綿矢りさ ドイツ、イタリア講演の旅

綿矢りさ(芥川賞作家)


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 ドイツとイタリアに行って講演やその他現地作家との交流などを深めてみないかと誘っていただいたとき、初めに思ったのは、「え、私が行っていいの?」だった。なにせ書いた小説がドイツ語訳とイタリア語訳されているといっても、それは五年以上前の話。ドイツではとっくに絶版になっている。私は行きたいけど、講演しに行っても、ほとんど人が集まらないんじゃないかな?三人くらいだったら誰を見ながらしゃべろう?と人気のないホールの寒々しさを想像して躊躇していた。
 結局なぜ行こうと思ったかといえば、新しいことに挑戦してみたかったからだ。うまくできないかもしれない可能性に怯えて二の足を踏むのは、私の生まれもっての性格だが、うんざりしていた。
いっちょ行ってみたらどうかと誘ってくれる人がいる、必要とされると臆病者も奮起する。十日間でケルン、ベルリン、ハンブルグ、ローマの四都市をめぐる旅が始まった。


講演が思いがけないほど緊張し難航した、旅先で出会う人々との交流が最初うまく行かなくて焦った、諸国の作家が集まる場で自分の意見をうまく言えず口惜しい思いをした......。この旅で苦労したことは何かと聞かれれば、そんな答えを返したい。でも正直なところ、私にとって一番の難敵は飛行機だった。
日本からドイツまでの十三時間ほどの空のお散歩。私は酒をあおり、睡眠剤も飲むという完全にアウトな併用をして、腹下しを覚悟しつつも、やたら澄み渡っている思考が早く鈍麻してくれることを願っていた。願いはむなしく、時折気流の乱れで起こる揺れに心のなかでおおお、おおおといちいちリアクションしながら、一睡もできず目的地へ着陸。飛行機が落ちるかもしれないとは思っていない。(いや心の底では思っているからこんなに恐いのだろうか)純粋に空を飛ぶという異常行動をしているさいちゅうの自分が信じられないし、居心地の良い機内でリラックスしている他の乗客の心理状態も信じられない。楽しむなんてできずに、ひたすら、孤独と揺れと恐怖に支配される。優しいスチュワーデスさんに一時的に惚れる。


たどり着いたケルンでは、ケルン日本文化会館の方々が空港まで迎えに来てくれた。空港からホテルまでの夜道、広い道路を走っているときに見えたケルン大聖堂の美しさは忘れられない。東日本大震災の折には、ケルン大聖堂でミサが開かれて、鐘が鳴ったという。ライトアップされた城のような大聖堂は、今回の旅でもっとも心惹かれた建築物だ。時間の空いた午前中に、案内していただいて屋上まで登らせてもらった。どこまでも続く螺旋階段をめまいを起こしながら登り終えると、ケルンの街が眼前に広がり、しかし私がもっとも見たいのはこの高さからの大聖堂だと思い当たり、大聖堂の内部から大聖堂の全貌を見渡すことが不可能なことが少し歯がゆかった。一階はステンドグラスの美しい教会で、クリスマスや新年をこの場で迎えられたら、どんなに気持ちが晴れ晴れと高揚するだろうかと想像した。
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ケルン大聖堂での様子

ケルン一日目は、ケルン市内の高校で日本語を専攻している高校生たちとの交流。生徒たちは歓待してくれて、日本や小説に対する質問をしてくれたので答えた。日本人とドイツ人のハーフの子は一人で、他の子たちはルーツは様々で、一見日本とはなんの関係もなく見える子たちがほとんどだ。なぜ日本語を学ぼうと思ったのかと私が一番不思議に思ったことを聞くと、インターネットで日本の文化を知って興味がわいたと答えた子が多かった。また学校側も日本語教育に力を入れていて、日本語を完璧に話せるドイツ人の教師の存在が大きいようだった。教えられる人が一人でもいれば、人が集まってきて学習する場になるのだなと感慨深かった。私がレディーガガが好きだと言うと、何人かの女子が躍りあがるように喜んで、私も私も、となっていたのは嬉しかった。私より背の高い子たちがほとんどだったが、いかにも高校生の初々しい瞳をしていて、ほのぼの。
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ケルン市内の高校生たちとの交流

次はボン大学へ。こちらにも日本語のプロの、言うことがいちいちおもしろいひょうきんなスイス人の教授がいらっしゃって、ボン大学で日本文化について学ぶさまざまな年齢の方々と交流した。日本人の割合が多く、ずっと日本語で気の向くまましゃべり合った。印象に残ったのは、ギリシャをどう思う?と聞いたときに起こった議論。「ギリシャは非常に長い歴史があり、世界的に見ても重要な地なので、できる限り救いの手をさしのべるべきだ」との意見のドイツ人もいれば、「でもギリシャ人は我々ドイツ人が働いているときにシエスタばかりしている」との意見もありで、日本語の通訳が追いつけないほど白熱していた。私は本当にどちらの意見も均等に正しいなと思った。教室には東日本大震災で被害を受けた人たちへ祈りながら生徒さんたちが折った千羽鶴が飾られていた。募金活動も盛んだったという。ドイツでもこんな風に心配してくれる人たちがいたんだと感動した。

