第50回(2023年度)国際交流基金賞
 ~越境する文化~<4>
ペルー日系人協会 受賞記念講演

2024.3.15
【特集080】

特集「第50回(2023年度)国際交流基金賞 ~越境する文化~」(特集概要はこちら)

ペルー日系人協会は1917年の創設以来、日系人の相互扶助に努めるとともに、ペルー社会への定着を促進してきました。日ペルー国交樹立から今年で150周年、移住開始から124年、その中にあってペルー日系人コミュニティを長年支えてきたペルー日系人協会(APJ)のフアン・カルロス・ナカソネ・オオシロ氏に、ペルーへの日本人移民の歴史、またペルー日系人協会の貢献、そしてペルー日系人協会の歴史について講演いただきました。


講演の模様は、国際交流基金公式YouTubeチャンネルでもお楽しみいただけます。


APJ_01.jpg 国際交流基金賞授賞式にてJF・梅本和義理事長(左)とナカソネ会長(2023年10月18日)

「ペルーにおける日系社会の歴史」


私たちペルー日系人は、太平洋の両岸を結ぶ架け橋です。ペルーと日本の千年の伝統を受け継いでいることを大変誇りに思っております。本日、この講演におきましては日系移民の歴史とペルー日系人協会が日系コミュニティー及びペルー社会全体に対して行っている活動について簡単にご説明したいと思います。

2023年はペルーと日本の国交樹立から150周年を迎えた記念すべき年です。(国交樹立は)両国にとって歴史的な出来事であり、これにより絆が生まれ、後に移民へと繋がりました。よりよい生活を求めて何千人もの日本人がペルーに移住しました。ペルーは一時的な滞在先であり、しばらく働いてお金を貯め、日本に戻ろうと考えていました。しかしながら、事態は予定とは大きく異なり、個人史の短い一章で終わるはずだったものが、ペルーの歴史に大きな足跡を残す結果となったのです。それでは今から、日本の移民の歴史をまとめるために120周年を記念して作成されたビデオをご覧ください。
(動画の05:30~09:00参照)


APJ_02.jpg 国際交流基金賞授賞式で受賞の喜びを語る

一般的に日本人移民の歴史は5つの時期に分けることができます。1899年から1923年までの契約移民の時代。1924年から1939年までの呼び寄せ移民の時代。1940年から1952年までの困難な時代。1953年から1980年までのペルー日系社会の復活の時代です。
今日のペルー日系人社会の歴史は1981年から始まります。最初の日本人移民のペルー到着から今年で125年を迎えます。これは1873年8月21日に東京で調印された日秘和親貿易航海仮条約により可能となりました。19世紀末、日本は近代化を進め西洋諸国に対し門戸を開きました。その過程で多くの若い日本人がよりよい未来を求め海外への移住を考えるようになりました。太平洋の反対側ではペルーが砂糖産業の発展のために大量の労働者を必要としており、そのため両政府は日本人労働者のペルー入国を許可しました。
森岡移民会社はペルーへの移民誘致の宣伝を始めました。この会社は790人の若い日本人と契約し、1899年2月28日 (その若者たちを乗せた移民船)佐倉丸が横浜港から出航しました。最初の移民団は新潟県、山口県、広島県、岡山県、東京都、茨城県の出身の方々でした。34日間の航海ののち4月3日にカジャオ港に到着しました。翌日に移民の方々を契約した農場近くの港に降ろし、航海を続けました。移民の最後のグループはリマの南、カニュテ県のセロ・アスル港で降ろされました。790人の男の人たちはペルー沿岸アシエンダ農園で4年働く契約を結んでいました。雇用条件は20歳から45歳までで健康であることでした。契約では彼らの労働時間は1日10時間で賃金は契約で定められていましたが、実際には12時間以上働き、事前に合意された賃金が支払われないこともありました。多くの移民の方々がアシエンダ農場から逃げ出し、よりよい環境を求めて砂漠を横断しました。途中で捕まった方や、亡くなった方々もいました。
その後1903年に女性や子どもを連れた契約移民の第二陣が到着しました。移民の数は拡大し、契約移民が終了する1923年までに82回の航海で 計18,727人の日本人がペルーに渡りました。契約終了後、多くの日本人移民の方々は新たな機会を求めて都市部へと移り住みました。

