2024.11.01
【特集083】
2024年4月20日から11月24日まで、第60回ヴェネチア国際美術展(以後、ヴェネチア・ビエンナーレ)の日本館では、アーティストの毛利悠子さんによる「Compose」展が開催されています。
7月27日、日本館のコミッショナーである国際交流基金のさくらホールに毛利さん、オンラインで日本館のキュレーターを務めるイ・スッキョンさんを迎え、国立国際美術館主任研究員の橋本梓さんをモデレーターに帰国報告会が開かれました。
ここでは報告会を踏まえて、また筆者が「Compose」展にコーディネーターとして現地で伴走したことも重ねてレポートします。
ヴェネチア・ビエンナーレの日本館は、複数の専門家がコンペ形式によってキュレーターを選出していましたが、前回の2022年より、アーティストを選出する形式を採用しています。
昨年4月、その第一報を受け取った毛利さんは、韓国で光州ビエンナーレの開幕に立ち会っていました。当時の光州ビエンナーレは、イさんがアーティスティック・ディレクターを務め、老子の一説である「soft and weak like water(天下に水より柔弱なるは莫(な)し)」をテーマに掲げました。毛利さんの作品には水を扱うシリーズ『モレモレ』がありますが、光州でさまざまな観点から水のようなしなやかさに関心を寄せるアーティストたちと議論できたことはとても刺激的で、考えさせられることも多かったと毛利さんは振り返ります。また、同じ東アジア出身で、当時はロンドンにあるテート・モダンのインターナショナル・アート部門でシニア・キュレーターでもあったイさんと、水にまつわる東洋の思想が西洋ではあまり馴染みがないことに触れ、その対話をさらに発展させようと、イさんに日本館のキュレーターを依頼したそうです。
これまで日本館の展示を見ていた毛利さんは、日本人アーティストとキュレーターが常に名前を連ねる印象を持つ一方で、国内外の展覧会で作品を発表し、多様な背景をもつキュレーターと協働してきたことは自然だったと言います。そこで今回は、国を代表するという意識より、関心をともにするキュレーターを国にとらわれず迎えることで、日本館にとっての新たな試みにもなればと考えたそう。またイさんは、長らく活動を見てきた毛利さんからの依頼を、驚きと同時に光栄に受け取ったと語りました。
世界で最も長い歴史をもつビエンナーレが開催されるヴェネチアは、「水の都」として有名ですが、これまで幾度も水による被害を経験しています。毛利さんは、今から約一年前の事前視察でどのような展示ができるか考えた時、そうしたヴェネチアの地理的性質から『モレモレ』を早い段階で構想に含めていたと言います。その後、イさんとの議論を経て、フルーツを素材にしたシリーズ『Decomposition』と日本館の展示構成を決めました。
制作は、現地に約2ヶ月滞在してリサーチすることから始まりました。冬の2月はヴェネチアのまち全体が霧に包まれ、サン・マルコ広場が浸水した時は、底上げされた歩行者用通路が作られる場面にも遭遇したという毛利さん。建築家のカルロ・スカルパが設計したクエリーニ・スタンバーリア財団の建物の中にあるアトリウムや中庭の泉の通路は、ヴェネチアに巡らされた水路と繋がっているのが特徴ですが、毛利さんが訪れた時は水が引いて全くない状態だったそうです。「モーゼシステム」と呼ばれる水害を防ぐための水門は潮の満ち引きに関係していることを知り、よく訪れたレストランには月齢が記載されたカレンダーがぶら下がっている----ここ数年、日本は突発的な豪雨とそれに伴う河川の氾濫に見舞われていますが、日本とヴェネチアの水に関わる感性や生活に違いがあることを学んだといいます。
ほかにも、毛利さんはヴェネチア郊外のオーガニック農家を訪れたり、ビエンナーレの会場であるジャルディーニ一帯に関わる農学者に有機堆肥(コンポスト)の話を聞いたりして、交易地・ヴェネチアとしての歴史を背景に、現代の取り組みについても考えを深めました。
滞在中もイさんと毛利さんはオンラインでミーティングを重ね、作品が日本館の特色ある建築とどのように共存できるのか熟考し、その後は日本館をスタジオのように使いながら本格的にインスタレーションを発展させました。通常、展覧会予算に大きな割合を占める輸送費を環境的な観点からも考慮し、日本で作品を制作してから輸送するのではなく、毛利さんはヴェネチアとその近郊でアンティーク家具や日用品、また売り物にならないという理由で譲り受けたフルーツを交渉して、作品の素材に用いています。