ケルン二日目、いよいよケルン日本文化会館での講演会。拙著をドイツ語翻訳して下さったマンゴルド氏と日本文学専門の大学助教授、レーゲルスベルガー氏との対談式の講演。会場には日本人ドイツ人共に、予想以上の人数の方々が来て下さって、人の集まらない怯えが霧散した。「蹴りたい背中」と「勝手にふるえてろ」のドイツ語版を、地元の女子高生二人が朗読。ドイツでは小説の朗読会が盛んらしく、割と長い頁分を女子高生が一生懸命読んでくれた。スポットライトが彼女たちに集まり、いっしんに文章を音読していくさまは、私はドイツ語が分からなかったものの、迫力が伝わってきたし、なにより肉声を通しての文章は命を与えられて生き生きとして、いままで知らなかった朗読の魅力に気づいた。レーゲルスベルガー先生は、ドイツ語版の「蹴りたい背中」の表紙がアニメ絵の女の子であることが、読者の幅を狭めたと熱弁。本書の内容にあまり合っていなくて、出版社の意図ばかりが見える表紙、と。言われてみればそんな気もしてきたが、その本が出版されたおかげでドイツに来れた私としては、文句はつけがたく、また訳して下さったマンゴルド氏もすぐ隣にいらっしゃるので、彼女の気持ちを害したくなく、特に意見は言わず心のなかで同意しておいた。日本人的な心の動きといえるかもしれない。基本事なかれ主義なので、なにか強く言いたい意見が見つからず、来てくれた人には物足りなかったかなと少し後悔。講演のあとの反省会では、ちょっと予定調和に進みすぎたので、次からアドリブを入れて行こうという意見が出た。次からの私の課題はアドリブとなった。
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ケルン日本文化会館での講演会
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地元の女子高生二人が小説を朗読

次の日、ドイツ人小説家マリー・マルティンさんとの対談。対談といっても、非常に楽しいおしゃべりで、小説を書くことへの愚痴が盛り上がった。女優業もされているとても綺麗な方で、ドイツ風のおしゃれも似合っていて、彼女と風通しの良いカフェで話していると、なんだかすごく洗練された気分になった。が、あとで撮ってもらった写真を見ると、私は私のままだった。いまでもカフェボウルを両手で包んで飲むマリーさんの美しさが忘れられない...。
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ドイツ人小説家マリー・マルティンさんとの対談

ベルリンへ移動し、森鴎外記念館へ。ベルリン市内のアパルトマンに突如出現する森鴎外がベルリンにいた頃の部屋を再現した部屋。非常に感激して、歓声を上げながら突っ込んでいってしまった。森鴎外の部屋、というよりも、ヨーロッパの小説に出てくる昔の部屋がそのまま再現されているようで、小説世界が現実になったような、不思議な感覚がした。古めかしいベッド、書き物机、色あせたコットンのリネン、洗顔桶、天井まである煙突みたいな大きなストーブ。どれもが小説のなかから出てきたみたいで、どんなホテルの内装よりも感動した。しかもすべて触れるし、椅子に座れたりする。本当に素敵だった。森鴎外について、館員の方が丁寧に説明してくれた。ベルリンではモテモテで、たくさん引っ越しをして、医師のせいか潔癖症といってもいいほど細菌についてうるさかったと、俗な面ばかり覚えていて申し訳ないが、完璧超人と思っていた森鴎外の意外な人となりも知れて、親近感を持った。
ケルンのときと同じメンバーでまた講演会、課題のアドリブをいくつか挟んでみて、聴衆の反応をうかがう。一人、とても頷いてくれる日本人を発見して、勇気づけられ、最近の日本文学の女流作家における、性と暴力の過激な表現について語る。普段の生活で抑圧されているものが、創作現場において噴き出しているのではないかと。女流作家は~、なんて話ぶりだったが、サンプルは自分一人。結構図太くなってきた自分を発見。この講演会でもベルリン在住の女優さんがドイツ語訳を朗読してくれたが、神経質な怒りやもどかしさが炸裂し、迫力があり聞き入った。赤ワインを飲みながら朗読する彼女はこれまた美しかった。誇張でなく薔薇のようだった。