移民が始まってからわずか5年後の1904年には1軒の日本人による美容室がリマに開き、1907年には25軒が開業していました。移民の方々は農民から短期間のうちに家族経営で自分の店を持つようになりました。田舎から都会へと移住した日系移民の方々のコミュニティーがボデガ(食料雑貨店)、カフェ、バザー、仕立て屋、レストラン、美容院等事業を立ち上げる勢いがあったことを示しています。
日系移民のもう一つの重要な特徴は組織力があったことです。この組織力で新しい土地に進出することができました。商人によるグループや県人会等が結成され、協力し合うことでより強くなることが認識されました。ペルーで最初の日本人組織は1907年に設立されたリマ美容師協会です。その後、商店主やレストラン経営者等のさまざまな組合が設立されました。
移民の方々は職種ごとの協会では不十分で、独立した沢山の協会に相互の繋がりがないことはリスクであり、ペルーの日本人コミュニティー全体を包括する機関が必要だと認識したのです。そして1917年に中央日本人会、現在のペルー日本人会が設立されました。

そして家族も増え、子どもたちの教育を心配するようになりました。教育は日本人移民の方々にとって非常に重要な問題でした。多くの方々はペルーでも日本で勉強を続けられるような基礎的な日本式教育を希望していました。
第二次世界大戦前までペルーの沿岸、山間部、ジャングル、及び15都市に50の日本人学校が点在していました。これらの学校は日本のカリキュラムに沿って教育していました。最初の日本人学校はペルー中央海岸のアシエンダ・サンタ・バーバラ・カニェテにありました。1908年に上野泰安和尚によって創立された学校です。
1920年にリマ日本人小学校、通称リマ・ニッコウが開校しました。ペルー国内最大の日本人学校です。リマ・ニッコウには約1800人の生徒と50人の教師がいました。1921年、リマ・ニッコウは日本人移民史上初の運動会を開催し、その伝統は今日までペルー日本人コミュニティーの一部として受け継がれています。そのビデオを皆様に見ていただきたいと思います。1939年の「運動会」はどのようなものだったのでしょうか。
(動画の15:04~18:15参照)

1924年から1939年、ペルーは日本人移民の受入れを続けていました。労働契約ではなく、ペルーに定住した日本人が日本にいる家族を呼び寄せる「呼び寄せ制度」を利用しました。彼らは家族の身元保証人となり、経済的な支払い能力を証明しました。新しいファミリービジネスには信頼できる従業員が必要で、兄弟や甥、親戚が最適でした。
「呼び寄せ」は日本人が互いに助け合う幅広い社会的ネットワークを意味するようになりましたが、すべての移民の方々が農業をやめたわけではありません。農業地帯に留まった方々も沢山おり、主に土地を借りてペルーの農業生産に大きな影響を与えました。
ペルーの独立100周年を記念して、日本人コミュニティーは自分たちを受け入れてくれた国への感謝の印として、インカのマンコ・カパックの記念碑を寄贈し、1926年にお披露目されました。1935年、リマ建都400周年記念と感謝の意を込めて、日本中央協会はペルーにプール・ニッポンを寄贈しました。初めてのオリンピックサイズのプールです。

ペルーに同化していたにも関わらず、1940年代初頭から激しい反日感情が始まりました。第二次世界大戦が引き金となり、日本が移民の協力を得てペルーに侵攻するという噂が流れました。1940年5月13日・14日の出来事です。棒や石等で武装した暴徒が日系人の商店等を襲いましたが、リマの警察は私たちを守るような行動はとりませんでした。第二次世界大戦へのアメリカの参戦はペルーの日本人社会に大きな影響を与えました。ペルー政府は自国をアメリカの同盟国と見なし、日本人社会に対し規制政策を取りました。1942年、ペルーは日本との国交を断絶しました。ペルー政府は日本の機関や市民の資金を凍結し、領事館と日本人中央協会を閉鎖し、コミュニティー新聞も閉鎖し、写真のリマ・ニッコウ等の日本人学校も接収されました。ペルー政府は日本人とその子孫、既にペルー人だった2世の方々も含んでいます、その方々をアメリカの強制収容所に送りました。