実際の展示では「街中でボートに沢山のフルーツを積んだ店を見つけた時、もしかするとここで作品の素材を手に入れたのでは」と毛利さんの足跡を想像し、声をかける鑑賞者もいました。
ヴェネチア・ビエンナーレのヴェルニサージュと呼ばれるプレビューは、4月17日から19日まで開催され、コロナ禍による渡航のハードルが近年緩やかになったことも相まって、世界中から多くのゲストと関係者が訪れました(7月27日時点の日本館入場者数は21万1,249人)。
期間中は、夕方にかけて通り雨と突風が吹き、その風は日本館に開いた天窓とピロティにつながる床の穴をひゅうっと通り抜け、作品の一部であるビニールのタープを上下に揺らしました。今度はそれが引き金となって小さなチャイムがアトランダムに音を鳴らし、館内に注ぐ雨粒はタープの上で弾け、まさしく毛利さんとイさんが思い描いていた日本館の特徴的な建築と自然環境によって常に変化する作品の共存に、偶然居合わせたゲストからは感嘆の声があがりました。
オープニングレセプションのために、毛利さんはドライフルーツ専用の乾燥機を日本から手荷物で持ち込み、設営に加えてスタッフと交替しながらりんごのドライチップスを作っていました。それを、リサーチで訪れたオーガニック農家のマリーザが持参したりんごのビールに添えて、当日はゲストを歓迎しました。
ほかにも、毛利さんが2015年の日産アートアワードで初めて『モレモレ』を発表してグランプリを受賞後、レジデンスを経て個展を開催したロンドンのカムデン・アート・センターや世界各地の美術館の支援者に向けた特別ツアーと、多くの取材対応が続きました。その中でも、国を超えたアーティストとキュレーターの協働について取り上げたいと韓国の新聞記者より申し入れがあったことは、皆にとって特別な喜びでした。*1
毛利さんが所属する4つのギャラリーは、レセプション後に行われたパーティーを合同出資してホスト役を担い、展覧会のオープンを祝いました。150名以上を数えたゲストの中には、今回の日本館展示を支援してくださった寄付者の方々やさまざまな方法で毛利さんの活動を支えてきた人たちも集い、毛利さんの作品を彷彿させる電気配線を編み込んだ三宅デザイン事務所による特別なコラボレーションバッグと、開幕に合わせて出版したカタログが手渡されました。
このパーティーは台湾、ダブリン・ロンドン、東京、ニューヨークと普段は個別に活動するギャラリーが、一同にヴェネチアに会した初の協働イベントだったことも印象的です。*2
2015年のヴェネチア・ビエンナーレ韓国館でキュレーターを務めた経験を持つイさんが、ナショナル・パヴィリオンに関わるのは今回で2回目です。報告会で毛利さんとの協働について尋ねられると、非常にユニークで明確な毛利さんのコンセプトを、より世界的な状況にてらして接続させ、その創作活動を可視化させることに注力した、と答えました。また、光州ビエンナーレから二人を結ぶ「水」については、柔らかくその存在に気づかないようなところがあるがゆえに、不可視化なものに対する気づきや考えを私たちに促してくれるものではないか、と付け加えました。
イさんは、ヴェネチア・ビエンナーレについて「今、世界で起きていることを他者とともに考えるプラットフォーム」だと、これまでの取材で繰り返し話してきました。100近くのナショナル・パヴィリオンがいたるところにある特徴的なヴェネチア・ビエンナーレを、政治・社会・経済の状況がさまざま異なっても、私たちの世界で何が起こっているか、どのようなことが問題とされているかを、国を超えて多様な視点を持ち寄る場であると強調しています。私たちを国単位で考えるのではなく「世界の住民(Citizens of the whole world)」として捉えれば、そこで直面していることは共通している、という言葉は特に印象的でした。作品を通してバラバラのように見える世界の状況とアートがどのように影響を及ぼすことができるかを深く考えること、アートは時に脆弱に感じられても危機に対して小さな試みを重ねることで、日常を少しでも変えることができる力があると、毛利さんの展覧会タイトル「Compose」の語源にもなった「Com・pose=共に・置く」を参照しながら語りました。パンデミック・Black lives matter・気候危機など、世界が同時に経験している状況を、住む場所は違ってもアーティストたちはそれぞれの創作を通じて応答し、とりわけ毛利さんは独自の視点とリサーチに基づいた表現で、困難を孕む社会でどのように私たちの存在を捉えることができるのかを問いていると力強く述べました。
