林泰彦
アートユニット「パラモデル」
©paramodel
僕らの制作スタイルからか、ここ5年間くらいは滞在制作をすることが増えてきている。2007年の国際芸術センター青森でのレジデンスを皮切りに、日本各地と、海外では中国・インドネシア・韓国・オーストラリア・リトアニア・台湾・シンガポール・アメリカなど、今はアジアと環太平洋諸国が中心だ。現代美術作品を制作している関係上かどうかは分からないが、滞在先のほとんどがその国の第一もしくは第二の都市である事がほとんどだ。
そして今回は、国際交流基金ベトナム日本文化交流センターでのパラモデル個展、「パラモデルのプラモデルはパラモデル」(2012年2月17日~3月11日)のために約1ヶ月間ハノイで滞在制作を行った。
パラモデル個展、「パラモデルのプラモデルはパラモデル」の様子
ワークショップの様子
大抵の場合、3週間から1ヶ月間程度となる滞在制作では、毎回いろいろな人たちと一緒に作品を制作することになる。兄弟が多く、一杯の親戚と家族に囲まれて生きてきた僕にとってはこういう生活はなんら苦にならない。
いつも作品制作を手伝ってもらうのは、だいたい4~6人程度の現地アシスタントと通訳である。英語をあまりうまく使う事ができないということもあるが、ダイナミックなインスタレーションではあるが、緻密な作業を求める僕にとっては通訳の存在は重要だ。作業を手伝ってもらうアシスタントや通訳は、現地の芸大生や芸大卒業生、若手美術作家が多く、彼らのほとんどは、その国の素材仕入れ先や、美術シーン、サブカルチャーに精通しており、毎回興味深い場所や、おいしい料理店などに連れて行ってくれる。彼らは僕らの制作を手伝ってくれるばかりではなく、普段の旅行ではすることが出来ないであろう経験をさせてくれるのである。
作品制作の様子
ありえへんからおもしろいへと変化する交通事情
ハノイに着いて最初に驚いたのが、この都市のユニークな交通事情についてである。空港から文化交流センターに行く道中、道行く車のほとんどがクラクションを何度もならし、日本ではあり得ないような車線変更を繰り返しながら、お世辞にも広くて奇麗とは言えない道路を突っ走って行く。日本育ちの僕たちには見慣れないその運転作法は、例えるなら牛の群れのようであり、規則正しいパレードの様な日本のそれとは大違いである。ハノイの車のほとんどは、対向車線にまで余裕ではみ出していくし、少ない信号のほとんどを無視しながら混沌とした道路の中を時速30キロメートルくらいの超スロー運転で突っ走って行く。行き先から目的地までほとんど止まる事はないくらいである。
もちろん、道路には車ばかりが走っている訳ではない。古い都市であるハノイの狭い道路には歩行者や自転車も多く通っているのである。こういう交通事情であるからには、歩行者はこのような車やバイクが突っ走っている道路を横断しなければならない。しかし、僕の初めてのハノイの道路横断は、正直のところ、なぜか嫌では無かった。嫌どころか、何かユニークで楽しげであった。車やバイクの群れの中に、生身の体でゆっくりと吸い込まれて行くような感覚である。その横断中は決して立ち止まってはいけない。ゆっくりと一歩一歩前進していく。立ち止まらなければ、道行く車が、僕の体の動向を読みながら、数メートル手前から徐々に僕を避けて行ってくれるのである。ただし、その時の車の速度は一定の時速30キロメートル以下である。その体験は、僕が子どもの頃に良く見ていたテレビアニメ『あしたのジョー』のワンシーンで、少年院からの脱出を試みる主人公、「矢吹ジョー」がその養豚場から全ての豚をかっさらい、凄まじいスピードで走る豚の群れと共に少年院の強固な塀を突破しようと試みるワンシーンで、その豚の群れの中に軽やかなフットワークで入って行く、ジョーの最大のライバルである「力石徹」が、矢吹ジョーの少年院脱出を阻止するワンシーンを思い出させた。しかも、気付けば、僕はとっさにiPhoneを鞄から取り出してムービーを撮影していた。予想の通り、ただ道路を渡るだけのこのムービーは、日本育ちの僕にはある種異様で、とても新鮮なものとなった。もちろんこの後の滞在期間を通して、僕のお気に入りの道路横断ムービーは数カ所で撮影されることになる。
過積載のおもしろさ
交通ルールだけが常識はずれなだけでなく、その車内も異様な事も少なくはない。すし詰めのような車内の運転席や助手席に数人の人が乗っている事は珍しくはない。そのように書けば、ただ一つの車に定員を超えた人が乗っているだけのように思える。現に、日本でもやってはいけないが、しばしばこういう行為は目撃することもある。しかし、ハノイでのそれは、本当に日本での常識はおろか、世界の常識をも逸脱している。ある車では、一つのシート、しかも運転席に多くて3人の人が座っている事もあった。それは、ハンドルを握っている運転手とシートの背もたれの間に2人ほどがサンドイッチされている様な状況である。
このような過積載は、もちろん乗用車だけにとどまらない。通勤時のバスは超満員で、同じくそのシートには折り重なるように人がいっぱいサンドイッチ状のレイヤー構造になって座っているらしいのである。