戦争が終結すると日系社会は平穏を取り戻しましたが、同時に祖国へ戻る希望も失いました。多くの家族はペルーの習慣や文化をより受け入れることを選びました。
この時期、新しい協会が設立され、1953年に活動再開した日本人中央協会のように戦時中に閉鎖された協会も活動を再開しました。熱心な二世の若者たちは、ペルーのさまざまなスポーツ、芸術、学問の分野に大きく進出し始めました。写真は1961年に結成されたセレナーデ・オーケストラです。日系初の音楽グループです。
この時期の最も大きな出来事の一つは、1953年、プエブロ・リブレ地区の10万平方メートルの敷地にアソシアシオン・エスタディオ・ラ・ウニオン(AELU)が設立されたことです。出会いと家族社会、そしてスポーツの場となっています。1955年には社会援助活動を柱の一つとする日本ペルー婦人会が設立されました。同年、日系中央会が戦後の活動を再開しました。フェルナンド・ベラウンデ・テリー大統領は第二次世界大戦中の日本人学校接収の補償の保証として、10,000平方メートルの土地を譲渡することを決定しました。
1965年8月18日、ペルー日本文化センター建設の最初の礎石が敷かれました。日本政府、日系企業、ペルーの日系コミュニティーの力によりペルー日本文化センターの建設が実現しました。1967年5月、明仁親王殿下、美智子妃殿下、フェルナンド・ベラウンデ大統領のご臨席のもとペルー日本文化センターが開館しました。1974年、ペルーと日本の国交樹立100周年を記念して、リマ中心部の博覧会公園内にある日本庭園と茶室が新たな友好のシンボルとしてリマ市に寄贈されました。

現在、ペルー日系人の数は約20万人、おそらく7世代に及ぶと推定されています。このような多様性の中で新しい世代を祖先の土地と文化に結びつける努力がなされています。1989年4月3日、ペルーへの日本人移住90周年を記念して、アラン・ガルシア大統領がこの日を「日本・ペルー友好の日」と制定しました。日本との友好関係を祝う日を制定した国はペルーだけです。
経済危機のため1980年代には多くの日系人が新たな仕事を求めてペルーから日本へ渡り、「出稼ぎ現象」と呼ばれました。その後1990年代に入り彼らの多くが帰国しましたが、かなりの数の方々もコミュニティーとして定着し両国の絆を深めることに貢献しています。

APJ_05.jpg 受賞記念講演会にてペルーにおける日系移民の歴史について語る(2023年10月20日)

日系コミュニティーはペルーの民族的・文化的多様性の一部であり、ガストロノミー、教育、芸術、文化等さまざまな分野に貢献し確かな足跡を残してきました。ここでは、これらの貢献とその主な代表者について簡単にご紹介をいたします。
料理は出会いと文化が混ざり合う場でもあります。日本人は、まず伝統料理の和食にペルーの食材を取り入れました。日系料理はペルー人があまり食べてこなかった魚介類の消費を促しました。文学の分野では詩人のホセ・ワタナベ氏の才能が際立っています。彼は常に現代の流行とは距離を取り、俳句のような日本の伝統的な詩の思慮深い技法を作品に取り入れました。次にアウグスト・ヒガ氏です。彼は小説や短編小説の中でリマの人気がある地区を描き、アンデスからの移民やアフリカ系移民、日系ペルー人のコミュニティーに注目し、ペルー文学の中で同世代の日系人の声を代弁しています。ツチヤ・ティルサ氏は神秘的な存在と夢のような雰囲気に満ちた作品で一時代を築きました。彼女の作品『トリスタンとイゾルデ』は歴史上最も高額で取引されたペルー絵画です。またベナンシオ・シンキ氏も非常に独創的な作品を発表しています。幼年期の要素や風景を絵画で表現し、原点に立ち返ろうとしています。日系人は、クレオール音楽の作曲家のルイス・アベラルド・タカハシ氏やアンデス民族音楽の歌手アンヘリカ・ハラダ氏、クラシック・ロックの歌手セサル・イチカワ氏等さまざまな分野で活躍しています。また元ペルー国立バレエ団の監督兼ダンサーのオルガ・シマサキ氏やパンアメリカンチャンピオンで世界準優勝者の空手家のアキオ・タマシロ氏もいます。
近年ペルーに到着し、ペルー社会に大きく貢献した3人の日本人を紹介したいと思います。最初に天野芳太郎氏。古代ペルーの文明を愛し、ペルー屈指の織物美術コレクションを誇る天野博物館の創設者です。そしてバレーボール・ナショナルチームの監督でナショナルチームを国際的な最高レベルに導き、ペルーのスポーツ界で最も記憶に残る監督の一人となった加藤明氏です。ラテンアメリカ在住の日本人シェフとして初めて日本文化とガストロノミーの普及に貢献したとして日本政府から表彰された小西紀郎氏。彼は日系料理の偉大なプロモーターの一人です。

現在、ペルーに日系人学校は4校あり、そのうち2校は第二次世界対戦を生き延びた学校です。1926年に設立されたコレヒオ・ホセ・ガルベス・デル・カジャオ、旧名はカジャオ日本人小学校です。その次にコレヒオ・サンタ・ベアトリス・ジシュリョウ。1928年に設立されました。その後1948年にはコレヒオ・ラ・ビクトリアが、そして1971年にはコレヒオ・ラ・ウニオンが設立されました。これらの日系教育機関は日本の言語と伝統を広め、ペルーの一般の方々にも教育を提供しています。

