コンスタンティン・キリアック(シビウ国際演劇祭 総監督)
ルーマニアの中央に位置する都市シビウで1994年にスタートしたシビウ国際演劇祭は、イギリスのエディンバラ、フランスのアヴィニヨンに次ぐヨーロッパ有数の演劇祭として知られています。日本からもこれまでに故・中村勘三郎氏、野田秀樹氏、野村萬斎氏などが招かれ、日本の舞台芸術をヨーロッパの人々に披露してきました。また、120名を超える日本人がこの演劇祭にボランティアスタッフとして参加しています。こうした国際友好親善、文化外交への貢献が高く評価され、シビウ国際演劇祭がこの度、2015年度国際交流基金賞を受賞しました。演劇祭の創設者であるコンスタンティン・キリアック総監督の受賞記念講演の模様をお伝えします。
(2015年10月23日 東京芸術劇場シンフォニースペースでの2015年度 国際交流基金賞受賞記念講演より)
2015年度 国際交流基金賞授賞式(2015年10月19日)
70か国が参加し、約430の舞台が上演される、世界最大規模の演劇祭
1788年にラドゥ・スタンカ劇場が建てられ、古くから演劇活動が盛んだった文化都市、シビウ。ルーマニアがチャウシェスクの独裁政権下にあった時代、言論の自由を奪われた市民にとって演劇は、怒りや嘆き、喜びを共有することのできる数少ない表現活動の一つでした。ただ、市民の文化や芸術に対する意識が高かったとはいえ、国外に出ることを許されなかったルーマニアの人々が、演劇を通じて外国と自由に文化交流を図ることは不可能でした。
その状況が、1989年のルーマニア革命によって一変。舞台を中心に俳優のキャリアを積んできたコンスタンティン・キリアック氏は、世界への扉が開かれたのを契機に演劇祭立ち上げの足がかりを得たのです。
シビウ国際演劇祭の歩みについて語るコンスタンティン・キリアック総監督
「チャウシェスク政権の崩壊直後、私は単独でベルリンに行きました。革命で炎上してしまった劇場を再建するための援助を呼びかけることが目的でしたが、これが欧州各国と関係を築く第一歩となったわけです。
1992年、欧州文化首都(EU加盟国の1都市が1年間にわたり文化行事を展開するプロジェクト)の指定都市から、私は俳優として招待を受けました。ちょうどボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が始まった年で、文化人や芸術家はこの時、サラエボをもう一つの欧州文化首都に指名するようサラエボの役人たちと共に委員会に働きかけます。文化人たちのこの要請は受け入れられ、EU加盟国ではないサラエボにも限定的に欧州文化首都の名称が与えられることになりました。
文化・芸術は何と素晴らしい力を持っているのか。私はそう実感し、同時に「シビウで演劇祭を立ち上げよう」という意欲と「いつかはシビウを欧州文化首都に」との思いを抱いたのです。
その決意通り、1993年にシビウで初めて演劇祭を開催しました。ただしそれは学生の演劇祭で、3か国から8組の劇団が参加。今の形のシビウ国際演劇祭を立ち上げたのは1994年のことです。
当初は「ワールド・シアター・デイ」の3月27日に合わせて数日間の日程で行っていました。1996年以降は5月末から6月前半にかけての10日間開催していましたが、その後、シビウが最も美しい季節となる6月中旬に会期を移し開催しています。
現在、参加国は70ヵ国に上ります。2015年は10日間に427のプログラムが上演されました。そのプログラムも、演劇をはじめバレエ、コンテンポラリーダンス、フラメンコ、大道芸、音楽など実に多彩です。そして期間中は毎日、6万5000人もの観客が詰めかけます。
演劇祭の会場となるのは、劇場だけではありません。屋内外合わせて67の会場を設け、シビウの町全体をシアターとして活用しています。実はこの試みこそが、演劇祭にとってもシビウ市にとっても重要なのです。
自分の町を演劇祭によって発展させようと考えた場合、まず舞台を見に来る人々の啓蒙が必要となります。そして、これまで劇場と縁のなかった人に足を運んでもらうためには、プログラムの質的向上が不可欠です。
そう考えて私たちは、演劇祭の質を向上させるべく努力を重ね、上演するプログラムを厳選してきました。その成果として、演劇祭のメイン会場でもあるラドゥ・スタンカ劇場は今や93ものレパートリーを持ち、上演プログラムは毎回、チケットが完売するまでになっています。これはひとえに、新たな観客層を生み出した結果と言えるでしょう。
このようにシビウの町を変え、演劇祭を発展させた原動力は何だったのか。それは、人々の演劇に対する強い思いに他ならないのです。
今やシビウ市の予算の12%を文化事業が占めていますが、おそらく、世界で最大の比率ではないでしょうか。そして、これらの文化事業は次年度予算の16%をもたらします。
外国の人々に演劇祭に足を運んでもらうことによって、シビウの観光産業やサービス産業は潤います。戦略さえしっかりしていれば、文化事業に対する投資は十分な還元を生み出すのです。シビウ国際演劇祭がまさに、それを証明しています」
国内外から観客が詰めかけて盛り上がる演劇祭会場
日本からも多数の劇団やカンパニー、ボランティアスタッフが参加
シビウ国際演劇祭は日本とも関わりが深く、1995年の第2回目に劇団1980を招いて以来、野田秀樹氏、野村萬斎氏、劇団黒テント、レニ・バッソ、劇団山の手事情社など、日本の劇団やダンスカンパニーを継続的に招聘してきました。その数は現在まで73団体に上ります。
今回の講演会でキリアック氏は、故・中村勘三郎氏率いる平成中村座による歌舞伎公演『夏祭浪花鑑』(串田和美氏 演出)の招聘を2008年に実現させるまでのエピソードを披露しました。