実はそんな、ハノイの過積載ルールはとどまる所を知らない。ハノイでは法律で朝から夜9時までの大型トラックや工事用重機の都市部への乗り入れは禁止されている。よって、現地の職人さんや商店の配達車はトラックではなく、バイクの後ろがリヤカーの荷台のようになっている日本では見かけないバイクの類いで配送される。そのバイクトラック、略して「バイトラ(?)」「トライク(?)」(日本ではおそらく、このように呼ばれるであろう)は重機・トラック好きの僕にはたまらなく素敵に見えた。日本のピザ配達に使われる「屋根付きバイク」や、タイの「トゥクトゥク」に似ていなくもないが、ハノイの「トライク」はもっと、贅肉がそぎ落とされた印象がある。そんな武骨さがなんとも言えず「かっこいい」のである。
ハノイの「トライク」
制作のための素材は、どんな場合でも毎回自分で探しに行く事が僕のポリシーである。もちろんその都市によって異なるが、見つからないものは別のもので対応したりもする。僕らの代表作である「パラモデリック・グラフィティ」のメインの素材は日本製の鉄道玩具が中心であるが、それ以外にベニヤ板、スチロール、釘、マスキングテープ、両面テープ、グルーボンド、人工芝、砂そして玩具などがその他の素材である。
日本や欧米では、ホームセンター(DIYショッピングセンター)がもの凄く発達しており、これらその他の素材は下手をすると1件のホームセンターだけで購入することができる。
しかし、アジア諸国では未だこのホームセンターがほとんど無く、専門店でしか購入する事ができない。その専門店のほとんどが、道具屋街にあり、専門店街が形成されている。たとえば材木であれば数件先まで材木屋さんが密集しているし、その他の素材も同様である。
今回のハノイでもそれは例外ではなく、そのほとんどは、広さ12畳くらいの細長い小さなお店で、大抵の場合そのスペースは、その店が扱っている素材で満たされている。お店というよりは倉庫である。そのキッチリ並べられた陳列方法になぜかいつも感心し見蕩れてしまうのは僕だけではないとおもう。
商品がキッチリ並べられた専門店
話がだいぶそれてしまったが、素材を調達するために行った、ルオン・ヴァン・カン通りという道具屋街で凄まじいものを目撃してしまったのだ。お気に入りのあの「トライク」が道端にはよく停まっているが、その様子が何かおかしいのである。シルエットがおかしい。そう、その「トライク」に積載されている資材が、それの積載量を余裕でオーバーすることによって、別の何ものかに変化しているのである。それは、紛れも無く「トライク」ではなく、「資材の塊」なのである。
「資材の塊」と化したトライク
そんな、「塊」は道具屋街だけではなく、市街地でも見かけることができた。ベトナムと言えばこれという竹製で編まれた三角帽子をかぶったおばさんが、自転車を押しているのであるが、その自転車の周りには、ブラシだのポリ製品だのが一杯くっ付いている。なんと、それは自転車商店なのである。それらのおばさんは大抵器用に自転車を押し歩き、そこに取り付けられた製品を道行く人たちに売り歩いている。ごく稀に、その自転車に股がって漕いでいる姿も目撃することもあった。その多くは日用品を売り歩いているが、稀に植木、花、サンダルや靴などをその身にまとったものまであった。
美術作品では、同じ種類のものを沢山組み合わせて、立体作品やインスタレーション作品が、ブリコラージュの手法によって制作される事が多々あるが、この商店主はまさしく「ブリコロール」であり、しかも自分自身も「ブリコラージュ」作品の一部分になっているのである。
自転車商店
友人・藤崎の奇天烈伝説
僕の大学時代の同級生に藤崎という奴がいた。当時、藤崎は北星寮と言う京都芸大付近にある男子寮に住んでおり、彼の部屋の隣には僕が住んでいた。彼は、道端に落ちている家具を拾い集める癖があり、6畳くらいしかない彼の寮の部屋は常に家具で満たされていた。片付ける事の出来ない藤崎の部屋は常に模様替え中のようであり、その収集癖のピーク時には、なんと、脚の踏み場も無いくらいの家具が置かれ、藤崎は家具の間を縫って眠っていたらしいのである。
その藤崎が家具を収集する時に使用するのは、トラックや車などではなく、そば屋や新聞の配達員が決まって使用する、藤崎愛用の排気量50ccの「カブ」という、バイクなのである。持ち前の、ラグビーで鍛えた体と運動神経、そしてクレイジーな彼の思考が、その「カブ家具運送」を可能にしていた。
少し位の棚や引出し箪笥は、そば屋の出前持ちのように運ばれる。たとえ大型の家具でも彼にかかれば、バイクのみで運ばれるのである。ある日、藤崎は、学校から5キロ程度離れたゴミ捨て場から3人掛けのソファーを大学まで運び込んだ。その運搬方法は奇天烈で、なんと「カブ」のシートの上に、3人掛けの長いソファーを置き、そのソファーの上に自分が座り、そのままバイクを運転するというものであった。例えるなら、藤崎とソファーとバイクのミルフィーユである。その時、藤崎が3人掛けソファーに腰掛けながらバイクを運転する姿を目撃したドライバーはこの、ミルフィーユをみて、さぞかしびっくりしたことだろう。