ここで私が会長を務めているペルー日系人協会(APJ)について少しお話します。APJは非営利団体で、福祉支援や文化振興の分野で活動を展開し、教育や保険サービスも提供しています。APJはペルーの日系コミュニティーと組織をまとめる代表的な機関です。その使命は日系コミュニティーの強化及びペルーの発展への貢献を主導し、そのレガシーを伝え、日系システムを構成する各団体間の連携を図ることです。ビジョンは、日系社会のアイデンティティ、結束、繁栄を強固なものとし、ペルーの発展に大きく貢献するビジョナリー・リーダーシップのもと、近代的に自立した組織になることです。それでは今からAPJの主な活動と分野をまとめたビデオをご覧ください。
(動画の28:45~36:23参照)


APJ_04.jpg ペルーの日系人コミュニティーを長年支えてきたペルー日系人協会(APJ)の活動を紹介するナカソネ会長

文化振興はAPJの主な目的の一つです。毎年、展示会、会議、文学コンクールや書籍の紹介、音楽演劇フェスティバル、映画祭等多様な活動を展開しています。ペルー日本文化センターは56年以上文化普及に貢献してきました。施設内には講堂や展示ギャラリーがあり、日本やペルー日系社会に関する2万冊以上のテキストを所蔵するエレナ・コハツ図書館があります。またペルー日本移民博物館には「カルロス・チヨテル・ヒラオカ」の施設もあり、移住過程や日系社会形成に関するさまざまな資料を展示しています。今年で30周年を迎える最も近代的な会場の一つです。そのほかにも柔道、空手、剣道、合気道等の武道を練習するための道場も備えてあります。
APJは出版基金を備えており、さまざまな出版物を発行しています。基金では源氏物語の初となるスペイン語の翻訳本を出版しました。2023年には日本の古典文学のスペイン語版2冊を出版します。『和泉式部日記』と『讃岐典侍日記』です。また日系社会とその歴史に関する研究と考察を促進するための研究基金も備えています。
APJは今まで日系の関係機関をまとめあげ、脆弱な人々のために連帯キャンペーンを行い、ペルーを襲う自然災害の際にも行ってきました。APJはリョウイチ・ジンナイ・レクリエーションセンターで日系コミュニティーの全メンバー、特に高齢者の福祉に注力しています。
またAPJは 芸術表現、手工芸、料理等の分野で個人の成長を促し、起業家精神を奨励するコースやワークショップ、職業キャリア専門コースを含む包括的な研修プログラムを提供しています。特に漫画、生け花、風呂敷、折り紙等日本語や日本の芸術の学習を奨励しています。
APJの日本語普及の部署は毎年全国で日本語スピーチコンテストを開催しているほか、日本大使館と国際交流基金が当校敷地内で開催する「日本語能力試験」を支援しています。またワークショップや学校訪問を通じた言語普及のプログラムも行い、新たにオーディオストーリーコレクションの制作も行っています。
APJには医療サービスを提供する2つの機関があります。その1つが日系ペルー人ポリクリニックです。1981年に設立され 30以上の診療科目の外来診療を年間100万人以上に手の届く価格で提供しています。日系ペルー人100周年記念クリニックは2005年に開院し、40以上の診療科目の外来及び入院治療を行い、新しいクリニックタワーの建設も計画しています。2つの機関が国内の医療イベントで最も重要なものの一つである毎年恒例の国際医学コースを開催し、科学研究を促進しています。

これら全ての活動は無償で活動する献身的なリーダーたちによって行われています。APJの理事会は20名で構成されていて、現在では1,600人を超える役員や従業員の努力によってこの機関は成長を遂げてきました。今年、私は41年前の祖父と同じように、光栄なことにこの協会を主催することになりました。

それでは最後にビデオを皆様に見ていただきたいと思います。これはTony SuccarがAPJに協力してくださったビデオです。彼は著名なミュージシャンで、ラテン・グラミー賞を2回、お母様のMimy Succarさんと一緒に受賞されました。NORA SUZUKIさんを迎え、日本音楽とラテン音楽を融合させた新しいバージョンの『Sukiyaki』『上を向いて歩こう』です。
(動画の40:56~46:08参照)

では、この最後の芸術的な動画をもちまして、講演を終了したいと思います。国際交流基金がこの度の機会を与えてくださったお陰で、ペルー日系社会やその歴史、ペルー日系人協会について発表することができ、深く感謝しております。ありがとうございました。

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