菊池智子(ヒンディー語翻訳家)
国際交流基金ニューデリー日本文化センターでは、今年度、戦後70周年平和事業として、インドの公立学校の生徒50名と平和教育用ビデオ『つるにのって-とも子の冒険』の鑑賞会、広島の平和記念館へ奉納するための折鶴アート制作を行いました。また、生徒、大人のそれぞれに向けて『わたしがちいさかったときに』の朗読と、参加者自作の詩の発表会を開催しました。
今年度の事業の基となり、昨年行われた『夕凪の街、桜の国の朗読劇』について、本漫画のヒンディー語翻訳者で朗読劇の講師をつとめた菊池智子さんにご寄稿いただきました。
朗読劇のチラシ
インド発、日本漫画の朗読劇
70年前の8月6日、広島に原爆が投下されました。昨年の8月6日は国際交流基金ニューデリー日本文化センターにて、インド人俳優5名による漫画「夕凪の街、桜の国」ヒンディー語版の朗読劇を開催しました。
被爆した女性の10年後の悲劇や被爆2世についてを描く同漫画は、2013年に日本語からヒンディー語に直接翻訳され、現地出版社ワーニープラカーシャンより「Neerav sandhya ka shahar, Sakura ka desh」として出版されました。このような形で日本の漫画が翻訳出版されるのはインド初の試みです。当地で漫画は子供向けとの認識が強いのですが、あらゆる分野をカバーする日本のマンガ文化は成人向けでもあるとの理解が近年浸透しつつあります。
漫画の朗読劇はとても珍しい試みでした。このプログラムのおもしろい点は、日本ならこのような朗読劇はありえないということです。漫画は本来個人で楽しむものなので、日本の読者には作品に対する独自のイメージがあります。漫画原作の映画ですら、ファンにはあまり歓迎されないほどです。一方、インドの観客にとっては漫画も朗読劇も馴染の薄い今回のプログラム。観客は事前に配布された手元の漫画を読みながら俳優の朗読を聴きます。つまり、漫画を読みながら舞台からのセリフを聞くという二つの動作を同時にしなければなりません。漫画の読み方、コマの進み方をよく知らない大人が多く、セリフとイラストを同時に楽しむのは非常に難しい作業です。しかもヒンディー語版も日本語版と同じく右綴じなので、インド人にとっては通常の逆から読む感覚になるので混乱します。その上この漫画は、日本人でも一度では理解しづらい作品です。このような状況なので、舞台終了後には、漫画を自分ひとりで読むよりも朗読劇のほうがとても分かりやすく楽しかったという意見や、すごいお話で感動したという声が多く、原作の力と役者の演技力を証明する結果となりました。
(左)漫画を読むインド人生徒たち、(右)朗読劇の様子
漫画の朗読劇は役者にとっても新しい挑戦でした。演技中、観客は終始手元の漫画を見ていて基本的には役者を見ません。もしかしたら観客は舞台の役者ばかり見るかもしれないとの予想もありましたが、そういう人は一人もいませんでした。このような環境を理解し今回の舞台を引き受けてくれた役者の方々には心から感謝しています。
若い世代の記憶残る、平和教育プログラムを
朗読劇終了後、大学生が私のところに来て、自分の大学でも朗読劇をぜひ開催したいと伝えてくれました。私にとってこの朗読劇を実現するのと同じくらい大切な事は、終わった後にありました。この朗読劇が原爆や平和について考える機会になってほしい。一緒に時間を過ごした方々が、家族や友人に朗読劇のことを語り伝える側になってほしい。そうなって初めて今回の試みは成功すると考えていたので、彼の申し出はとても嬉しいものでした。後に、彼の通う大学でも朗読劇を開催することができました。
朗読劇の感想を発表するインド人生徒
本年は被爆70年、日印両国の生徒の交流や、70年前被爆した子供たちの声を綴った「わたしがちいさかったときに」を今のインドの子供たちに紹介しました。未来を担う若い世代の記憶にしっかりと残る平和教育プログラムをこれからも続けていきたいです。
菊池智子(きくち ともこ)
ヒンディー語翻訳家。1992年よりインド在住。2005年にジャワハルラル・ネルー大学(インド、ニューデリー)でヒンディー文学博士号取得。著作に「マハーデーヴィー・ワルマの世界観」(PARMESHWARI PRAKASHAN社、2009年)がある。絵本「ひろしまのピカ」(NATIONAL BOOK TRUST INDIA社、2011年)、平和アニメ「つるにのって」DVDヒンディー語吹き替え版(虫プロダクション株式会社、2012年)、漫画「夕凪の街桜の国」(ワーニープラカーシャン社、2013年)、漫画「わが指のオーケストラ」(ワーニープラカーシャン社、2015年)のヒンディー語翻訳を手掛ける。その他、日印の日刊紙各誌に執筆。2012年には第9回世界ヒンディー語大会賞受賞(インド政府主催)。国際交流基金ニューデリー日本文化センターにて、日印文化交流プログラム、現地公立学校生徒対象の平和教育ブログラムなどを開催。