サファー・マフムード・モハメド・ヌール
(カイロ大学文学部日本語・日本文学科准講師)
Photo: Soman
中東のエジプトから極東の日本までの旅は長い道のりだった。それは2つの国の女性が自由と権利の獲得のために歩んだ長い奮闘の歴史に重なるようだ。
私が関心を持つテーマは、欧米のフェミニズムの歩み(主に英国と米国)、日本とエジプトにおけるフェミニズム思想、そして各国をリードするフェミニストである。フェミニズム運動の3つの試みのうち、特に第1波と第2波から類似点と相違点を明らかにしてみたい。
欧米・日本・エジプトの近代化とフェミニズム
よく知られるように、「フェミニズム」という用語は、比較的新しいものである。英国にはフランスから入ってきたが、米国では1910年代以前には使われていなかった。その後、多くの国に広がり、現在のように日本語やアラビア語など多くの言語で使用されるようになった。またよく知られるように、フェミニズム運動は大きく2つの波に分類されることが、ほぼ共通の認識になっているが、3つの波に分類されることもある。欧米の分類によれば、第1波フェミニズム運動は19世紀半ばから20世紀初頭までとされる。しかし多くのフェミニストが、実際のフェミニズムの出発点を、メアリ・ウルストンクラフト(Mary Wollstonecraft)が革新的な著書『A Vindication of the Rights of Women(邦題:女性の権利の擁護)』を発表した1792年までさかのぼると考えている。そして1960年代から、第2波フェミニズム運動、いわゆるフェミニズムの復活が始まった。
欧米の長く古いフェミニズム運動の歴史とは対照的に、日本とエジプトのフェミニズム運動は比較的新しい。私の個人的な見解では、欧米におけるフェミニズム運動の分類を、日本とエジプトのフェミニズム運動に当てはめることはできない。日本とエジプトでフェミニズム運動が始まったのは、それぞれ明治維新(1868年)以降と、ムハンマド・アリー(Mohamed Ali)によるエジプトの近代化(1805年)以降だからである。
ムハンマド・アリーによるエジプト近代化は、日本の近代化よりも歴史が古い。しかしその試みは、英国とフランスによるエジプト植民地化の野望によって阻止された。つまりエジプトのフェミニズム運動は日本より早く始まったが、エジプトとヨーロッパとの状況によって、非常にゆっくりしたペースでしか進まなかったと言える。
女性問題に取り組んだエジプト知識人
ムハンマド・アリーは総督の地位に就いたのち、「強兵強国」の政策を打ち出し、ヨーロッパ各国への使節団派遣を開始した。最初はイタリア、そしてフランスと、各国に使節団を送り、ヨーロッパの技術を学ばせた。エジプトへ戻った使節団は、発展の遅れた自国の社会を変革するため、科学、社会思想、技術、経済など、ヨーロッパで学んだことを伝え始めた。
エジプト社会における女性の地位の低さは、彼らの懸念する問題の一つであった。初めて、女性の問題を著書の中で取り上げ、女性の教育を訴えたのはタフターウィー(Refa'a Rafea Eltahtawai)であった。タフターウィーは1826年にフランスに派遣された。最初は他の学生と共に宗教指導者(イマーム)として派遣されたが、学業が優秀であったため後に通常の学生となり、有名な著書『Takhlis al-Ibriz fi Talkhis Bariz (A Paris Profile)』を執筆した。同書には、タフターウィーがフランスで見たもの、経験したことがすべて記されている。5年の滞在を経てエジプトに帰国した後、タフターウィーはヨーロッパの文明をエジプト社会に広める活動を開始した。また多くの本を執筆し、その中の一つ『The Honest Guide to Girls and Boys』では、女児に対する教育、さらには女性が家の外でそれぞれの性質に合う仕事をする権利を訴えた。
カシム・アミン(Kasem Ameen)もフランスで学んだ一人だが、タフターウィーよりもさらに大胆に発言している。1899年に発表された代表的著書『The New Woman』と『Woman's Liberation』では、女性の解放および適切な教育と労働の機会を訴えた。
