トン・クンフォン・ベニー(オーストラリア国立大学東アジア研究学科博士後期課程)
国際交流基金(ジャパンファウンデーション)は、日本研究分野で活躍する学者・研究者を日本に招へいしています。2016年度日本研究フェローシップの「博士論文執筆者」フェローとして、大阪大学大学院文学研究科で「音楽を通して分かる老後生活 ―高齢文化の一環としての演歌―」の研究を行ったトン・クンフォン・ベニー氏に研究内容と日本でのフィールドワークの成果をご寄稿いただきました。
会話の弾むカラオケ喫茶
私と日本のポピュラー音楽との出合いは2000年、中学生の頃だった。シンガポールにいながら、浜崎あゆみやLUNA SEAなど、当時のJポップとJロックに惹かれた。音楽への興味に導かれ、私はシンガポール国立大学日本研究学科に進学した。日本のポピュラー音楽について学術的な研究に取り組む気にさせたのは、2008年に発表された、日本人の祖母を持つ、アメリカ人演歌歌手ジェロのデビュー曲『海雪』だった。卒業論文では、ジェロの歌の演出を通じて「演歌は日本人の心」というイメージが、いかに音楽産業の宣伝と評論家の議論によって作り上げられてきたかということを述べた。しかし、実際に演歌を聞く人がどのように歌を楽しんでいるかという疑問は依然として私の中に残った。
これを解くために、2013年の春に埼玉県朝霞市にあるカラオケ喫茶Sで4ヶ月間の参与観察※と聞き取り調査を行った。そこに集った多くの年配客は、ほとんど演歌と歌謡曲しか歌わなかったが、彼らにとってカラオケ喫茶に通うことは、健康上、精神上、また社交の面で大きな楽しみだった。お客さん同士でお酒やお茶を飲み、お菓子を食べてカラオケを歌い、やがて同じような歌を好む人と交流ができた。その交流は時々熱烈な感情の高まりにまで発展した。例えば、ある80歳の男性の力強い歌声と親切に惹かれた65歳の未亡人女性が、その男性に積極的なアプローチをかける場面を何度も見た。
カラオケを楽しんでいる男性のお客さん、会話を楽しんでいる他のお客さん
カラオケ喫茶Sでの経験から年配客の活発さに感銘を受け、私は研究の関心をカラオケに関わる高齢者の活動や心情に移した。これは従来あまり研究されてこなかったテーマだが、社会学や文化人類学の影響を受けたポピュラー音楽研究の中でも、高齢化の問題は近年注目され始めている。オーストラリア国立大学の東アジア研究学科に提出予定の博士論文のために、私は2016年2月から2017年1月まで国際交流基金のフェローシップ制度を利用し、大阪大学文学部の音楽学研究室に招へい研究員として滞在、主に大阪で高齢者の音楽体験に関する参与観察と聞き取り調査を行った。今回大阪を拠点にしたのは、関西と関東のカラオケ喫茶文化を比較するためだった。しかし、関西と関東において方言とカラオケ喫茶に来るお客さんの個人的な生い立ちの違いはあるにせよ、根底にある歌との関わりや人間関係の在り方に関しては、私が思っていたより共通点が多かった。
特に、カラオケを通じて築かれる男女の心情的なつながりは、大阪市住吉区にあるカラオケ喫茶Aでも見られた。74歳の男性のTさんと同い年の女性のMさんは、カラオケ喫茶Aの長年の常連さんである。2人とも、家族を持ちながら配偶者を亡くし、その亡くなった配偶者が好きだった曲をよく歌っている。2人は歌声と会話を通じて互いに惹かれあい、喫茶で一緒にいるときは大体じゃれ合っている。例えば、ある日Tさんが千昌夫の曲『星影のワルツ』を歌った際に、「この歌をMちゃんに捧げる」と、隣に座っていたMさんに向かってマイクで言った。かすれた声で歌うTさんを、Mさんは時々愛しそうに見つめ、とても魅力的に感じているように聞いて、拍手を送った。すなわち、カラオケを通じて、TさんとMさんは亡くなった配偶者を回想し、同時に失いかけていた恋のときめきをもう一度味わうこともできる。このように歌を通じて今までの人生を振り返りながら現在と未来へ向けて楽しみを自ら作るところが、私にとって大変興味深い。
カラオケ喫茶に通ううちに、カラオケ教室という場所に出合い、そこではカラオケが単なる娯楽というだけでなく、「学習する」対象であることを知った。同じく住吉区にあるC教室のレッスンの中で私にとって一番面白かった行為は、ベルトでお腹をきつく締めながら歌を繰り返して練習することであった。これについて先生は、「この年になったら、お腹に力を入れるコツとリズムを体に覚え込ませないと、伴奏に間に合わないから」と、若者との比較を意識しながら説明した。レッスンで歌うのは演歌や歌謡曲といったジャンルであるが、親しみ深い過去の歌ではなく、カラオケで歌われることも想定して作られた近年の楽曲である。これは生徒たちの要求によるものであり、彼らは常に新曲を習うのを楽しみにしている。さらに、「新曲を次々と覚えていくと忘れていくから、特に気にいった歌はない」と、生徒であるKさんが歌に対する前向きな姿勢を述べた。
演歌や歌謡曲をまだ愛好している年配者の現状が今まで見過ごされてきたのは、学術研究やマスメディアが、「演歌は日本人の心」の表現に見られるように、これらのジャンルを過去の「懐メロ」としか扱ってこなかったからであろう。本研究では、演歌や歌謡曲が、個人の心情や身体に対して、また個人間の社交的関係に対して、どのような意義を持っているのかを明らかにすることで、カラオケを通して見られる老後生活のより明るい側面を強調したい。
編集部注追記
※参与観察:定性的社会調査法のひとつで、参与観察に従事する者は研究対象となる社会に、数ヵ月から数年に渡って滞在し、その社会のメンバーの一員として生活しながら、対象社会を直接観察し、その社会生活についての聞き取りなどを行うこと。
トン・クンフォン・ベニー(TONG Koon Fung Benny)
オーストラリア国立大学東アジア研究学科博士後期課程在籍中。中学生の頃から日本のポピュラー音楽の虜。カラオケ大好き。博士論文の研究では、東京と大阪にあるカラオケ喫茶や教室での音楽活動を通じて、演歌や歌謡曲が年配の参加者にとってどのような意義を持っているかを検討し、彼らの老後生活の現状を探る。英語での最新の出版物は『Situations: Cultural Studies in the Asian Context』(Vol. 8, No. 1, 2015) への寄稿論文。