ハノイに来て久しぶりに、この藤崎の奇天烈伝説を思い出してしまった。京都芸術大学で奇天烈伝説を一杯生み出した、あの藤崎すらも、ここハノイでは変人ではなく、常人になってしまうのではないだろうか。過積載「トライク」や「ブリコラージュ自転車」をみてからというもの、思い出し笑いが止まらなかった。
ハノイ式屋台について
ハノイでもう一つ気になったのが、道端での人々の生活である。アジア諸国は屋台文化が盛んであるが、ここハノイもその例外ではなかった。多くの場合屋台にはテントがはられ、椅子やテーブルがその中に並べられるが、ハノイではテント等の屋根になるものを設置する事は無く、椅子やテーブルのみが道端に置かれる。トラックは昼間街に乗り入れる事ができないので、その並べられる机と椅子は薄いプラスチック製で、とても軽くて低いのだ。日本のお風呂屋さんで良く目にする、体を洗う時に使う椅子の様なそれに座っている人々は、何か可愛らしく、その異常に低い位置に座る道端の人々のせいもあって、通常はパブリックであるはずの歩道が、あたかもプライベートな空間であるかのような錯覚に陥ってしまう。視線の位置が家の中でのそれと近いのである。
異常に低い位置に座る道端の人々
これらの屋台の多くは、むき出しのコンロと食材の入ったカゴのみである事がほとんどで、一人力で移動できるようになっているものがほとんどである。しかし、それらの屋台は器用に揚げ物料理や鍋料理までも網羅しており、味もとても美味しく、しかも驚くほど値段が安かった。
時には、お店と言うスペースを持ちながらも、店のオープン時には一切のものが、その中から排除され、道端にその全てが移動してしまうお店も少なくはない。そういった店舗に共通する事は、その内部は客室ではなく、調理場になる事が多いと言う事である。調理場といっても、そんな大層なものではない。ただの七輪やカセットコンロが無造作に並んでいるだけである。スペースを持ってまでもまだ、あえて道端に飛び出して行くこれらの商店をみると、ハノイの人々の「道端」へのこだわりが本当に強いものである事がよくわかる。
日本でもたまに目にする、屋台やオープンカフェ、とは違ったハノイならではの露店もしばしばあった。「道端理髪店」である。人の家の壁に鏡を設置し、それに対面しながら、例の散髪椅子に座って野外で髪をきってもらう。きり終わった髪の毛も、「道端」に散らばり、風がそれらを吹き飛ばして行く。
でも、そんな「道端理髪店」もなぜか、リクライニングできるあの散髪屋さんっぽい椅子は、日本のそれと同じようなタイプなのである。普通の椅子でもできなくはないが、さすがそこは散髪屋、こだわりの様なものも感じる。
プライベート道端
先にも書いた通り、ハノイでの交通ルールである、「昼間の運搬トラック都市部乗り入れ禁止」という法律が実は、ハノイのような都市の特徴を型作ったとも言えなくはないと考える。
別の事を取り締まる法律が、このような一種異様なおもろいハノイの「道端」を作り出したかもしれないのである。街の「道端」がパブリックな空間から、プライベートな空間に変容する理由が、トラックという運送手段の要を都市交通網から排除することと直結していると考えられる。
普通、パブリックであるはずの所謂「道端」は、ハノイでは、人々のプライベート空間であり、もちろん移動のためのパブリックな通路でもあるのだ。パラモデル以外に、僕が組織している、現代美術「お風呂」制作ユニット「(ゆ)」(「かっこゆ」と読む)では、こうしたハノイの「道端」カルチャーに共通した思考で作品を制作している。この「(ゆ)」というユニットでは、普通は超プライベート空間であるはずのお風呂を、公共の空間に露出させたり、あるはずも無い場所に湯船を設置したりする事がその活動の一端である。
今度もし、再びハノイに滞在制作や作品展示の機会を得たならば、僕はこのハノイのおもろい「道端」を題材にした作品やインスタレーションを制作するだろう。いつ呼ばれるとも分からない架空の展覧会を空想しながら、様々な作品やプロジェクトのプランニングを考えているところである。でも、ハノイは、凄まじく激変しているアジア、ベトナムの都市である。今度僕が行く頃には全く別の都市に変容しているに違いないだろう。
林泰彦(はやし やすひこ)
1971年東大阪生まれ、2001年京都市立芸術大学美術学部卒業(構想設計専攻)。中野裕介とアートユニットとして2001年より活動開始、2003年にユニット名を「パラモデル」に。得意領域や趣向の異なるパラレル [parallel] な2人が、『パラモデル [paramodel]:世界や心の様々な部品から組み立てる、詩的な模型/設計図』というコンセプトを核に共存、互いの視差 [parallax] と関係性を生かし、2人による「模型遊び」という要素をベースに、多様な形式で作品を制作している。