加藤 徹生(起業家/一般社団法人World in Asia理事)
国際交流基金(ジャパンファウンデーション)は、2013年2月に日本の社会企業家をインドに派遣し、ニューデリー、マトゥラ、バンガロールにてフィールドワークや現地の社会企業訪問など、日本とインドの社会企業家による交流事業を行いました。
このインド訪問のコーディネーターを務めた加藤徹生さんが、具体的な交流を通じて、未来志向の対話が生まれた様子をレポートします。
なお、この7月には、インドの伝統医療の変革を担うラジブ・バスデバンと社会起業家のムーブメントをインド全土に拡げていこうとするアラティ・ラクシマンの2名が来日し、様々な分野で先駆的な取組みを行う日本の社会企業家とさらに対話を深める予定です。
「例えば、大分の湯布院や別府地域で培ったまちづくりのモデルやプロセスデザインをひょっとしたら使えるんじゃないだろうか。」「そして、そんな構想の中で、地域や国境を越えたリーダーシップを育てることができないだろうか。」
この日印交流事業の発端となった、問いかけの一つだ。
本プログムの最終日のワークショップはインドの首都、デリーの都市部にある国際交流基金事務所で行われた。デリー近郊の社会企業家、NGO関係者を招待し、それを受けて、日本の社会起業達が学びを共有する。そこから何ができるか、という未来志向のセッションだった。
多くの国際会議は一様な参加者が集まり、短時間で合意可能な機能論や利害関係に終始する。が、今回のセッションは互いの関係から生まれる何か、を信じてみようか、という気にさせられた。
互いの社会的文脈を理解しようとすること。その上で、お互いの立ち位置に耳を傾け、潜在的な連携の可能性を具現化しようとした。
インドと日本を重ねあわせて、できること
「日本の都市、農村構造から、インドが学べることは何か。インドの農村や地域の空洞化を前もって防げるとすれば?」と問いかけが始まった。「小さなステップから地域のブランドはつくれる。インドの地域活性化のために先駆的なアートイベントや日本のチャネルを使えないだろうか」という提案に続き、「安価で安全な医療・教育を必要としている状況は共通している。むしろ、行政の規制がこれから始まるインドで新しいモデルが作れるのではないか」と洞察が飛び出す。そして「このような関係性こそが新しい発想や想像力を生む。その中どういう課題やテーマを共有していけるのか、具体的なアクションを設定しよう」と連携そのものを仲介と話が進んでいく。
これらを受けたインド側の参加者からは、インドと日本の都市と農村の表面的な違いは大きいが、ひょっとすると、同じような課題解決や、もしくは、問題そのものを未然に防ぐような学びが得られるのかもしれない、という感覚が拡がり始めた。その上で、日印の都市、農村の発展の類似点を探り、そこから新たな問題解決のあり方を探ろうした。
インドのBOP(低所得者層)ビジネスの先駆的存在のドリシテ社の共同創設者、ニチン・ガチャヤットは、地域における「持続可能な観光」の事例に耳を傾け始めた。観光はインドの地域開発においても重要な要素で、ドリシテ社も重点開発したいという分野の一つだった。
NPO法人 BEPPU PROJECT事務局長だった林曉甫は、「地域にあるものを見つけるところから、開発は始まる。外にあるものを持ってくる必要はない。ドリシテが既にやっている職業訓練でさえ、小さな情報発信を始めれば、ブランドに変えることができる。日々の活動や地域の歴史をブログで発信するだけでもいいんだ。その延長線にブランドがあるだけだから」と自らの経験を伝える。
日本のまちづくりモデルをインドに援用できないか議論するドリシテ創業者ニチンとBEPPU PROJECT林氏
インド側から出席した病院経営者に対し、1年以上健康診断を受けていない日本人3,300万人をターゲットに「ワンコイン健診」を展開している川添高志(ケアプロ株式会社 代表取締役)は、即興で事業連携の提案を始めた。その病院経営者は川添の持つ、医師が立ち会わなくても使える簡易型のヘルスチェッカーに興味を示し始めた。
子どもの教育支援を行なうNPO法人アスイクの代表、大橋雄介は、彼が東北で展開する低所得者層向けの教育プログラムを説明する。日本とインドの社会環境の違いを越えて、教育や医療という課題は大きくのしかかっており、それに対する解決策はなお求められている。
最終日のワークショップで、インドの病院経営者に即興で事業連携の提案をするケアプロ・川添氏
ラフール・ナイワルはインド各地で長期ボランティアの斡旋とそれを通じたリーダーの育成に取り組むNPO、iVolunteerの代表を務める男だ。彼は、"現場で感じ取ること"(Sensing)と"そこから夢見ること"(Visioning)の重要性を共有する。それを受けて日本側のメンバーは、具体的な次のプログラムのあり方を模索した。アジア共通でユースリーダーの育成を担えないか、日本の企業と連携することはできないか、国際協力機構(JICA)のプログラムとの連携の可能性はないか、と対話が弾んだ。
都市部で働く人と農村で活動するNGOをつなげる役割を果たす「iVolunteer」を設立したラフール・ナイワル氏
異なる社会の問題は、どうすれば対話できるのだろうか?