次の日はハンブルグ。ひょいひょいと移動したかのように、楽々と書いているが、どの移動も国内線の飛行機で移動で、私は慣れもせず搭乗一時間前から顔を青くして言葉少なになる。今回の旅でずっと同行してくれた鈴木さんとお話することで、なんとかメンタルを整え、自分をだましつつの搭乗が続く。
ハンブルグは一見してお金持ちの街で、川に面した高層マンションはどれも豪華、賃料も普通じゃ払えないぐらい高いと聞いた。広々として倉庫街も美しい、絵葉書のような街だが、なんとなく寒々しかった。日曜になるとどこの店も一斉に閉まり、カルチャーショック。日曜日、ハンブルグ市民は働かずに美術館などに行って過ごすという。徹底してどこのお店も閉まっている大通りに、ショーウィンドウを見るしかない観光客たちがそぞろ歩いていた。
講演会も海運会社の大きなビルの、広々としたロビーの一角を借りて開催された。同じメンバーのなかに新しく司会者の方が加わり、彼は自由人で、まさにアドリブの達人だったが、予定調和がもっとも安心する私としては自由すぎて戦々恐々としていた。来て下さった方々のなかに、週刊文春を定期購読されている日本人の奥様がいた。海外でも日本の雑誌をお読みになる気持ちを知り、私もこれからもがんばって発信していきたいなと、やる気が出た。

ハンブルグからミュンヘン、ミュンヘンからローマまでの飛行機で事件が。定時から大幅に遅れて出発したローマ行きの飛行機が空港着陸前に、一度雲の下へ降りたあと、また雲の上へ。どうやら空港上空が混んでいて、着陸できなかったらしい。揺れる、揺れる。気絶寸前な自分を恥じたが、着陸後、機内が乗客の拍手に包まれた。着陸というより帰還という言葉の似合うフライトだった。

のんびり、のんびり行こう、焦るな、絶対焦るな!焦るの絶対に許さないから覚悟しておけ。ローマの人々は厳格にのんびりの規律を守る。せかせかする癖のある私にとっては、のんびりしつつも、違う意味で緊張感のみなぎる街である。晴れた日に一人で観光へローマ市内へ出ると、太陽の似合う、開放感があるが歴史ある建築物に囲まれた最高に美しい街だった。戦争で建物を焼失したドイツに比べて、ローマは町並みほとんどすべてが昔のまま。京都も、これくらい昔そのままに保存したまま都市として発展することはできなかったかと思いながら、スペイン坂やポポロ広場を散策。近代の享受を存分に受けつつも、歴史ある建築物は守り通す、そのバランスは、のんびりを厳しく守るイタリア精神と共通したものがあると感じた。

ローマ日本文化会館での、翻訳家パストーレさんとの講演も、のんびりは厳密に守られた。ドイツでは講演の二時間前から現地入りし、一時間をかけて打ち合わせを行ったが、ローマでは一時間前に現地入りし、打ち合わせは一切しなかった。パストーレさんが打ち合わせを禁じた。「だってすべて決めちゃったら、おもしろくなくなるでしょう?その場でそのとき感じたことをゆっくりしゃべればいいのよ」
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ローマ日本文化会館での、翻訳家パストーレさんとの講演

パストーレさんは著名な翻訳家で、とてもおしゃれで、心の暖かい優しい婦人だった。ゆったりした彼女の話し方には気品があり、私は彼女の使う日本語を聴いていると心地よかった。秋といってもまだまだ暑いローマでの、ゆったりしたどこか物憂げなおしゃべりの雰囲気は、講演でも引き続き流れ、聴いている人たちもゆったりしていた。講演後、何人かの熱心なイタリア人が、日本文学や私の本について質問に来てくれて、来た甲斐があったなあとありがたかった。 イタリア料理のおいしいこと!想像よりもシンプルだが、チーズも肉もパンもパスタも、新鮮で口に入れたとたん口が驚くほどおいしかった。たくさん出てきて、ついに食べられなくなり残すと、給仕の男性がとても残念そうな顔をして、皿を引き下げてくれないのには笑った。

そして、帰国。帰国の飛行機のなかではなぜかクイーンを聴き続け、やたら高揚していてあまり恐くなかった。無事こなせたことがうれしかったみたい。
こうしてふり返ってみると、旅の楽しかったことばかりが思い出される。旅の魔力に驚かされる。新しい経験ばかりで、平凡な穏やかないまの日常から見ると細部の一つ一つが輝いて回想される。小説は誰かが訳してくれなければ海外へは伝わらない。しかし誰かが訳し、紹介してくれることによって言葉の壁を越え、まったく違う文化圏の人間にも伝わる。情報量の多い映像と違い、文字だけですべてを伝える小説は、いくらか多く壁があるが、実際に現地に赴いてみると、結局は心と心の通じ合い、壁だなんだと難しく考える必要はないのだと思い至る。国と国との距離を感じさせない、暖かく気軽な交流を、小説を通じて実現したいと感じた旅だった。



写真:ケルンでの様子:June Ueno    ローマでの様子:Mario  Boccia

risawataya07.jpg 綿矢りさ
1984年 京都府生まれ。2001年17歳で『インストール』で第38回文藝賞を受賞し作家デビュー。2004年19歳で『蹴りたい背中』で芥川賞を史上最年少で受賞。最新作は『勝手にふるえてろ』、『かわいそうだね?』



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