2019年2月号
森岡実穂(中央大学准教授)
2018年11月29日、青山のドイツ文化会館ホールにおいて、2018年度国際交流基金賞を受賞した作曲家の細川俊夫による受賞記念講演会「振動する夢の通路:能から新しいオペラへ―オペラ『地震・夢』を中心に―」が開催された。現代を代表する世界的作曲家のひとりである細川が、自らの作品世界を「能」との関わりに重点を置いて語った本講演は、非常に明晰な解説と、芸術家としての深い洞察を織り交ぜた豊かな二時間であった。
ゲーテ・インスティトゥート東京 ペーター・アンダース所長および国際交流基金 柄博子理事の挨拶の後、まず細川本人による講演が行われ、休憩を挟んで中央大学 縄田雄二教授を聞き手として、当日会場に集まった100人を超える聴衆も含めての質疑応答が行われた。
国際交流基金賞受賞記念講演会「振動する夢の通路:能から新しいオペラへ―オペラ『地震・夢』を中心に―」にて聴衆に語る細川俊夫(右)と聞き手の縄田雄二中央大学教授。(2018年11月29日)
内容・形式の両面で大きな影響をもたらした「能」
細川のオペラ作品は、現代作品としては破格の頻度で欧米各地で再演されている。《班女》(初演2004年)は、既に通算上演60回、《松風》(初演2010年)は52回を数えている。合計大小七つのオペラが毎年世界各地の劇場で上演され続けている細川は、間違いなく現代においてもっとも重要なオペラ作曲家のひとりなのである。
講演会第一部では、細川本人により、この七本を通しての創作の軌跡が語られた。彼によれば、「これらのすべては、何らかの形で能の影響を受けた作品」である。大きくまとめるなら、日常の動きを脱する様式化された動きの追求という形式面での影響、そして作品の上演を通して「魂の浄化」が行われるという内容面での影響の二つに分けられるだろう。
ミュンヘン・ビエンナーレの委嘱で書かれた第一作《リアの物語》(初演1998年)は、独自のメソッドを持つ演出家・鈴木忠志との協働で作り上げられた。細川がいわゆる「オペラ」の中で感じていた日常的な身体への違和感を超える手段として、能などを中心とする日本の伝統演劇の身体のありかたを基礎としてつくられた「鈴木メソッド」の様式化された所作は有効であった。この後細川が、《班女》初演を演出したアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルや《松風》初演を演出したサシャ・ヴァルツといった独自の世界観を持つコレオグラファーたち、そして現代音楽とコラボレートしながら新しい能のあり方を模索している現代能の青木涼子などと積極的に一緒に仕事していくことになる必然性もここにその根があるのだろう。
講演会第一部では、《松風》(スライド写真上)など、細川本人により作品の創作の軌跡が語られた。
「魂の浄化」による「鎮魂の音楽」へ
《リアの物語》に続き書かれたのは、三島由紀夫『近代能楽集』(ドナルド・キーン英訳)を原作とした《班女》と、同名の能からハンナ・デュプケンがドイツ語台本を書いた《松風》。特に《松風》に顕著ないわゆる「夢幻能」の形式は、彼の音楽的世界観とおおいに響き合うものであった。
「私が能に興味を持つのは、能が、心に深い哀しみを持った亡霊が、橋掛かりを通ってこの世にやってきて、歌い語り舞うことによって、その哀しみを浄化させるという構造を持っているからです。私が音楽に求めているのは、そのような魂の浄化の力です。」
2011年3月11日、東日本大震災と津波、それに続く原発事故が発生した。この時細川はベルリンで、5月にブリュッセルのモネ劇場で初日を迎える《松風》の上演準備を進めていた。この大きな災害を受け止めつつ創作をしていく中で、細川は「哀しむ人たちのために何ができるか」と考え、福島のための鎮魂の音楽を書いていこうと思うようになったという。
エドガー・アラン・ポーの詩を原作にした室内オペラ《大鴉》(初演2012年)を経て、細川はハンブルク州立歌劇場の委嘱により《海、静かな海》(初演2015年)を作曲する。この作品で脚本を依頼した平田オリザに細川は、能『隅田川』をテーマにして、福島で津波のため子を失った母親の哀しみを重ねてほしいという希望を出したという。主人公のクラウディア(スザンヌ・エルマーク)は、大震災と津波で日本人の夫と自分の連れ子だった息子を失ったがその事実を受け入れられない「狂女」として登場する。この日の会場では、義姉ハルコ(藤村実穂子)が、かつて二人で観た能『隅田川』で唱えられていた念仏を皆で唱えることで彼女に哀しみを乗り越えさせようとする、圧倒的な迫力を持つ場面が上映された。
「私が音楽で成しとげたいことは、音楽的・聴覚的な"橋掛かり"、その夢と現実、狂気と正気、あの世とこの世を結ぶ橋としての"音のトンネル"をつくることです。これを通過することで、人にはその魂の深い悲しみを軽減することが、少なくとも、小さな光をその闇の中に見つけることができるかもしれない。」
とりわけ、細川の音楽世界において、中心にいる女性歌手は、「巫女」として観客の聴覚・身体を揺さぶり、現実世界と超現実的な世界の間に橋を架けてくれる存在なのだという。同じく平田オリザ脚本による《二人静》(初演2017年)は、日本の静御前の霊が、現代欧州の難民の少女に憑依するという、まさにいま現在の世界情勢を反映した設定となっている。そしてその世界の現実と超現実を繋いでみせるのが、能役者の青木涼子とソプラノ歌手シェシュティン・アヴェモの「歌」の力であったことが、パリ初演の映像を通して会場に伝えられた。