「実は2000年頃から、中村勘三郎さんをぜひ演劇祭に招聘したいと考えていました。初めてお会いした時の勘三郎さんとの会話を、今も覚えています。
『私は日本の文化財なんです。だから、120万ユーロの保障がないとなかなか海外に行くことができません。もし行くとしても、役者とスタッフを合わせてメンバーは総勢80名になるので、飛行機が3機は必要になります』
勘三郎さんはそうおっしゃいました。つまり、万が一のことがあっても公演を行えるよう、メンバーを3機の飛行機に分乗させる必要があるということでしょう。さらに勘三郎さんは、『海外で歌舞伎を上演する際は、少なくとも4回以上の公演を条件としています。私たちはニューヨークでもロサンゼルスでも4つの演目を上演し、歌舞伎の海外公演を成功させました』と続けました。
この話を聞けば、普通は無理だとあきらめるのではないかと思います。しかし私は、絶対に勘三郎さんを招聘し、歌舞伎の舞台を実現させてみせると心に誓ったのです。
2007年、シビウが念願だった欧州文化首都に指定され、私たちは演劇祭でこれまでにない大規模な舞台に挑戦しました。社会主義時代の工場を改装し、120名が出演するプログラムを上演したのです。残念ながら勘三郎さんにはお越しいただけませんでしたが、この舞台を演出家の串田和美さん、平成中村座マネージャーの田中さんという方に見ていただきました。
お二人は舞台をご覧になったあと、工場を1時間ほど見学したでしょうか。その間に勘三郎さんの意向を確認したのだと思いますが、見学後にこうおっしゃったのです。『勘三郎がシビウの演劇祭に参加するとなった場合、この工場で歌舞伎を上演することはできますか?』と。
私の答はもちろん、『イエス』でした。
こうして2008年、シビウ国際演劇祭での平成中村座の歌舞伎公演が実現したのです」
シビウが欧州文化首都となった2007年はまた、EU・ジャパンフェスト日本委員会事務局によるシビウ国際演劇祭へのボランティア派遣事業がスタートした年でもあります。以降、2015年までに127名の日本人がボランティアスタッフとして演劇祭に参加。2014年からは正式にシビウ国際演劇祭ボランティア参加プロジェクトとして定着しています。
日本人ボランティアスタッフの活躍についても紹介
「欧州文化首都の準備委員会を発足させた2006年、私はEU・ジャパンフェスト日本委員会と関係を築き、演劇祭にとって重要な意味を持つプロジェクトを立ち上げました。それは、演劇祭で公演を行う劇団やグループをサポートするボランティアのプログラムです。
実際に始動したのは2007年で、その時は日本から25名のボランティアスタッフが演劇祭に参加してくれました。それ以降も毎年、最低でも15名は参加してくれています。
このプログラムのユニークなところは、演劇祭開催中の10日間だけでなく開催前後の各10日間、つまり約1か月にわたって滞在してもらう点でしょう。
その間、ボランティアたちにはルーマニアの一般家庭にホームステイしてもらいます。互いの文化や生活について理解を深める機会にしてほしいと考えたからです」
世界の教育機関、劇場と連携しながら舞台芸術のリーダー的役割を担う
実は、キリアック氏の活動はシビウ国際演劇祭の総監督と俳優業だけに留まりません。2000年にはラドゥ・スタンカ劇場の総監督に就任。その後の活動が評価され、劇場は2004年に国立劇場となりました。さらにシビウ大学の他、世界の15の大学で演劇科の教授も務め、教育にも深く関わっています。
「シビウ大学に演劇科を設けたのは1997年です。そして2000年には、ルーマニアの大学で唯一の文化マネージメント科を新設しました。この学科のカリキュラムは演劇祭、劇場、他大学などと連携した実践的な内容になっています。
2018年に向けて新たな戦略も計画中です。舞台芸術と文化マネージメントの博士課程のプラットフォームを作りました。現段階で欧米とロシアから19の大学が計画に参加してくれています。今回の来日中に日本のいくつかの大学の方々ともミーティングの機会を持つことができました。
このように世界中の大学と交流を深め、同時に博士課程のプラットフォームを作るためのたたき台を整備していきたいと思っています。この取り組みが進めば、国を越えて舞台芸術の知識を共有できるようになるでしょう。
大学以外にも、世界のさまざまな劇場や機構と協力関係を築いています。たとえばパリのオデオン座、ブリュッセルやトリノの王立劇場、ニューヨークのブルックリン音楽アカデミーなどがその一例です。
3年ほど前から、演劇人の存在意義についても考え始めました。
ロサンゼルスにはエンターテイメント界で活躍したスターを讃える『ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム』があります。きちんと権利を取得した上で、シビウでも同じことができないだろうかと考えました。
それが2013年に実現し、『シビウ・ウォーク・オブ・フェーム』には今、18名の演劇人の名前が刻まれています。ペーター・シュタイン、ピーター・ブルックなどです。
2013年に中村勘三郎さん、そして2015年には串田和美さんの名も刻ませていただくことができました。私にとっては、この上なく嬉しいことです」
(編集:斉藤さゆり/講演会の撮影:相川健一)
コンスタンティン・キリアック(Constantin Chiriac)
シビウ国際演劇祭の創設者、総監督。舞台を中心にキャリアを積み、ラドゥ・スタンカ劇場の俳優として活躍。2000年より同劇場の総監督も務める。2015年はシビウ国際演劇祭が国際交流基金賞を受賞した他、同演劇祭の総監督(個人)として外務大臣表彰を受賞。