その後、帰国した知識人から欧米の自由と公正の思想を学んだ女性たちが現れ、女性の権利について主張し始めた。ホダ・シャーラウィ(Hoda Shaarawi)もその一人である。シャーラウィはエジプトにおけるフェミニズムの先駆者と見なされ、1919年-それは欧米のフェミニズム運動第1波が終わろうとしていた時期であるが-に始まったエジプトにおけるフェミニズム運動第1波を代表するフェミニストである。
日本のフェミニズム運動
一方、日本の近代化は、徳川幕府の終焉と明治時代の幕開けとともに始まった。この時代には「富国強兵」のスローガンが掲げられ、欧米の技術を導入しようと、英国、米国、フランス、ドイツなど、ほぼすべての欧米諸国に人材を派遣する動きが高まった。
福沢諭吉は日本の著名な知識人の一人で、日本の発展について深く思いを巡らせていた。多くの著書を執筆し、『西洋事情』では、英国、フランス、ロシア、ポルトガル、プロシア、米国を視察して得た見聞を記している。また欧米の経済や政治などの仕組みを日本に紹介した。福沢の著書で、大きな影響を及ぼした注目すべきものの一つに『学問のすゝめ』が挙げられる。同書で福沢は、差別のない男女の平等な扱いを求め、さらには女性の権利を擁護した。また革新的な著書『新女大学』は、江戸時代に女性の教育に用いられた教訓書『女大学』に示された、女性を劣ったものとみなす儒教的な教えへの反論として書かれたものである。そして日本でもエジプト同様に、女性たちは帰国した知識人から欧米の自由の思想を学び、自分たちの権利を主張し始めた。1911年には「青鞜社」が組織され、その設立者であり日本のフェミニズムの先駆者と見なされている平塚らいてうは、機関誌『青鞜』を通じて、女性に関する因習を打破する活動を開始した。平塚もまた、欧米のフェミニズム運動第1波が終わる頃に始まった日本におけるフェミニズム運動第1波を代表するフェミニストである。
女性参政権は、20世紀初頭のフェミニズム運動の主要な要求事項であった。米国と英国の女性が参政権を得たのは、それぞれ1920年と1928年だが、日本では1945年、エジプトでは1956年であった。
米国の影響
1960年代に、ベティー・フリーダン(Betty Friedan)による影響力のある著書『The Feminine Mystique(邦題:新しい女性の創造)』が発表されると、米国では「女性解放運動」が始まり、それはまたたく間に世界中に広がった。1970年頃には日本にも到達し、上野千鶴子をはじめとする急進的なフェミニストが、過激ともいえる論調で女性の権利を主張し始めた。エジプトでは米国で始まった運動の影響を明確にたどることはできないが、60年代になると、ナワル・エル・サーダウィ(Nawal Elsaadawi)のような女性が出現し、女性の権利を急進的に主張するようになった。
このように、日本とエジプトのいずれにおいても、フェミニズム運動の第1波とは、女性が男性と同等の権利を要求する期間であった。そして第2波では、女性たちは自分たちの世界を構築し始め、多くのアプローチとともにフェミニズム運動にさまざまな解釈が現れるようになった。60年代以降には、リベラルフェミニズム、マルクス主義フェミニズム、社会的フェミニズム、ラディカルフェミニズムなど、さまざまなフェミニズムが見られるようになる。ときには欧米の影響を日本とエジプトのフェミニズムに見ることもできるが、影響の跡をたどることができないこともある。日本のフェミニズムはエジプトに比べて、より大胆で過激であったが、文化的・宗教的背景が異なることを考えれば、それは当然のことのように思われる。しかし、さまざまなアプローチや解釈を見ていくと、フェミニズムが目指す目的には共通点が見えてくる。それは女性をあらゆる抑圧から解放し、女性に対するあらゆる差別をなくすことである。
サファー・マフムード・モハメド・ヌール (Safaa Mahmoud Mohamed Nour)
カイロ大学文学部日本語・日本文学科准講師
1975年カイロ生まれ。97年カイロ大学文学部日本語日本文学科卒業、99年同大大学院にて修士号取得。日本の近代思想を専門とする。2010~11年に次いで、13年5月より、国際交流基金日本研究フェローとして来日(2014年7月まで滞日予定)、東京大学東洋文化研究所にて、「日本におけるフェミニズム思想の展開」をテーマに論文を執筆中