《地震・夢》―日本とヨーロッパの文化的協働作業
《地震・夢》は、2018年7月にシュトゥットガルト州立歌劇場で初演された。東日本大震災直後に友人の文学者に薦められたハインリヒ・フォン・クライスト『チリの地震』をオペラ化する構想を練った時、細川の頭に浮かんだイメージは、ベルク《ヴォツェック》の最終場面のように、両親を失ったフィリップという少年がひとり茫然と立っている姿だったという。これを聞いて、脚本を担当したマルセル・バイヤーは「彼が最初から舞台の上にいて、聴覚的・知覚的に夢のようにこのオペラを体験することで自分の出自を知る」という構造を思いついた。
身分違いの恋人たちに子どもが生まれ、群衆が二人を糾弾し処刑しようとした瞬間に大地震が起こる。人間の圧倒的無力を思い知る状況の中で人々は一瞬彼らへの寛容な気持ちを取り戻すが、「この地震こそ彼らへの天罰」とそそのかす扇動者の言葉に乗せられ、群衆は二人と、彼らに預けられていた別の夫婦の子どもを虐殺してしまう。その夫婦は、自分の子供のかわりに殺された恋人たちの子・フィリップを育てていくことになる。そして成長した少年は自分の出自についての「夢を見る」、それがこのオペラとなるのである。
「橋掛かりとしての夢への通路は振動している。その振動は音楽的な振動、美しくやさしい自然の波動・響きでもあれば、地震のような恐ろしい自然からの脅威の振動でもありうる。フィリップは、この"振動する夢の通路"の中にあって、音楽的に自然の脅威、やさしさ、人間がつくりだす寛容や、集団のヒステリー、脅威を体験していくのです。」
《地震・夢》はまた、2011年から18年までの、演出家ヨッシ・ヴィーラーがこの歌劇場のインテンダント(総裁)を務めた体制の最後を飾る作品でもあった。講演会後半に縄田教授が指摘していた通り、ヴィーラーと、彼を常に支えてきたドラマトゥルクのセルジオ・モラビトの下、シュトゥットガルト州立歌劇場は2016年には独オペラ批評誌『オペルンヴェルト』の年間最優秀劇場にも選ばれるなどひとつの黄金時代を迎えており、本作制作にあたってはそうした劇場に相応しい最高の布陣を整えていた。演出にヴィーラー&モラビト、舞台美術には彼らの盟友である名匠アンナ・フィーブロック、指揮には欧州各地の名劇場を歴任してきたこの歌劇場の音楽監督であり読売日本交響楽団常任指揮者でもあるシルヴァン・カンブルラン。
そしてオペラにとってなにより重要な脚本は、現代ドイツ文学界を代表する詩人、マルセル・バイヤーに依頼された。彼のテクストは実に難解で高度な重層的詩的言語にみちていて、細川は何度も「弱気になった」が、その度にこのチームが叱咤激励、説得を繰り返してくれたという。実際に作曲が進んでいく中では、むしろ彼の詩の音楽的な響きを手掛かりに「言葉」の根源に近づくような感覚が創作の力となったという、音楽家ならではの受容のエピソードも語られた。
作曲の諸段階におけるドイツ文化センターの支援も大きかった。縄田教授をはじめとする日本のドイツ文学者たちと原作『チリの地震』を精読する読書会は、細川の作品理解に大いに貢献した。またセンターの招へいで2017年4月に制作チーム四人が来日した際、細川・カンブルランと共に福島第一原子力発電所周辺の現在を見学した旅は、これから共に創っていく作品のイメージを共有する重要な土台となったという。
そして上演にあたっては、キーパーソンであるフィリップ役を、長年ドイツ語圏の主要な劇場で活躍してきているハンブルク・ドイツ劇場専属女優・原サチコが演じ、まさに舞台の要として高い評価を得ることになった。《地震・夢》制作において、ドイツの劇場文化や文化行政にかかわる人々、日本のドイツ文学界や伝統文化の担い手たち、グローバルに活躍するアーティストたち、こうした人々の力が合わせられ化学反応を起こしたプロセスこそまさに国際交流基金賞受賞に値するものだったと言えるだろう。
世界の現実を前に芸術にできること
最後の質疑応答で、「地震を知らない地の人々に地震の物語を伝える難しさはないか?」という問いに対し、細川は《海、静かな海》も《地震・夢》も、「福島」という特定の場所を描いているのではなく、大きな自然災害も「地震」「津波」に限るものではない、「世界のどこででも起きうる問題」として共有してもらいたいのだと回答した。最初に霊感を与えたのは福島の現実への鎮魂の思いであっても、芸術として昇華させる段階ではより普遍的なものが目指されているのである。世界で起こっている悲惨な具体的現実とこのオペラがどうかかわるか、という問いへの答えも、同一の姿勢の上にあるものだろう。
「我々は本当に、無力だと思います。でも、それがどういう形で"現実"にかかわっていくかはわかりませんけれど、現実に負けないくらいの強いアートをつくっていくこと、みんなで一緒に力強いオペラをつくっていくということには何か意味があるんじゃないかと思うのです。」
こうして芸術の普遍的な力を信じて真摯に創作に取り組む彼が、今後も私たちにどんな「振動する夢の通路」を体験させてくれるか、非常に楽しみになる講演会であった。
森岡実穂
中央大学経済学部准教授。専門分野は表象文化論、ジェンダー批評、十九世紀イギリス小説。著書に『オペラハウスから世界を見る』(2013年)、論文に、「台本および最近の上演にみるベルリオーズ《トロイ人》の現代性」(2014年)など。