異文化を理解する、しかも、社会起業家のようにデリケートで繊細な問題を対話する。そんな時に決まって起きるのは、「進んでないもの」への無理解だ。"途上国"や"先進国"というラベル自体が、何か直線的な発展をイメージさせる言葉だが、"持たざるもの"ほどそのような言葉遣いに敏感な傾向を感じる。
衛生環境を比較すれば、日本より、インドが劣っている。が、我々はそれを「汚い」と断じて良いのか。そこから、発展的な議論を行うことができるのか。久保隅綾(大阪ガス行動観察研究所主席研究員)はこのような異文化の観察のプロフェッショナルとして活躍するが、彼女は「ネガティブな言葉を使わない」だけで、関係性は変えられる、という。
とはいえ、何がネガティブで何がポジティブか、なんて、相手の社会的文脈を理解してからじゃないとわからない。「なぜ、インドでは職業が選択できないの?」という質問がカースト制度への無理解に映ることもあるし、むしろ、逆に職業選択の自由が少しずつ拡がりつつあるインドのポジティブな側面を捉えた質問に映るかもしれない。 "インド"と日本人は想像したがるが、人口10億人を越え、広大に拡がるインドという国家をどうして"一つの地域"として想像する必要があるのだろうか。
僻地と都市を往復することで、"想像力"を養うことができないか?
我々は二都市、一地域を旅することに決めた。僻地を見る、というのは一見の日本人にとっては難しいのだけれど、まず胸を貸してくれたのは、ドリシテ社だった。
ドリシテ社はインドの僻地に特化して流通業を築く、という通常のビジネス戦略から言えば、真反対側にある戦略を取った企業だ。ICTを駆使し、日々の尽力を重ね流通網を最適化し、ようやくインド北部に流通網を築き上げた。全ては、貧困層や僻地の住民があらゆる商品やサービスを"高く"かわざるを得ないというジレンマを解消するための活動だった。
「NGOや行政、企業、あらゆるプレイヤーが日々、訪れ、そして、帰ってこない。我々は流通業だから、日々、定期的に訪れる。それが村人たちとの信頼関係を産むんだ」と語ったのは、ドリシテ社のプレジデント、シッダルタ・シャンカールだ。我々が訪れたのは、デリーからバスで4時間かかるマトゥラという小都市だ。そこにはドリシテ社の大動脈になる"支店"がある。日々このような支店から、毛細血管のように食品から水、衛生雑貨のような生活必需品がインドの僻地へ届けられる。
ドリシテ社のマトゥラ支部を訪れ、活発に質問を交わす参加者たち
マトゥラのマーケット
(左)ドリシテのマトゥラ事務所、(右)ドリシテによる支援を受ける小売販売者
(左)ドリシテのコンピュータ教室、(右)ドリシテのコンピュータ教室で将来の夢を笑顔で語る生徒
インドの情報都市バンガロールでは隆盛するIT企業群を"卒業"したプレイヤーたちが、こぞって社会企業に飛び込んで行く。アショカ財団、ソーシャルベンチャー・パートナーズ(SVP)など世界で名を馳せる社会企業のインド支部がここに名を重ねるにはやはり、意味があるのだろう。ソーシャル・イノベーションを研究するシンクタンクから、投資ファンドまで。ビジネスのメソッドと、社会的問題解決のメソッドがまさに融合しつつある。
デリーでは、貧困の根深さと彼らの"尊厳"の問題を考えさせられる。訪れたのはグーンジというNGOだ。彼らは古着を貧困層に提供するが、無償では提供しない。対価として、コミュニティ開発――橋の建設、灌漑、井戸の建設など――に参画するよう要求する。グーンジの代表、アンシュ・グプタはこう言う。「物乞いは都会の習わしだ。決して、田舎で認められることではない。地方の貧困層はむしろ、物を買いたいと思っている。」と。アンシュが提供したのは、古着ではなく、むしろ、尊厳を守る手段だった。コミュニティの開発に自ら参画した貧困層は奉仕を讃えられ、また、衣服をも手にする。
(左)アンシュ・グプタ、(右)古着を仕分けする女性労働者たち
(左)梱包され地方へ発送される古着、(右)古着は無駄なく再利用される
都市の農村、もしくは、中心と辺縁を往復する中で我々が目にしたのは、途上国から先進国へという直線的な発展ではなかった。それを表している事例の一つは、バンガロールで訪れたアーユルヴェイド医院かもしれない。彼らは伝統医療の可能性を"再定義"することで、貧困層でも購買可能な新たな医療サービスを生み出そうとしていた。品質のバラ付きの大きい伝統医療に、統計管理の手法を持ち込み、貧困層をも苛む慢性病への特効的なサービスを生み出そうとしていた。多くの参加者の眼差しに残ったのは、伝統医療の革新そのものではなく、むしろ、見過ごされがちな"そこにあるもの"が、社会を変えていくという現実だった。
