被災地とつながる生の声007「元気メール」が被災地の人々に生きる勇気を届ける

アジアアフリカ環境協力センター理事長
瓜谷幸孝


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 アメリカの小学生から東日本大震災の被災者の方々に向けたメッセージを集め届けるプロジェクトを実施しました。その名も「元気メール」。神戸を拠点にするNGO団体アジア・アフリカ環境協力センター(ACEC)の理事長、瓜谷幸孝氏が阪神大震災のときに行った活動にヒントを得たものです。
 アメリカでメッセージを集めに奔走したのは、ジャーナリストの卵たち。いずれも国際交流基金「米国ジャーナリズム専攻大学院生招へいプログラム」で過去に日本各地を視察した経験を持ちます。瓜谷氏に「元気メール」発案のいきさつ、今回の震災での活動などについて執筆いただきました。


■阪神・淡路大震災で被災し
 放心状態に陥った


 1995年1月17日未明、どこから響いてきたのか、「ゴォー」という、いまだかつて聞いたことのない音で目が覚めました。
 何か悪いことの始まりだと思った瞬間、ドーン、ドーンと下から突き上げ、体が宙に浮くのを感じ、とっさに隣の部屋に転がり込んで、寝ている母親に覆い被さりました。続いて、ガタガタ、メリメリと激しい揺れが襲いかかってきて、一瞬のうちに暗闇の世界となりました。
 何がどう落ち、どう倒れたのか。かろうじて生きていることに気づき、腕の下にいる母親の無事を確かめました。「大丈夫やで、どこも痛ないで」との返事でした。
 それから何時間が経ったでしょうか。瓦礫の下で、どうしたらよいのか、何も考えられません。そのとき向かいの家の方から、「瓜谷さん、大丈夫か」という声を聞き、暗闇の中で「よっしゃ、何とかここから出よう」という勇気が湧いてきました。
 やっとの思いで瓦礫の中から外へ這い出ました。外では、あちらこちらで火の手が上がっており、家がつぶれ、これは夢を見ているのではと何度も思いました。そこここでガスの臭いがし、爆発の音が聞こえ、火柱、火の粉が飛んでくるのを、ただ放心状態で見ているだけでした。
 胸が痛むのと足の傷のため、救急病院に行ったところ、あばら3本にひびが入り、左足3針縫うけがでした。近所の方が集まった自宅近くの郵便局に戻りました。決まった避難所ではなく、水も食料もありません。どなたかが家に戻って持ってきたお菓子、缶ジュースなどで飢えをしのぎ、どなたかのローソクを灯にしました。私の人生の中で最も長い一日の終わりです。


■心のこもったメッセージは
 人を生かす原動力となる


 翌日、いちばんの親友が駆けつけてくれました。彼の顔を見たとき、やっと感情らしきものが込み上げてきました。食料と衣服をもってきてくれており、また当座のお金をいただきました。何よりも地震の後に湧いてきた最初の勇気の源泉でした。
 気がかりは私の設立したアジア・アフリカ環境協力センターの事務所でした。古いビルなので、おそらくだめだと思っていました。彼のオートバイに乗せてもらい、事務所へ行きました。道中、悲惨な光景が否が応でも目に飛び込んできました。町中が傾いています。
 やっとの思いで事務所にたどり着いて驚いたのは、戦後まもなく建ったビルだというのに、まったく無事だったことです。中は書類などがひっくり返っているだけでした。
 奥にあるファクスは床に落ちていて、カタカタと次から次へと水の流れのように紙が出てきました。その1枚を取りあげると、中国からのメッセージです。「一方有難、八方支援」とありました。中国の昔からの言葉で、一つのところに災難があれば、八方がそれを助けるという意味です。モンゴルからは「困ったときの友が真の友、友を計るときは困ったとき」とありました。
 国際ボランティアでつきあっていた彼らの顔が思い浮かびました。家や財産、友人を亡くし、絶望感、不安感で放心状態の私に生きる活力、勇気をくれたのです。たった1枚であっても、心のこもったメッセージは、人を生かす、動かす原動力となるのです。


■小学生の描いた絵はがきを
 仮設住宅に住む人々に配った


 私はこのメッセージを受け取り、自分も被災者でしたが、その日からボランティアを始めました。避難所で半年が過ぎ、皆さん、被災者の夢である仮設住宅へ移って行かれました。ところが仮設住宅では毎日のように自殺、孤独死が出たのです。なぜ、夢が叶ったのに亡くなるのでしょう。やはり、さびしさや将来への不安感が原因なのです。
 この自殺や孤独死を1人でも少なくすることはできないかと毎日考えました。
 ある日、私が震災の翌日に事務所で海外から励ましのメッセージで元気と勇気をもらったことを思い出し、広島のボランティアの方に頼んで、小学生からの絵はがきを届けてもらいました。その手紙を仮設住宅に配り、文通が始まりました。仮設住宅のお年寄りから「この手紙を1日に何度も読み返してたら、元気が出てくる」と言われ、この手紙のやりとりはいつしか「元気メール」と呼ばれるようになりました。


■被災者の方々を元気づけ、
 強く生きるための絆になる


 今回起きた東日本大震災にあたり、被災者を励ます「元気メール」を、国際交流基金日米センターを通じてアメリカに呼びかけていただきました。わずか2か月あまりで、アメリカの子どもたちによる7000通もの「元気メール」が届いたのです。6月28日から30日にかけて、その「元気メール」を宮城県気仙沼市立気仙沼小学校や、石巻赤十字病院に届けることができました。
 子どもたちは「自分たちも返事を書きます」と大喜びでした。日本の被災した子どもたちとアメリカの子どもたちの文通が始まります。始まれば、相手に会いたいという次の目標ができます。世界の中で、1人でも自分のことを心配してくれる人がいれば、人は生きていけるのです。
 アメリカ以外からもモンゴルから120通、日本国内から150通の「元気メール」が届いています。送っていただいた車いすの障害者の方からは、「手紙を書くボランティアに参加できて本当にありがとう」と言われました。
 書く人の心、届ける人の心、読む人の心、翻訳する人の心、たくさんの人の心が入った「元気メール」は必ず被災者の方々を元気にし、そして強く生きるための絆になります。
「元気メール」に関わったすべての人に感謝です。

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genkimail07.jpg 瓜谷幸孝
1947年、神戸生まれ。1990年にボランティア活動開始、93年アジア・アフリカ環境協力センター設立。世界17カ国の被災地に支援物資として、のべ1万2000トンの食料、衣料、救急車、消防車などを送る。1995年7月より神戸の仮設住宅、復興住宅に「元気メール」を送る活動を始める。

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