作品やほかの日本人による作品がたくさんありました。
森山大道《三沢》1971年
SFMOMAコレクション、ヴァン・デレン・コーク寄贈 © Daido Moriyama
私が1974年にニューヨークで見た写真展『New Japanese Photography』は、SFMOMAでも開催されました。ヴァン・デレン・コークは、その写真展を見て刺激を受け、自分自身で見ることができるよう、日本から写真を取り寄せたのだと私は考えています。シャーコフスキーは、山岸享子さんを私に紹介してくれました。1990年当時、J・ポール・ゲティ美術館で働いていた彼女は、私が日本写真を理解するためのガイド役となり、最初の本格的な日本の写真展『Daido Moriyama, Stray Dog』(1999年)では大いに助けてもらいました。
その写真展に先立つ1995年、SFMOMAは、マリオ・ボッタの設計により、ダウンタウンに新しい建物を建設しました。私にとって何より重要なのは、この新しい建物で、写真部門が専用のギャラリーを持つことができたことです。森山大道展の後も、日本の写真の収蔵に力を入れ、展示プログラムも継続しました。森山展に続く重要な写真展は、東松照明でした。この企画は、日本で育ち、東松を個人的にも知っていたレオ・ルビンファインが担当しました。そして、2006年に写真展『Shomei Tomatsu: Skin of the Nation』を開催しました。この写真展を通じ、また写真家本人の好意により、SFMOMAは相当数の素晴らしい東松作品を収蔵することができました。
東松照明、宮古島 (Miyako)、『太陽の鉛筆(The Pencil of the Sun)』より、1973年
SFMOMAコレクション、ジョン・ステフェンズ寄贈 © Shomei Tomatsu - INTERFACE
2000年、私はSFMOMAよりサバティカル休暇を与えられました。つまり、サンフランシスコを離れて、研究できる機会を得たのです。私は、国際交流基金からフェローシップを受け、東京で日本の写真の研究を行うことになりました。そのおかげで、東京都写真美術館の図書館内の書籍や雑誌を研究するとともに、より古い世代の写真家、特にVIVOに参加していた写真家たちにも会うことができ、日本の写真の真の幅広さと力強さについて理解を深めることができました。私は当時、主に戦後期について研究していましたが、現代作品の展覧会にも出かけました。畠山直哉の作品を初めて目にしたのはこのときで、彼の友人である谷口昌良(編集注:空蓮房設立者)にも出会いました。
私が最も支持する作品は、1970年代に撮影された写真です。この時代の作品は、当時の日本で起こっていたこと、激しい論争が巻き起こり政治活動の嵐が吹き荒れた時代の一瞬を力強く表現しています。70年代は、米国においても、とりわけ激しい論争の起こった時代でした。当時米国は、東南アジアで戦争を戦っていましたが、この戦争に反対する声は日に日に高まり、反体制を叫ぶ学生たちによるデモ活動により大学は分裂。反乱の中、オハイオ州のケント州立大学では命を落とした学生もいます。また、ウォーターゲート事件により、リチャード・ニクソン大統領の弾劾がほぼ確実になったため、1974年夏に大統領が辞任しました。当時の日本の写真に見える不安には、私の心を捉えて離さないものがありました。日本は米国の強い影響下にあるということが明らかになった政治的状況の中、同盟国であり庇護者でもある米国に対する怒りと不安とが、そこに反映されていたからです。若い米国人としてこれらの作品と出会った私は、この時代の写真にとりわけ引き付けられ、深い意味を感じたのです。
畠山直哉《ア・バード/ブラスト #130》2006年
SFMOMAコレクション、空蓮房コレクション寄贈 © Naoya Hatakeyama
2000年に日本に滞在した際、このような少し前の時代の写真を見直すことができ、依然としてとても重要な意味を持つと感じました。しかし一方で、私が知らなかった新しい写真家の作品にも興味をひかれました。畠山の作品、そして、石内都の作品にも出会いました。彼らは、近年における重要なアーティストだと考えています。
SFMOMAでは、所蔵している日本写真のコレクションから、いくつかの写真展を行ってきました。そのひとつは、1960年代、70年代の作品を中心とした『The Provoke Era』と題する展覧会。また、同時期に、近年収蔵した中国や日本、韓国のアーティストの作品の展覧会も行いました。さらに、東京都写真美術館と協力し、畠山直哉の写真展『ナチュラル・ストーリーズ(Naoya Hatakeyama: Natural Stories)』も行いました。大変うれしいことに、空蓮房コレクションから、多くの日本写真を寄贈していただきました。SFMOMAにとって最も重要であったのは、それら現代作品の多様性と奥深さでした。畠山作品はもとより、私が全く知らないアーティストの作品が多数含まれていました。中でも、実に力強さが感じられたのは、女性写真家による作品群です。正直に言うと、この寄贈を受けるまで、私は、そこに含まれている写真家のほとんどを知りませんでした。
石内都《ひろしま/Hiroshima》2007年、2016年
SFMOMAコレクション © Miyako Ishiuchi
2013年に入ると、SFMOMAは増築のために再度閉館し、2016年に、それまでの倍の広さを持つ美術館として再開しました。これは、写真部門が写真専用のフロアを設けることができたことを意味します。
2017年、SFMOMAでは、新たに収蔵した作品を加えた日本の写真展を開催しました。展示した作品の大半は、空蓮房コレクションより寄贈を受けたものでした。
これは、SFMOMAで開催された、最も直近かつ最大の日本写真展です。展示作品は、事実上すべてが戦後期に撮影されたものです。多様な作品が含まれていたため、いくつかのグループまたはテーマに分けて展示を企画しました。この展覧会の準備段階で日本を訪れ、何人かの写真家にインタビューを行いました。
現在、SFMOMAのウェブサイトでは、美術館が所蔵する日本の写真を公開しています。ウェブサイトには、インタビューのほか、所蔵作品のほとんどすべての作品画像と関連情報が掲載されています。このウェブサイトについて私が最も楽しみにしているのは、英語と日本語の二か国語で作成されることです。さらに、ウェブサイト用にいくつかエッセイも依頼する予定です。そのために、株式会社ニコンから助成を得られたことは、とても幸運なことでした。この時代の日本写真が今では大きな芸術的成果として広く認識されるようになり、とても感動しています。また、私の友人である写真家たちが、彼らの業績にふさわしい国際的評価を受けつつあることも、非常に誇らしいことです。加えて、キヤノン株式会社より多大な支援をいただいたことにも感謝しています。彼らの支援により、日本を訪問し関係者にインタビューすることができ、今回のプロジェクトがより豊かで、より完全な経験として実現できました。この取り組みを通じて、現在は、英語あるいは日本語のいずれかで知られている日本の写真の歴史が、より広く世界中の鑑賞者に届けられ、理解されるようになることを願っています。そうなるべき価値があるのですから。
ビートニク(beatnik) :1950年代、サンフランシスコ(ノースビーチ)やロサンゼルス(ヴェニスビーチ)、ニューヨーク(グリニッジヴィレッジ)を中心に起こった文学運動にかかわりをもった世代、またはその運動を担った作家。自由で構成にとらわれない表現を主張した。
サンドラ・S・フィリップス
1987年よりサンフランシスコ近代美術館に勤務。2017年に写真担当の名誉キュレーターに就任。高い評価を受けた、近代・現代写真の展覧会を多数企画している。2000年に国際交流基金芸術家フェローシップを受給、日本における1960~1970年代の日本の写真を研究するために日本に滞在した。