(左)アーユルヴェイド医院のオフィス、(右)ラジブ・バスデバン(アーユルヴェイド医院)
異なる社会から、異なる可能性を見出す
最終日のワークショップにおける対話。その背景にあったのは、インドの社会的文脈、――まだ、わずかなものかもしれないが――を理解しようとする日本人参加者の姿勢にあった。
そして、インドの都市部、農村部を駆け巡る中で参加者の中に共通するような感覚が生まれた。ひょっとすると、日本のいくつかの分野の先進事例は世界的に優れていて、ひょっとしたらインドに転用できるんじゃないか。日本が抱えている課題をインドがこれから経験するとすれば、それを予防的に防ぐことができる、いた、むしろ、既に世界の問題は共通化していて、国境を越えて発想やリソースを持ち寄ることでずっと早く問題が解決できるんじゃないか、と。
グループごとに発表を行なう日印の参加者
今後の日印協力について具体的に話し合った
本事業で目指したのは、①日本の社会起業家が "国境を越えた想像力"を養う機会とすること、②具体的な交流を通じて、未来志向の対話、連携を産み出すことだった。結果として起きたことは、これまでの描写でお分かり頂けるのではないかと思うが、その鍵となったのは、日本側およびインド側の参加者の"多様性"が「都市と農村」というキーワードの中で一定のベクトルを持ち、編集されたことだ。
それが参加者の想像力をかきたて、社会的文脈への深い洞察を生んだ。また、それ自体が、対話や連携の源になる。最終日のワークショップで上げられたようなトピックは予めデザインされたものではなかった。また、多くの参加者の英語力は低く、通訳を介しての対話となった。にもかかわらず、創造的な議論ができ、アイデアはアイデアで終わらず、生まれでたいくつかの連携は前に進みつつある。
「主語」を変えていく必要性
社会は変わらない、日本の成長は止まった・・・・。我々はどれだけ"線的"な発想にとらわれてしまっているのだろうか。この交流プログラムで見たのは、我々が"あたりまえ"だと思っている"何か"が、隣人達にとって、新しい洞察をもたらすのだという現実と、隣人たちの試みが我々の視界を開き、また、我々の目をふさぐ "違い"を可能性として、社会を変えていけるらしいという感覚を場にもたらしてくれた。社会は今、ここで、揺れ動いて、あらゆる枠組み越えた、一つの一つの出会いの中で変わろうとしている。
モデレーターを務めた個人としては、自身の力不足もあり、課題も多く、かつ、可能性も多いプログラムだったと思う。インド側と日本側の期待値を調整することから、インドでアポイントを取り、みなを無事に、時間通りに連れて行くことがどれだけ困難なことだったか。その上で、英語でファシリテーションを行い、必要に応じて、解説をするという疲労。プログラムが終わって数日の記憶は残っていないくらいだ。だけれど、それを何かがこれから生まれる"第ゼロ回"のようなスタートだと考えれば、やはり実りが多くなるのではないだろうか。次のステップとして、考えることが一つだけあるとすれば、やはり、「主語を変える」必要があると考えている。
当事者意識を持って、自らを確認し、語る。自ら足を運び隣人を理解すること。それが、問題と可能性の両面をはらむこのアジアの多様性を、社会を動かすクリエイティビティの源泉に変換するたった一つのやり方だと思う。
全ての参加者がプログラムを担う側として最終日を迎えることができ、その過程には多くの参加者の献身的な言葉や行動があった。全ての関係者と機会に感謝をして。
加藤 徹生(かとう てつお)
1980年大阪市生まれ。東北の復興を目指す社会起業家に投資を行う一般社団法人World in Asia理事、経営コンサルタント。起業家、そして、事業開発のプロフェッショナルとしてソーシャルベンチャーの変革、スケールアウトのプランニングおよびその実践に約10年間携わる。NPO法人ETIC.では起業家育成モデルの地域展開に関わり、その後、NPO法人G-netでは事務局長として経営再編をリードした。2009-11年12カ国を旅し、ソーシャル・イノベーションのケーススタディを著書「辺境から世界を変える」にまとめ出版。