劉文兵
30年ほど前の中国では空前の日本映画ブームが起きた。『君よ憤怒の河を渉れ』(佐藤純弥監督、1976年)、『サンダカン八番娼館 望郷』(熊井啓監督、1974年)、『愛と死』(中村登監督、1971年)、『砂の器』(野村芳太郎監督、1974年)などがつぎつぎと大ヒットし、高倉健、山口百恵、栗原小巻、中野良子は中国で国民的な人気を博した。そのなかで中国人が抱く日本のイメージも、かつての侵略・支配国家というネガティヴなものから、日本の映画スターに象徴されるような、近代的で豊かな経済先進国というポジティヴなものへとシフトしていったのである。
このような日本映画ブームの背景には、1978年に「日中平和友好条約」の締結をうけて日中関係が蜜月期を迎えたことに加えて、文化大革命(1966~76年)の終焉と、改革開放路線への体制転換という中国国内の政治的事情が介在していた。すなわち、日本映画の上映を可能にしたのは、日本のような先進国をモデルにした経済改革を主眼とする鄧小平の改革開放政策にほかならなかった。
当時の日本映画の中国への輸出は、主に1978年から1991年に至るまでほぼ毎年中国でおこなわれた「日本映画祭」を媒介としていた。映画祭で上映された7,8本の日本映画は、そのあと中国の各地へ配給され、そのルートに乗って80本以上の日本映画が一般公開されたのである。それによって持続的な日本映画ブームが形成されることとなった。
また中国側には外国映画を買い付けるための予算がまだ十分ではなかった状況のなかで、中国で上映されたアメリカやヨーロッパの映画のほとんどは低予算で無名な作品であるか、製作されてから中国で上映されるに至るまで、きわめて大きなタイムラグがあったものばかりだった。それに対して「日本映画祭」を中国側と共催していた「日本映画製作者連盟」、とりわけ徳間書店の支配人・徳間康快氏は、採算を度外視してまで日本映画の紹介につとめていた。そのため同時期に中国で上映された他の外国映画と比べて、日本映画は題材的・ジャンル的な豊富さと新しさにおいて突出していた。すなわち、山本薩夫の社会派映画、山田洋次の人情もの、角川春樹の超大作、宮崎駿のアニメに至るまで、きわめてヴァリエーションに富んでおり、さらに日本で製作されてからほとんど間を置かずに中国で公開されたというタイムラグの少なさもまた、人気を集める要因となったのである。
一方、これらの日本映画を支える演出・カメラ・編集などの豊かで洗練された映画技法の数々が、文革体制下において支配的であったプロパガンダ映画のコードから脱出し、新たな中国映画の誕生に向けて模索を重ねていた当時の中国の映画人たち、たとえば日本でお馴染みの張芸謀、陳凱歌らに、きわめて大きな影響を与えたのである。
余談であるが、当時日本映画に熱狂していた人々の中には、子どもだった筆者もいた。十歳の私は、『君よ憤怒の河を渉れ』を入れ替え制の映画館で観た。そのエンターテイメント性と、主演男優、高倉健の格好良さにすっかり魅了され、もっと観たくてトイレに隠れて次の回が始まった後にまた観たと記憶している。やがて映画の勉強のために来日し、研究者として日本映画と関わるようになった自らのキャリアを振り返ると、その原点はまさにそのときにあったといえる。
ところが、近年、中国での日本映画の上映は著しく減少し、国民がこぞって日本映画に熱狂した時代はすでに歴史と化している。新しい時代の日中関係の構築に、日本映画が一役買う日はまた訪れるだろうか。
1967年中国山東省生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。現在、早稲田大学、専修大学、和光大学ほか非常勤講師。著書には、『映画のなかの上海----表象としての都市・女性・プロパガンダ』(慶應義塾大学出版会、2004年)、『中国10億人の日本映画熱愛史――高倉健、山口百恵からキムタク、アニメまで』(集英社新書、2006年)、『日本映画は生きている 第七巻』(共著、岩波書店、2010年)などがある。