オーバーツーリズムが懸念され、ヴェネチアでも入島税が試験的に実施された頃、ヴェネチア・ビエンナーレは本格的に開幕しました。そこで総合ディレクターのアドリアーノ・ペドロサさん(サンパウロ美術館(MASP)芸術監督)が掲げたテーマ「Foreigners Everywhere(どこでも外国人)」からは、さまざまなメッセージを想像することができます。
イさんは「果敢なタスクを掲げた」とペドロサさんの仕事に触れ、近代美術から現代を振り返り、これまで紹介される機会が少なかったグローバルサウス、クィア、女性、その土地に固有な人びとによる多様な視点を意欲的に取り込んだヴェネチア・ビエンナーレの大きなテーマと各館をリンクさせるには、可能性もあれば限界もあると言います。また、そうしたテーマに各館の声を届けるというこのビエンナーレならではのプラットフォームに健全さを残しながら、アーティストによる活動が「今」を表現していることを印象づけるのが、このように大規模な国際展で重要、と考えを共有しました。
報告会の最後は、日本のアーティストやアートコミュニティのこれからについて、イさんへの質問で締めくくられました。その大きな質問に、今回の日本館の展示は日本のアートが国際的なステージでどのような方向に向かっていきたいかということを示すひとつの良い機会になった、と答えました。また、すでに日本のアーティストの活動には独自性が備わっており、広い世界とオープンな姿勢でもっと繋がると、幅広いステージで日本のアーティストがどのようなことを考え、日常の生活が作品にどのように反映されているかを示す機会が増えていくのでは、とオンライン越しにエールも送りました。
11月24日にヴェネチア・ビエンナーレが最終日を迎えると、約1年間、私はこのプロジェクトにコーディネーターおよび広報として関わったことになります。これまでにない新しい一歩を、とはじめに毛利さんが考えていたことは、このような国際展の舞台で私にチャレンジを与えてくれました。さまざまなタスクが混沌と「共に・置かれた」状態を、『モレモレ』で漏れ落ちる水を防ぐように、私はどう交渉や対話を進めるか奮闘し、世界中から日本館を訪れる人たちと言葉を交わす時、舞台の大きさと責任、そして震えるような喜びを感じることができました。
また、どの展覧会やイベントもそうであるように、例えば、各パヴィリオンのオープニングレセプションは分刻みでプログラミングされています。特別パフォーマンスでは音楽が鳴り、スピーカーからの声も響きます。これは、設営中に作品の音がどのくらい周囲に聞こえているかを探る時もそうでしたが、日本館を含めてイギリス館・フランス館・チェコ館・スロバキア館のアーティストやキュレーターが自然に中央の広場に集まり、互いの様子を共有しては注意点を確認し合う場面が何度かありました。また、日本館があるジャルディーニで、どこからどこまでが各パヴィリオンの敷地なのか、「国境」のようなものはひとつもありません。こうした中で、観客の誰もがアクセスできる待機列や順路をどのように設計するか、どこで取材対応やイベントを行うかを決めるために、事前の交渉と何よりも心配りが必要です。ヴェネチア・ビエンナーレが「アートのオリンピック」と今でもいわれる所以は、隣人となる他のパヴィリオンを尊重しながら互いが満足のいく舞台へと仕上げていく姿にあるのではないかと私は思います。国を超えて多様な背景をもつ人たちと協働をするとき、どのような私であるべきか、またどのように隣人と接するべきか----私たちは「共に・置かれた・世界の住民」であるということを、この機会に改めて気付かされました。そしてイさんが言うように、これから日本館がどのような方向に向かうのか、また世界の人たちとどのように協働していくかを一緒に考え、日本館の太い柱となって支え、アーティストやキュレーターと展示を通して実現に向かっていく伴走者が、多方面で増えればと思います。
このプロジェクトの前半ほとんどを交渉に費やし、リサーチでは現地の人びとと積極的な交流を図り、世界のありようを捉え、日本館を訪れる人たちの表情を瞬時にほぐすような作品を発表してくださった毛利さん、この時代における国際展の姿を展覧会のキュラトリアルな視点とパヴィリオンのあり方からもアドバイスをくださったイさん、そして東京とローマから温かいサポートを下さった国際交流基金の皆さん、日本館を支えるスタッフ *3に改めて感謝します。
東海林慎太郎(日本館「Compose」展コーディネーター、広報)
*主な取材記事リンク